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第10話



 ※



 冬の冷たい朝日が、道場を朗らかに照らしていた。


 日当たりのよい木材の床は人肌の如き温もりを宿し、静謐な黙想の深度を深める。


 常設の空手道場であるそこは、生徒であるならば誰でも立ち入る事のできる場所ではある。

 けれど、この時間、この瞬間だけは誰も訪れる事はない。



 その神聖さを、犯しがたいと誰もが思うからだ。



 誰もいない厳かな道場で一人、男が正座をしながら心を静めていると、情趣のある足音がかすかに響いた。


 それでもなお、男が目を瞑り続けていると、足音は男の眼前で止まったようだった。


 その足音から、そこに誰がいるか半ば確信を持ち、声をかけながら瞼を上げる。


「久しぶりだな、楓等」


 そうして瞼を開いた先にいる人物をみて、あぁ、やはり彼女か、と寂寞を湛えて男は目を細める。


 その要件を、どこかわかっていたからだろう。


 長く黒い長髪に、キャップとネックウォーマーをつけていた。彼女らしくない装いではあったが、それよりも、目を引いたのは男に差し出していた黒い帯だった。


「これを、返しにきた」


 楓等がずいっとさらに差し出したのは、金の刺繡が横一線に刻まれた、まだ硬い新品同然の帯。


「…これは、お前がまだ高校一年でありながら大人に混ざって世界大会に出場し、優勝したことを称え、範士より賜ったものだ。返す道理はない」


 と言っているにも関わらず、彼女は押し付けるように男に帯を渡した。

 そのまま男を通過して歩き、背を向けたまま座り込んだ。


「…もう一年やってないし、結局、それも数回しか巻いてない。もう、私に空手は出来ない」


「何故だ?」


 男の質問を受けて、後ろからやや驚いたような声が返る。


「ネット、見てないの?」


「お前が不治者だというアレか?」


「なんだ、知ってるじゃん」


「だから、何だという?不治者だろうが人間であろうが、お前はお前だろう。何も変わりはせん。来たいなら、いつでも来い」


 男にとっては当たり前の事を言っただけだった。けれど、後ろからは気持ちの良い笑い声が響く。


「ははっ、先生らしいや。そうだよね、先生はそんなの気にしない人だよね。でも、私が来たら皆に迷惑かけるから」


 彼女に何があったのか。何も知らずとも、何か大きな事に巻き込まれているのだと察する事は出来た。

 だからだろうか、男はいつになく感傷的に言葉を探した。


「…夢はどうする?」


「夢?」


「お前の、女の空手家で史上初の百人組手を達成するという夢は、どうする?」


「……もう、無理かな。人殺しのために集まってくれる黒帯なんていないよ」


 何を、伝えるべきか。


 どんな言葉なら、彼女に勇気を与えられるか。


 男が逡巡している間に楓等は立ち上がり、逃げるように道場を出ようとしていた。


「一度だけ」


 だから、男はその背中に、一つの約束をぶつけた。


「え?」


 振り返る彼女の瞳を、まっすぐに見つめる。


「一度だけ、力を貸してやる。必要になったら言え」


 楓等は目を丸くした後に、楽しそうに笑った。


「わかった。ありがと、先生」



 ※



 用事を終えて、帰路を徒然なるままに歩いていると、寒風が吹き荒び思わずネックウォーマーの中に首を沈める。


「借りてきてよかった」


 ネックウォーマーにキャップ、さらにはマスクと不審者然とした格好ではあるが、これは楓等のチョイスではなく、立花のアドバイスであった。


 ネットにも顔が晒されており、かつ警察にも探されている以上、万全を期した方がいいという事でのチョイスである。

 ここまですれば流石に大丈夫だろうと思いつつ、それでもわずかに感じる視線はきっと思い込みであろう。


 それでも、その思い込みに急かされて足早に歩いていると、ふと服の袖を誰かにつままれて歩みが強制的に止まる。


「っ!?」


 ぎょっとしながら振り向くと、そこには見知った顔があった。


「…真奈美?」


 高校からの友人、相田真奈美。そのはずだった。

 けれど、その険しく、焦燥に揺れる瞳は楓等の知っているものではなかった。


 楓等の袖を掴んだまま離さず、下からじっと見つめる姿に驚いていると、真奈美は楓等の腕を抱え込むように抱いて捕まえた。


「ふうちゃん…どうして、何の連絡もくれなかったの?」


 初めて言われることだった。


 別段、楓等と真奈美の関係はそれほど深いものではない。学校内で気の合う、時々帰るついでに遊ぶ程度の友人。少なくとも、楓等の中ではそういう認識だった。


 だからこそ、首つりの縄が解け、記憶が曖昧だった時も「普段から連絡を取るような親しい友人はいない」、そう考えた。


「私、どれだけ心配してっ…!何回も何回も鬼電かけてライン送って、家まで行ったのに!」


 けれど、それは楓等の一方的な思い込みで、勘違いだった。


 楓等は自己肯定感が低い。だから、周りの誰も自分をそれほど好いていない。勝手にそう思う節がある。それは自身でも理解している事だった。


 一見するとそれは、謙虚なマインドではある。しかし、行き過ぎたそれは他者の想いを軽んじるものになると、楓等は知らなかった。


「……ごめん、色々あって、忙しくて…そんなに気にかけてもらってるなんて…いや、ちょっと待って、私の家に行ったの…!?」


「行ったよッ!ふうちゃんの動画がネットで話題になってて、それとは別でふうちゃんの家に死体があるってニュースにもなってて、私にはそれが同じことだってすぐにわかったもん!」


 もう既に、死体は発見されて通報され、ニュースにまでなっている。

 事態は楓等の思っていたよりもずっと早く動いているのだと、理解した時には真奈美の手を振り払っていた。


「じゃあ!私が何をやったかも、わかってるんでしょ!?私は、人殺しなんだよ!?」


「関係ないよ!ふうちゃんは私の友達だもん!駆けつけるに決まってるじゃん!」


 真奈美の息切れの正体が、楓等を探してのものだと悟った時には、何故か楓等の中には激情が沸き起こっていた。


「このっ…馬鹿なの!?動画見たんでしょ!?私がどういう人達に追われてるか、わかってるの!?殺されちゃうんだよ!?」


「ふうちゃんだって!」


「私は不治者だから!」


「それでも痛いものは痛いでしょ!あんな動画見て、放っておけないよ!とにかく一緒にきて!お父さんが商社で働いてるから、コンテナとかに入れて海外とか連れてってくれるかも!」


 再び楓等の腕を掴み、無理やりにでも連れて行こうとする彼女を力づくで引きはがす。

 運動神経皆無な真奈美なぞいとも簡単に振り切れ、むしろ勢い余って真奈美が地面に転ぶ。


 どてっと子供のように転ぶ彼女に、咄嗟に手を差し出そうとする。

 けれど、優しさを見せればまた彼女が自分を追ってしまう。そう考えなおし、罪悪感に吐きそうになりながら転ぶ真奈美を無視して走り出す。


「待ってよ、ふうちゃん!力になりたいよ!置いていかないでっ!」


 わずかに振り返ると、転んだ姿勢のまま楓等へ手を伸ばす姿が目に付いた。


「ついてこないで…!真奈美にまで何かあったら私…もう、立ち直れない…!」


 目を瞑って、遮二無二走り抜けた。




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