目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第25話

 やがて、懐かしの大咲島が見えてきた。その前にあった巨大な浮標ブイの群れは、なんとひとつ残らず撤去されていた。禁域はもはや区分されておらず、他と同じ、不機嫌に上下するただの青灰色の海面になってしまっていた。

 また島の反対側では、海面から斜めに突き立っていた空母海龍の残骸が、ほぼ跡形もなく消滅してしまっていた。海上交通の邪魔になるということもあるが、おそらく解体され、スクラップとして売り払われてしまったのであろう。

 島には、植樹された名物の桜の樹が、そのいくぶんグロテスクな黒い裸身をうねらせ、あちこちに根を這わせて主役は自分達だと主張しているかのようだ。しかし、現在の主役は違う。あの特徴的な煙突は姿も形もなかったが、現在、この島を圧しているのは、再び動き出した巨大なガントリー・クレーンである。岩壁につけた1万瓲級の米軍補給船の上から、せっせと大量の荷物を積み下ろしている。先ほどシービーズが言っていた、民間のサルベージ会社の先行隊が必要物資を下ろしているようだ。

 一年前には死んだようになっていた島が、いまは騒々しく、生気に溢れている。まるで巨大な生き物のように脈々と活動していた。

 ヒギンズ・ボートは、岩壁を少し回り込んだ場所に新しく設けられた小桟橋につけた。僕たちはそこから上陸する。僕は上陸後の動きやすさを考えて、あらかじめ地下足袋を用意していたが、厚生省の連中はピカピカに磨いた革靴だったから、桟橋によじ登るのすら大変そうだ。米兵たちは、みな鼻で笑って通り過ぎてゆく。

 僕はふたたび、あの岩壁の上に立った。目の前には、一年前とは比較にならぬほど整然と大量の資材が並べられている。あのキノコのような繋船柱も、そのままの位置ににょきにょきと生えていた。  

 僕は、あの老人が立っていた繋船柱の脇に立ってみた。顔をあげ、周囲を見渡してみたが、もちろん老人は現れない。その気配すらしなかった。

 やはり、あれは遠い過去の夢に過ぎなかったのだ。僕はそう思った。

 そのまま、岩壁に横付けされた巨大な米軍補給船リバティ・シップの船腹を見上げた。戦時標準設計とブロック工法により文字通り大量生産された規格品である。つくりは簡素だが、使われている鋼質がよく、要点をきちんと押さえた工作がされているので、事故は滅多にないそうだ。そして甲板のあちこちにクレーンが据えられ、船腹から大量の物資を吐き出し、次々と岩壁の上に積み上げていく。

 そしてそれを、多くは雇われた日本人の労務者たちが肩に担ぎ、あるいは猫車に積み、島のあちこちに運び入れていく。

 そういえば、あのあたりで、野崎は海に落ちたんだったな。

 僕はリバティ・シップの船首あたりを見遣って、ふと思った。しかし何の感慨も湧いてこない。目の前で惨死した戦友を悼む気持ちも、悲しみも、怒りも何も湧いてこない。完全に過去の出来事なのだ。僕は、スーと一緒に、現在いまに生きているのだ。


 活気に満ちた岩壁の周辺とはうって変わって、島の中央部に建ち並んでいる旧海軍施設の周辺は、しんとして静かだった。そのあたりだけが、一年前と同じ空気を身にまとっていた。あの懐かしい蒲鉾屋根や、時間のずれた時計台も見えた。しかし現在は、あの調子っぱずれな時報だけは鳴らなくなっているという。

 僕は、さっそく仕事にかかった。広島で被曝後、島内に避難に運ばれていた原爆症患者の追跡調査だ。島内の、その昔は隔離施設だったと噂されている区画に、なんと二百人以上の患者がいた。いずれもかなりの重症患者たちで、市内のあちこちから運び込まれているのだという。広島の赤十字病院などから派遣された若い医師たちが、懸命に治療にあたっていた。確認させてもらったが、医療知見やデータの蓄積も見事だ。これは使える場所だと僕はつい、ニンマリとした。

 そして気づいた。 僕は一年前、ここで全く違ったことをやろうとしていたのに。

 だが現在は、そのような考えは全く脳裏に兆しもしない。当時何を考えていたのか、野崎と一緒に何をしようとしていたのかも。よほど集中して思い出さないと、なんだか頭にかすみがかかったようでよく思い出せないのだ。


 だが一年経過しても、大咲島は大咲島のままだった。

 その日の午後、僕はあの男を見かけてしまった。支那での記憶に苛まれ、故郷に帰れない太田の姿だ。さっさと帰れと言ったのに、あの男はまだこの島にいた。

 港湾労務者として働いていた。さっきの、巨大なガントリー・クレーンの近くである。

 休憩時間になったのを見計らって声をかけると、彼はバツの悪そうな微笑みを浮かべた。そして近くに設けられていた水道の蛇口をひねって水を飲むと、その脇に座って粗末な新聞紙に包んだ弁当を開いた。

「この島に住んでるんだ。労務者用のタコ部屋があってな」

 太田は、僕のいでたちを見て言った。

「もう、すっかり根を張っちまったよ。ここでの仕事はあと数年続きそうだ。なんとか食いつないで、その後のことはその後で考えるよ。ときに、たいした羽振りの良さだね? 服装は地味だけど、しみひとつない。相当に裕福なんだな。なんの仕事をしてるんだい」

「米軍の関係さ。たしかにずいぶんと割はいい。島にも仕事の関係で来たんだ。でもまさか、またあんたに会うとは」

「君にゃ帰れと言われたが、もう故郷のほうがどっかに行っちまったよ」

 太田は情けなさそうに笑い、そのまま握り飯を頬張った。僕にはいうべき言葉もない。

「その弁当は、誰が作ったの?」

 そんな、どうでもいい質問をするのが精一杯だった。

 太田は、タコ部屋で出される朝食の余り米をもらい、それを自分で握って昼飯を作るのだそうだ。そのぶん浮かせた金はちゃんと貯めてあるのだろうか、もしかして、いつかは郷里に帰るつもりなのだろうか。ふと考えたが、彼の人生にこれ以上深入りするのはやめることにした。

 僕はそっと、その場を離れた。

 僕はそのあといったん仕事に戻り、わずかな時間で大いに成果を手にし、胸を張ってそれをスーに報告する想像をして楽しんだあと、また周辺を散策してみることにした。

 もう夕暮れ近くで、あれだけ活気のあった岩壁にもさすがに人は少なくなっていた。ガントリー・クレーンは動きを止めていたが、例の補給船にはまだ少し残り荷があるらしく、煌々こうこうとライトを照らして何本かのクレーンが稼働し、残業した港湾労務者たちの頭上に荷を運び続けている。島は、夕暮れ近くになっても脈々と生き続けていた。補給船は、まだ一晩はあの位置にどっかと居座り続けるつもりだろう。

 だが僕は、どことなく感じるものがあった。

 絶えず騒音がし、小刻みに揺れ続ける岩壁の上で、吹き渡ってくる生ぬるい風の中に、わずかな匂いのようなものが混じっている気がしたのだ。初めてのはずなのに、どこか記憶にあるような気もする、とても奇妙な匂いだ。

 それは島の南側、ちょうとこの岩壁が尽きて、ゆるやかな浜辺と磯になるあたりから発してきている。そこには確か、1箇所だけ掘り下げられた場所があり、小さな桟橋が海に伸びている。そうだ、今朝、僕がこの島に到着した時に、ヒギンズ・ボートが着けた桟橋だ。

 僕はゆっくりと、そちらのほうを向いた。

 見えた。

 あの老人が、桟橋の先っぽのあたりにぽつねんと座り、一人で釣糸を垂れていた。

 老人は、もう日暮れだというのに大きな、そしてぼろぼろの麦わら帽子をかぶり、全くみじろぎもしない。

 ただそこだけ、ずっと時が止まっているかのようだ。

 忘れたはずの過去が戻ってきた。僕がまだ伏龍だった過去を引きずっていた頃、そこから脱出したくてもがいていた頃。ほんの刹那だけ姿を見せた、あの幻だか幽霊だかわからないものが、また現れたのだ。

 僕はぶらぶらと歩き、桟橋を歩いて老人に近づいていった。

 野崎を殺したのは、明らかにこの老人だ。だから僕は最大限に警戒すべきだったのだが、不思議なことに恐怖は感じなかった。いやむしろ、あの向こう見ずで命知らずだった伏龍の昔に帰り、今度こそこの老人の胸ぐらを掴み、戦友を殺した理由を問い詰めてやるつもりになっていた。怒りは感じなかったが、ケリをつけてやろうという気になっていたのだ。

 僕はそのまま桟橋を歩き、やがて老人の背中が間近に見える位置まで近づいた。

 老人はみじろぎもしない。ただ彼の垂れる釣糸が風に押されて、空中で小さく、歪んだ弧を描いた。

 僕は、一年前と同じに、また声をかけた。

「どうです、今日は当たりは来ますか?」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?