季節は初冬。窓の外にはしんしんと降り注ぐ夕暮れ空の淡く白い涙。窓に触れたそれは約五ミリ台の大きさを持ち、しかしそこに存在を許されず溶けてなくなる。
その光景は雪国育ちの彼にとって驚きもしないもの。毎年恒例でもはやうんざりするくらいだ。
天気予報を見れば終日雪だるまのマーク。外に移る景色とそれだけの情報だけで明日は根雪になると予想。
特段冬も雪も好きではない彼は、これから到来する雪掻きシーズンに深く息を吐いた。
その直後、無音だった部屋の中に、パラパラと軽い音が響き始めた
台風とは無縁な土地、無縁な季節が故にそれに対して焦ることこそなかったが、彼の目はしっかりと『それ』を捉えていた。
先程まで雪が降る夕焼け空、所謂にわか降雪なだけだったのに、雹が降り始めた途端、遠くに雹とは思えない物体が飛んでいるのが見えたのだ。
慌てて目を擦ってもその景色は変わらない。それどころかその物体は確実に彼の元へと近づいており、物体が翼が生えた人の形をした何かだと把握できたのは間もなくのこと。
人が生身で空を飛ぶなどありえない話。しかし白銀に覆われつつある歩道を歩く人たちを見ても気にしている様子はない。それどころか風で髪が激しく靡いている人こそいるが、雹に痛がることや困惑している様子は全くいない。
「もしかして俺だけが見えてる……!?」
もしも自身だけが見えているとするならば、窓にぶつかる音の説明が幻聴以外ない。
いや、果たして本当にぶつかる音が聞こえていたのだろうか。現に空を飛ぶ何者かを観測してから、雹の音は存在を許されなかった雪のように、さっぱりと消えている。
音だけでは無い。雹自体まるで降ってなかったと思わざるを得ないほど痕跡はない。その代わり再び雪となっていた。
謎が深まるばかりだが、それよりも一大事なのは空を泳ぐそれ。もしもそれが人ならば、ここままでは危ないに等しく、また流れから助けられるのは彼だけ。こちらに向かってきてる以上ベランダを開けるのが正しいかと、ベランダの戸を解放する。
案の定、部屋の中へと強風とそれに攫われた雪が入り、一瞬にして部屋の中が雪まみれかつ、雪解けによりびしょ濡れになっていた。これならブルーシートでも敷いておけばと考えたが後の祭り。
もうこうなればどうとでもなれ! とヤケに走った彼の思考。改めて物体を見据えれば、もうすぐそこまで来ており捕まえる覚悟を胸に秘めた。
だが、それはリビングまでは届かなかった。ベランダの柵の部分に思い切りぶつかり、その反動で勢いをなくしてベランダ内部に堕ちた。
ぶつかった際には、かなり聞きたくない重たく嫌な音が聞こえており、脳まで走る血が一気に冷める。だが確認するよりも先に、雪が未だに続いてるため一旦部屋の中へとそれを運んで戸を閉めた。
「だぁ……はぁ……なん、だよこいつ……」
腕を掴み引きずるようにして運んだ際、細い腕と、男には思えないハリのある柔肌が手に伝わっており、かつあれだけ小さな氷塊が降る天気の中を飛んでいたにもかかわらず、人肌程の体温があった。
つまりそれは人形ではなく生物だということを意味する。だがそれよりも気になるのは
しかし、自分の手で動いただけかとも思えた彼は少しだけ、しかししっかりと触ってみる。
彼自身、鳥の羽など殆どさわったことがなく、ひんやりとふわっとした感覚はずっと触っていたいと思える心地のいいものだった。
刹那、ぐんっと翼が伸びむくりとそれが起きた。
眠たげな眼を細い手で擦るそれは、紛れもなく人の姿。淡い水色のショートカットで童顔。初冬なのに腕を出したぶかぶかのシャツ。薄らとだが、小さな膨らみが胸部に存在しており、言わずもがなそれが女性であることを明示していた。
「……誰?」
「こっちが聞きたい」
「…………誰?」
目を擦るのをやめて、大きく欠伸をした少女。すっと瞼を開けば、静かで透き通った水面のように透明感がある美しいクリアブルー色の瞳が現れた。
じとっとした視線を向けて彼の正体を探る。ただその顔は蕩けていてどことなく、いや確実にうとうととしており今にも寝てしまいそうだ。
「あ、おま寝るな! 今そこで倒れたら――」
「ごふっ……うぅ、いたい……」
このままでは埒が明かない。得体の知れない少女に、どうしたものかと考えていたところ少女の身体がゆらりと揺れて倒れる。
推測通り、目を細め寝に入っていたのだ。しかし少女が倒れた先にはテーブルがあり、小さな悲鳴と鈍い音が耳を刺す。
頭を抑えてるところから相当痛みはあるはずだ。だがそれでも溶けたナメクジのように、床に伸びていた。
言わんこっちゃない……彼は頭を抱えて大きく息を吐く。
「はぁ……よくこの状況で寝ようとするなお前……ていうか本当に何者なんだ?」
「わからない」
「わからないって」
「考えるの面倒なんだよなぁ……ボクの名前……えーと、たしか……ヒュプノス? あと天使」
ごろりと華奢で小さな身体を捻り、俯伏せから仰向けになる少女。羽根が生えてるのならその行為は少し痛そうだが、寝返りを打つ直前に、翼はそこに存在しなかったかの如く消滅していた。
天使のアイデンティティの一つである翼が消えるなど、どうなんだと思う彼だったが、もう既に日常離れした光景を見ている以上、疑問を放棄するしかなかった。
「なんだよたしかて……というか天使のくせにどんだけ他人の家で怠けてんだよ。いやまて、そもそもなんで天使がここにいるんだよ!?」
「うるさいなぁ……はぁ、どうでもいいから寝かせてよぉ……人探しで疲れてるんだよボクは……一日二十六時間寝ないと力出ないのに……」
目を瞑り不満そうに口を尖らせる少女、ヒュプノス。天使と自称していたがどう見ても怠惰極まりなく、天使というのは中々に信じ難い。と言っても完全に背中から生えていた翼の存在さえあれば信じるしかないのだが。
そして一日以上も寝ていたいという睡眠欲しかない怠惰天使曰く、人を探していたのだという。
このままここで寝られては困る。そう思った彼はその探し人の調査に協力すべく尋ねた。
「寝すぎだろ……それに人探しって」
「うぅ……質問が多い……
それもう冬眠だろ。とヒュプノスの最後の言葉に言おうとしたところで、少女の口から放たれた名を思い出す。
その名は東雲柊也。聞き馴染みしかない名前だが、それも当然だ。なにせその名は、
「東雲柊也……それ俺の事なんだが……?」