スーパーでの衝撃的な邂逅から一週間。田中一郎の日常は、表面上は何も変わらなかった。いつも通りに出勤し、黙々と数字を処理し、昼休みには妻の面影が残る弁当箱を開ける。ただ、彼の内面は、低気圧が近づく前の海のように、静かに、しかし確実に揺らぎ始めていた。
原因は、言うまでもなく、あのツンデレ保育士、鈴木みさきとの奇妙な「約束」である。
「こ、今度の日曜日…公園で…子どもたちが…遊び相手…お願いできませんでしょうか…?」
脳内で何度も反芻される、俯き加減で真っ赤な顔と、か細く震える声。どう考えても不自然な言い訳。明らかに彼女自身の意思。しかし、その目的が、田中の理解を超えている。
(なぜ、俺なんだ…? しかも、あの…ダサい…というか、意味不明な言葉を聞くために…? 子供たちが聞きたいというのは、本当なのだろうか…?)
混乱は深まるばかりだ。健太を預けた際の、画用紙に描かれた小さな赤いハートマーク。あれが結局なんだったのか、答えは出ていない。もしかしたら、あの同僚保育士の言った「『…まあ、発想の…角度?は……独特……かもしれないわね……』って、顔真っ赤にしながら…」という証言は、真実だったのかもしれない。
だとしたら、彼女は田中の、自分でも制御不能な「ダサ力(ぢから)」に、本当に惹かれている…?
「まさか」と打ち消そうとする理性と、「もしかしたら」と囁く微かな期待が、彼の心の中でせめぎ合う。それは、五十二年間、ほとんど感情の振れ幅なく生きてきた彼にとって、未知の感覚だった。妻を亡くして以来、ずっとモノクロームだった世界に、突然、理解不能な極彩色が投げ込まれたような、落ち着かない心地。
通勤電車の中吊り広告が目に留まる。
『緊急特集! あなたのダサ力、眠っていませんか? 最新診断&モテ・ダジャレ実践講座! 今なら入会金半額!』
思わず、その広告を凝視してしまう自分がいた。以前なら鼻で笑っていたであろう代物だ。けれど今は、この世界の常識を、少しでも理解しなければならないような奇妙な強迫観念に駆られていた。もちろん、彼が入会するはずもないのだが。
会社の昼休み、いつもの公園のベンチ。ふと、先週と同じ若いカップルが目に入った。今日は、何やら深刻な顔つきで言い争っているようだ。
「だから! あの時の『僕の愛は、まるで満タンになった灯油缶さ! いつ引火するかわからない危うさが魅力なんだ!』ってやつ、全然ダサくないって言ってるでしょ!? ちょっと意味深で詩的じゃない! 最低!」
「そ、そんなつもりじゃ…! もっとこう、意味不明の極致を目指したんだよ! ダサさの追求に妥協はないんだ!」
「嘘よ! あなた、最近ダサ力落ちてる! 前はもっと、脳が痺れるくらい酷かったのに…! もう、別れる!」
「ま、待ってくれハニー! ダサくなくてゴメン! もっと修行するから!」
田中は、その会話を聞きながら、再び眩暈に似た感覚を覚えた。(灯油缶…? 引火…? これが、ダサくない、だと…?)彼の理解を超えた痴話喧嘩は、やがて男性が土下座し、何か新しいダジャレを捻り出すことで収束したようだが、内容はあまりにも難解すぎて聞き取れなかった。ただ、女性が頬を染め「…まあ、今のなら…許してあげなくもないけど…」と呟いていたのだけは分かった。
(やはり、俺には理解不能だ…)
深いため息をつく。鈴木先生も、あんな感じなのだろうか。自分が意図せず口走る脈絡のない言葉に、あのカップルの女性のように「脳が痺れる」ような感覚を覚えているのだろうか。想像しようとしても、具体的なイメージは湧かない。ただ、真っ赤になって俯く彼女の姿だけが、やけに鮮明に思い出される。
(もしかしたら、俺は…とんでもなく失礼なことをし続けているのではないだろうか…?)
人を不快にさせているかもしれない、という可能性。それとは逆に、意図せず惹きつけてしまっているかもしれない、という可能性。どちらも、彼にとっては受け入れ難い現実だ。とは言え、現実に彼女は彼を日曜の公園に誘ったのだ。
週末が近づくにつれ、田中の微熱にも似た緊張感は高まっていった。何を着ていくべきか? 何を話せばいいのか? そして何より、またあの「何か」を口走ってしまったらどうしようか?
土曜日の夜。彼はクローゼットの前でしばし逡巡した。くたびれたスーツと地味なネクタイしかない日常。休日に着る服となると、さらに選択肢は限られる。結局、数年前に買ったきり、ほとんど袖を通していないベージュのチノパンと、当たり障りのないグレーのポロシャツを選ぶ。精一杯の「マシな格好」だった。それでも、鏡に映る自分は、どうしようもなく冴えない中年にしか見えない。
(こんな格好で、あの若い先生の隣にいて、大丈夫なのだろうか…?)
不安が胸をよぎる。亡き妻となら、こんなことで悩む必要はなかった。気心の知れた、穏やかな時間。対して、鈴木先生との時間は、まるで予測不能なアトラクションのようだ。心臓が妙に落ち着かない。
「…まあ、なるようにしかならないか」
田中は自嘲気味に呟き、明日のための準備を終えた。心の中に燻る微熱は、彼を少しだけ饒舌にさせ、同時に少しだけ臆病にさせていた。それは、彼自身が「昇華」と呼ぶにはまだ程遠い、しかし確かな変化の萌芽だったのかもしれない。