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第26話

 すると老人は、海のほうを向いたまま、ゆっくりと答えた。

「いや。今日はだめだな。当たりは来ないよ」

 僕は老人の真横に並び、そこにしゃがみこんだ。粗末な竹でできた竿から、糸が数メートル下の海面に下がっている。竹の浮きがぷかぷかと揺れているが、たしかに当たりの来そうな気配はない。

 老人は続けた。

「最近は、島が騒がしいからな。昔のようにはいかぬ。こんな具合では、魚どもだって次々と逃げてしまう。あの禁域の覆いも外された。奴らはこの海から、すべてを奪うつもりなのだ」

 そう言うと、ゆっくりとこちらを向いた。僕の顔を見上げ、懐かしそうに眺めた。

「やはり戻ってきたな。思った通りだ」

浅黒く日焼けした幅のひろい顔。頬骨が張り、くちびるは黒ずみひび割れている。そして瞳孔の大きさが左右で違い、どこを見ているのかわからないその瞳。

 一年前に見かけた時のままだ。

「あのとき。前に君とわしが会ったときの話だ。この島で、奇妙なものを見ただろう?」

 老人は僕に尋ねた。

「え、ええ。いろいろとね。あなた自身を含めて」

「まあ、そうだろうね。たしかにわしも見慣れない相手のはずだ。だがわし以外にも、妙なものがごまんとあったはずだ。海の底から人が上がってきたり、人だか何だかわからぬ生き物がいたり」

「戦友が目の前でいきなり死んでしまったり」

 僕は、人なのか魔なのかわからぬこの相手にも、言ってやらねば気がすまなかった。老人は特になんの反応も見せず、そのまま、さらりとこう返してきた。

「ああ、あれは気の毒だったな。それよりも、君は知りたくないか? 一年前、いったいなぜ君はこんなところに呼び寄せられたのか」

「あらかじめ仕組まれていたんですよ。背後には米軍がいたが、しかし僕の戦友にはそれとは別に、なにか独自の目的があったらしい。途中であんたに殺されてしまったから、もう彼に聞くことはできないが」

「なるほど。わしが殺したと言うのか」

「違うんですか?」

「まあ、そのことについては後で話そう。だが今は、それよりも大切な話をしなければならない」

「あれよりも大切な話ですって?」

「そうだ。すべての始まりのことだよ。色々と思うところはあるだろうが、しばらく、わしの言うことを黙って聞いておってくれんか?」

「ええ、いいですよ。どうせ時間はたっぷりある」

 しゃがみこんでいた僕は、そのまま、老人と同じように桟橋に腰を下ろし、腕組みをし、足を海のほうへ投げ出して座った。

 すると老人は、安心したように話し始めた。

「そうだ。それでいい。さて、すべての始まりは、今からちょうど20年前のことだ。場所は、ここから遠く離れたアメリカ北東部マサチューセッツ州。一般にはニュー・イングランドと呼び習わされている地域だ」

「さて。あまりにも遠すぎて、いったいどこなのかもわかりませんね」

「首都ワシントンや、ニューヨーク、ボストンなど最寄りの大都会から、ずっと北東に行ったところだ。かつて清教徒たちが流れ着き、現在のアメリカのもととなる、原初的な共同体を作り上げた場所だよ。その一角に、インスマウスという名の、忘れ去られた古い町があった」

「インスマウス? どうにも妙な名前ですね」

「奇妙な町で、周囲に住んでいる人間たちからも忌避されているところだった。沼地で隔絶されていて、住民は相互に結束が固く、外からやって来る人間に心を閉ざし、実際、外部との行き来はほとんどなかった」

「完全に孤立した集落だったんですか? 住民はみんな、どうやって生活していたんです?」

「基本的には漁撈ぎょろうだな。住民は魚を取るのがうまかった。経済的にはほぼ独立していて、人々の風貌は、他とちょっとばかり違っていた。そしてそこでだけ独自に崇拝されている宗教があった」

「なるほど。中央政府にまつろわぬ、宗教的な異質の共同体だったんですね。それは周りから大いに嫌われそうだ」

「しかし20年前の7月のある日、一人の若者がこの町に入り込み、興味本位でこまごまと調査を始めた。そしてなにか恐ろしい思いをし、真夜中、ほうほうのていで逃げ出した。そのあと暴動騒ぎが起こり、軍隊が出動してこれを鎮圧する事態になった」

「一人の若者の行動がもとで、血を見る大騒ぎになったと」

「そうだ。そして町の住民は全員が強制退去となり、何処とも知れず連行されていった。町は閉鎖され、インスマウスの存在はいつしか忘れ去られたものになっていった」

「そうですか。で、それがこの島とどういう関係があるのです?」

「話は、ここからだよ」

 老人は言った。なんと、少しだけだが、欠けた歯を見せて笑った。どことなく人間以外のものに見えるような、不気味な笑いだった。

「そうだ、ここからだ。とても、とても恐ろしい、そして残酷な話なのだ……インスマウスで弾圧され、いずこかへ連れ去られた住民たちだが、もちろん全員が殺されたわけではない。相当数が生き残り、ある意味ではアメリカ連邦政府によって保護されていた」

「保護? アメリカ国民なのなら、そのまま解放すればよくありませんか?」

「ところが、そういうわけにはいかんのだ。政府の連中からすればな。なぜなら、彼らが捕らえたインスマウスの住民は、明らかに、普通の人類ではなかったからなんだ」

「普通の人間でない? いったい何だったんです?」

「住民たちは、魚を獲るのがうまかった。泳ぎも達者で、人間というよりは、魚類や海棲生物に近い特徴を示す者が多数混じっていたんだよ。個々人によって程度の差はある。しかし遺伝的形質としては傾向ははっきりしており、その性質の薄い者は、明らかに遺伝的に人間の血のほうが濃い一族に属している。つまり彼らは、人間と、なにか別のものとの掛け合わせに近い存在だったんだ」

異質同体キメラだったと言うんですか?」

「その通りだ。異質同体と思われる存在は、それまでも世界中で個別の例としてぽつぽつと報告されてはいる。だがインスマウスでは、より大規模に、しかも系統だった遺伝的形質の中にそうした要素が見られるというのだ。これは、歴史的な大発見だと思われた」

「それはたしかにそうですが。しかし少なくとも半分は人間の彼らには、人権というものがあるでしょう? いつまでも捕らえたままにしておくことはできないはずだ」

「つい一年と少し前まで、君にはその人権すら無かったようだがね。陛下の赤子せきしということで、死を強制されていたんだ。海底での、惨めな人知れぬ死を」

「あんたは、なんでそんなことまで知っているんですかね? 確かに僕と野崎は伏龍特攻隊員だったが、少なくとも僕らは、特別攻撃隊に自由意志で志願したんです。国家に無理やり人権や生存権を奪われたわけじゃない」

「その自由意志が、いったいどこまで君自身のものだったのか。周囲からの同調圧力のようなものは無かったか。長期的な洗脳計画プログラムが走り、君を無意識のうちに自殺攻撃に駆り立てるような仕組みが動いていなかったか。あるいはそもそも君が思い込んでいるほど、君は自由ではなかったのではないか。そんな風に考えたことはないかね」

「ずいぶんと難しい問いですね。いったん、話をもとへ戻せませんか」

「まあ、よかろう。とにかく1927年当時のアメリカ連邦政府は、この人類史的な大発見を、徹底的に隠蔽することにした。インスマウスという町の存在を地図から消し、そこに住んでいた住民たちの存在を戸籍から抹消し、わずかに交わされていた商取引の記録、納税記録、ありとあらゆるすべての記録と記憶とを抹殺した。そして捕らえた住民たちを、保護という名目のもとに、当時植民地だったフィリピン諸島のとある島に強制移住させたんだ」

「比島に……」

 僕は、なんとなく嫌な予感がした。昔聞いた他の話にも出てきた地名だったからだ。

「フィリピンは、大小あわせて7千以上もの島嶼とうしょから成っている。島の数だけでいえば日本の方が多いが、それぞれがより大きく、深い熱帯雨林に覆われ、他からの独立性が高く、監視がしやすい。しかも数十年前の米比戦争の際に、住民ごと米軍に虐殺され、無人島になってしまっている遊休地がいくつもあった」

「なるほど。米国も、かなりなことをしてますね」

 僕はかつて太田に聞いた、北支での治安戦の話を思い出した。老人は目をつぶり、深く頷きながら感慨をこめて言った。

「そうなのだ。現在では歴史の影に隠されているが、アメリカ軍がフィリピンで行った凄惨な住民虐殺は、その後ファシストや共産主義者たちの行った行為と、本質的にさして差がない。人間のやることは、どこの国であろうと、いつの時代であろうと、いつだって同じなんだ。強欲で、自分勝手で、情け容赦がない。そしてこの恐ろしい話で、次に現れるのが君の国の名だ」

「我が麗しき大日本帝国ですね。もはや、昔懐かしい名前と言うべきですが」

 僕は答えた。

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