「ひー君、後ろの私まで伝わってるけど大丈夫? あと凄く周り怯えてるよ……?」
あれから数日後。柊也は気が気でない日常を送っていたが、この日はいつにも増して不機嫌そうな表情を浮かべていた。
余りにも不機嫌過ぎて負のオーラまで放出しており、その険悪さからか後ろの席にいる心から軽く突っつかれてこそりと不安げな言葉を投げかけてきた。
当然大丈夫なわけは無い。今日はあのぐうたらヒュプノスの登校初日。特段何もなければそこまで不機嫌になることなどない。そのことくらい心もわかってはいるが、酷く苛立ちを覚えているように見えて心配はしてしまうのだ。
「すまん……気にしないでくれ……あいつがちゃんと来るかとか、問題起こしてないかとか考えてるだけだから」
「一応ひー君と一緒に来てたんだから大丈夫だと思うけど……」
「いや、来る時は無理やりだったし、誰かついてないと危ういようなやつだからな……」
ホームルームの大して興味のわかない担任――ちなみに靴下が片方消えたなどの些細な話をする女性の先生だ――の話を右から左に流しつつ、こそこそと話し込む柊也たち。そしてヒュプノスの噂をすれば、少女の影が扉の先からゆらりと現れた。
それも朝は持っていなかったはずの枕を持って。
「なんで枕……?」「すごく眠そう……」「可愛い……」「これは萌の予感」
などと第一印象だけで、教室内をわっと騒がせる。転校生、編入生というのは大多数の瞬間的話題の的になるものだから仕方ない。
とはいえ初日の
「彼女は今日から一緒のクラスで過ごすことになる
そう言って担任は隣に立つヒュプノス、改め寧々へと視線を向けると、こくりこくりと首を揺らし今にも寝そうな雰囲気が目に写り、目を点にして慌て始める。
「え、寧々さん!? ここで寝ないでください!?」
「うぅ……むりやりは……やめて……柊也ぁ……」
担任に体を揺らされ寝言を呟く。たったその言葉だけでクラス中――正確には事情を知る心以外だが――が一斉に柊也を見る。寝言でしかないが、苦しそうに発せられた言葉は誤解を招くものにしか聞こえない。
冤罪でしかないのだが当然それを知る人は誰1人としておらず、向けられた視線は全て白い。
結局ちゃんとした自己紹介はされず、心の横の席に座っては安眠の旅を優雅に過ごし始める。
案の定と言えば案の定。自称怠け上手と言うだけあるのか、と頭を抱える。特段人と関わらないのだからどう思われようが別に気にもしないが、一瞬にして周りが敵になったと考えればその辛さは心にくるものだ。
ホームルームが終わり、訪れる短い休憩時間。その短い時間でもやいのやいのと珍しいもの見たさで寧々の周りに人だかりができていた。
当然簡単には起きず、話そうとしていた人が皆残念そうな顔を浮かべ撃沈。そして授業が始まるのだがもちろん校内に響くチャイムでも、心が頑張って起こそうと試みても起きるはずはなく、痺れを切らした数学教員が文字通り音で叩き起した。
「おい転校生の東雲! 君はいつまで寝ているつもりだ!」
「うぅ……まだ昼前なのに……」
「学校は寝る場所じゃない! 眠いのはわかるが授業はちゃんと参加しろ!」
「参加……してるけど……」
「明らかに寝てただろ! 言い訳をするくらいなら……これを解いてみろ」
数学教員は学校一と言っても大袈裟では無いくらいには厳しい先生。怒声が飛ぶことも、教卓に戻り難問を黒板に書いてはそれを解かせると言った無茶ぶりを振られることは目に見えており、だからこそ心が起こそうとしていたが最悪の結末となり心も柊也も頭を抱え苦笑する。
特に柊也に限っては先程のこともあり、頭を悩ませているのだが寧々はそんな事など気にしない。むしろ追い討ちをかけるように言い訳その2を口にした。
「柊也が家で寝かせてくれないから眠いのに……」
「一々誤解を招くような事を言わないでくれるか寧々……」
再び誤解を招く言葉に白い視線が向けられる。どれだけどん底に落とせば気が済むのかと思ったところで、彼女にその意思は無いのはよく知っている。その言葉が本当の意味であり、悪意がないことも当然知っている。
だからか訂正するように呆れた怒る気など全く起きず、ゆらりと危なっかしく黒板前へと歩く彼女を見つめることしかできない。
「……これを解けばいいの?」
「あぁ、寝てたなら解けないだろうけどな」
黒板に書かれている問は因数分解の問。ただ多変数式であり、相当な難問だ。怠惰な居眠り天使には当然解けない。
……はず、なのだが、寧々は虚ろげな眼差しで僅か数秒じっと問いを見つめた後、チョークを手に取りスラスラと繊細な線を描きながら問の解答を書き切った。
更にその解の正否を聞くまでもなく自席へと戻る。もはや生意気にすら見えるのだが、口を開けて驚愕する数学教員の反応からそれが正解であることを裏付けている。
以降手厳しい先生は敗北感に見舞われ、誰しもが感じ取れるほど暗い表情を浮かべて、授業を終えた。
「こいつ……めちゃくちゃ頭いいのか……?」
「驚きだね……これだけ頭がいいからこそ怠け上手って事なのかも」
「その割には自分のことちゃんとしないけどな……」
授業と授業の合間にある休憩時間に柊也は後ろへと身体を向けて、先程のことを心と共に話す。
心も寧々の頭脳明晰っぷりには吃驚しており、そこまで賢いのなら怠け上手と自ら謳っていたことを納得していた。
それに明敏さがあるのなら、悪魔を捕まえることだって用意であり、好成績だって狙えるはず。少なくとも悪いようには言われないはずだ。なのになぜ天使としての職務を放棄し怠けているのか気になってしまう。
そのことを聞こうにも永遠と寝続けているのだからタイミングが合わない。だが急ぎで聞くことでは無いからと、心の身体の中で渦巻くモヤモヤをしまい込んだ。
「ところでひー君。今日1日で広まった良からぬ誤解はどうするの?」
「やめろ……その話をしてくれるな……まぁ2度も誤解されたから諦めてる」
「あはは……まぁそうだよね。でも大丈夫! 私は何があってもひー君の味方だよ!」
「裏切りそうなフラグセリフはやめてくれ」
「うらぎ……酷いなー! 私をなんだと思ってるんだよー!」
裏切られる。その言葉に目を点にした心だったが頬を膨らませて息巻く。
彼女自身、柊也のことを恋愛的観点から気に入っているためずっと味方であり続けたいと思っているのだ。しかし想いはまだまだ伝わっておらず柊也が心のことを裏切りそうだと想っていることに軽い怒りを表した。
「まぁ……普通に明るい同級生だなとは思うが」
「友達ですらなかった!?」
「それは言わなくても十分だろ」
「それはそう……だけど……くっ……ひー君が私のことを手ごまに……!」
別にいつものことでは無いが、彼の手のひらの上で踊らされたことに、悲しそうな、しかし不満も見える顔色を浮かべる。実際はしないだろうが、どことなくその感情を表に出すべく腕を降って反抗しようとしているような姿が想像できてしまう。
ちゃんと決着がつかないまま、予鈴が鳴り二人の時間を遮られる。一方的に弄られた不服さに口を尖らせ、悔しそうに彼の背中を睨みつける。
「ていうか、結局寧々ちゃん起こせなかったなぁ……」
睨みつけても何も始まらず、諦めて息を吐いた心。横を見れば深い眠りについたままの寧々が鼻ちょうちんを作っているのが見える。柔らかな頬を突っついても起きるはずもなく、むにゃむにゃと柔らかな声を出しただけだった。