まさか、野崎が米軍の手先だったなんて!
僕は茫然としたままだったので、その後、ライリーに何を言われたのかよく覚えていない。拉致された挙句の奇妙な採用会見は、そのあと数十分程度で終わり、僕はファレル准将、そしてライリー少佐と握手してから部屋を出た。
部屋の外で、米軍の軍服を着たひとりの女性が待っていた。日本人の顔かたちだが、少しだけ西洋の血が入っているようにも思える。目に入るものすべてが煤け、汚れて、くたびれている広島では、ちょっとお目に掛かれないような美人だった。
「ハイ、私はスージー・ササムラよ。米国籍の日系2世。みんなには、スーと呼ばれているわ」
彼女は、なんとも言えぬ独特のアクセントで陽気に挨拶してきた。下手ではないのだが、流暢な日本語というわけでもない。僕がそれまで聞いたこともないような発音だった。
僕はなんと答えただろうか。覚えていない。この女に、生前の野崎についていろいろと聞きたかったが、何から聞いて良いのかわからずに黙っていた。とにかく頭が混乱していたのだ。スーは歩きながら、構わずに話しかけてきた。
「まあ、すごい成り行きだったみたいだし、いろいろ戸惑うわよね。でも心配はいらないわ。とりあえずあなたには秘密の官舎をあてがうことになっている。少し市内から離れるけど、歩いていける所よ。地主が爆心地で消えてしまった綺麗なアパートメントハウスを、ある日本人のバイヤーの名義で、米軍が密かに買い取ったの。あなた、かなりいい暮らしができるわよ。これから案内するわね」
スーは扉を開け、外で置いてあった占領軍のジープの運転席にそのまま乗り込んだ。そして、にっこり笑って後席を指差した。
「君が運転するのか?」
僕はびっくりして尋ねた。スーはにっこりして頷く。すぐにジープは走り出した。
道中、やっと思考力の戻った僕は色々なことをスーから聞いた。
ファレル准将は、実は原爆の開発計画にかなり深く関わった人物であること。そして開発チームを代表してそのもたらした効果(惨禍というべきだ)を計測しに来ていること。治療の件は本当だが、この状況で患者を施設に連行すると、どんな噂が立つかわからない。だから事前にある程度、被爆者たちと関係を取り持ち、なるべく円滑に調査活動に移れるようにするのが僕の仕事だ。求められるのは、彼らの計測データだ。付随して行う治療は、米軍の基準からすると標準的なものだが、医薬品にも医師にも事欠く現在の広島の環境を考えれば、望むべくもないほど手厚いものになるという。
野崎は優秀な男だとライリーから評価され信頼されていたが、スーの目には、実は胸になにか違った本音を隠しているように思えてならなかった。求められている仕事はきちんとこなしていたが、自分に見えないところで、なにか妙な動きをしている形跡があった。いつか問い詰めようと思っていたが、そうなる前に死んでしまった。
「どうか、秘密はなしでお願いね。彼の自死の件では、それを全く予想できなかった私もライリーにかなりきつく言われたの。私、この割のいい仕事を失いたくないのよ」
スーは、僕の目を見てそう言った。僕が野崎となにか企てていると知っているかのような表情だった。さりとてそんなに僕を信用していない風でもなく、すぐに自分の身の上を話し出した。
「私を見て、最初は驚いたでしょう? 日本の軍隊ではあり得ないことでしょうけど、米軍では司令部要員や後方支援部隊に女性が採用されることは珍しいことではないの。私は日系人だけれど、日本の血を引いているのはパパだけ。ママは、ルイジアナという州に住んでいたケイジャンやインディアン、それに少しだけクレオールの血も入っているわ」
「ルイジアナ? よく知らないな」
「ミシシッピー河の河口に近いところよ。ニューオルリンズって、聞いたことない? 私が生まれたのは、もっと上流のじめじめとした湿地帯ね。人種差別のひどい田舎で、小さい頃はうんと苦労したわ。東洋系はうんと少ないから、私は白人に差別されている黒人にすら差別されるのよ。辛いときはよく湿地の中に逃げ込んだわ。びしょびしょ、泥だらけになるけど、すぐに人はいなくなるの。代わりにいるのは、魚や蛙、鰐、そしていっぱいの小鳥たち。日がな一日、そうやって自然の合奏を聴いて暮らしたわ」
「アメリカは、もっと空気の乾いた、砂漠のような国なんだと思っていた」
「そういう場所も多いわね。でも、アメリカは広いの。いろいろな顔があるのよ」
「それは知らなかった」
「あなたも落ち着いたら、一度ルイジアナにおいでなさいな。ケイジャン料理は、お米をよく使うのよ。日本の米とはまるで違うけど、きっとすぐに馴染めると思うわ」
「人種差別がひどいんだろ? 悪いが僕はごめんだね。白人の一人二人、素手で殴り殺してしまいそうだ」
「別に、住んでる人の全部がそうじゃないわ。私も、たいていの相手とはうまくやってた。でもね、どうしようもない馬鹿は、どの国にも、どの人種にもいるものなのよ。何度かひどい目に遭って、この田舎を脱出したいと思うようになり……そして私の故国との戦争が始まった。悲しくなんかなかった。正直言って、ルイジアナを出るチャンスだと思ったわ。日系の私が、必死に日本語を勉強し直して、ついにこの仕事を得た!」
「君は遂に得た。遠い異国の廃墟の中、ジープで敵国の敗残兵を送り迎えしてやる仕事を」
僕は、ちょっとだけからかってやった。スーは冷たい目で僕をひと睨みし、そしていきなり急ブレーキをかけた。僕が前につんのめると、大笑いしながら言う。
「敗残兵ふぜいが、あんまり調子に乗らないことね。こう見えても、いちおうはあなたの世話役で管理者なのよ。私の報告ひとつで、あなたはこのとても割りのいい仕事を失うの。だからもうちょっと、私にだけはお行儀よくなさいな」
やがてジープは目的地に着いた。僕は、しばらく自分の寝ぐらとなる建物を見上げた。広島に、まだこんな立派な建物が残っていたのかと思うような、コンクリート造りのがっしりとした集合住宅だ。おそらくドイツなど戦前の芸術思潮が入り込んだような、独特の直線と曲線の組み合わさった美しい建物だった。
スーは僕をジープから追い立てると、唸りながら、助手席に置いてあった帆布製の重い肩掛け式雑嚢を手渡した。
「このミュゼット・バッグに、ひとしきり必要なものを全て詰めておいたわ。着替えや日用品、替えの下着に至るまでね。当座必要な現金も入っているから、大事に使って頂戴。あと、当初の行動手順を書いたマニュアルを読んでおいて」
「マニュアル?」
「ああ、そうだった。あなたの国の軍隊では、便覧とか手引き書といっているものよ。米軍は、全てのなすべき行動をこうやってマニュアルにするの。当初はその通りに行動して、慣れてきたら自分流でやってもらえればいいわ。私は毎週火曜日に一回来るから、そのときにまとめて報告して頂戴」
言い終わると彼女は、颯爽と去っていった。管理者ということだったから、僕は敬礼でもしないといけないのかと思ったが、彼女はただ後ろ向きのまま左手をあげて、上でひらひらさせただけだった。