「負けっぱなしでいいのか?」
「……あ?」
「あいつにリベンジするんだろ? またとない機会じゃないか。それとも、全部をASSBに押し付けて、尻尾を巻いて逃げるか?」
案の定、影子はノってきた。据わった眼差しでハルを見つめ、にい、と笑って見せる。
「お上手になったじゃねえか……いいさ、ならやってやる。あのウンコ蛇、仕留めりゃいいんだろ? やられっぱなしは癪に障る、今度こそ微塵も残さず粉砕して、そいつの主人を引きずり出してやろうぜ」
「よ、よし……!」
「くぅー、腕が鳴るなあ!」
「あ……でも、影子、勝算は? 前回あれだけコテンパンにやられて――」
げし、と机の下で脛を蹴られた。思わず膝を抱えてぷるぷるする。
「だぁれがコテンパンにやられたってぇ? ありゃただ油断してただけだ。ちっ、今思い出してもハラワタ煮えくり返るぜ……!」
「でも、念には念を入れた方がいいんじゃない?」
「……なんか企んでんな?」
目を細める影子に、渋々うなずき返す。
「この際、わざと敵陣に入り込むことも必要だと思うんだ」
「敵陣ん?」
怪訝そうに眉を顰める影子に、決意を秘めたまなざしで答えた。
「――ASSBの協力を仰ごうと思う」
「……はあ?」
「何と言っても、あいつらは『ノラカゲ』のスペシャリストだ。組んで損する相手じゃない」
「昨日あんだけのことされてか?」
「逆柳。あいつは、きっと利害関係が一致すれば僕たちと手を組むこともいとわない。上層部とは違う、合理的な考えの持ち主だ」
「……虎穴に入らずんば、ってか。いいぜ、面白い。まあ、どこまでもかたくなにアタシをヤろうってんなら、また面白いしな」
悪事を共有する共犯者の笑みをにんまり浮かべて、影子が言う。
この事態、自分たちだけで何とかするのはおそらく無理がある。
だが、ASSB――いや、逆柳のちからを借りることができれば、突破口はある。
今はそれに賭けるしかない。
よし、と自分をふるい立たせて、ハルは残りのカツ丼を思いっきりかっこんだ。
ASSBの本部は意外にも近所にあった。
学校が休みの日、ハルはその二駅隣の本部へと足を運んだ。影子は出てくるとややこしくなりそうだったので、影の中に潜んでいてもらう。
駅を出てすぐの大きな白いビルがASSBの本部だ。スーツのひとたちが行き交う昼下がりのビル前は、ほとんど普通のオフィスと変わらない。ただ、全員がどこか訓練されたような足取りで歩いている。
おずおずとした歩調でビルの自動ドアをくぐれば、広々としたエントランスに受付嬢が座っていた。先日もらって念のためポケットにしまっておいた逆柳の名刺を出して、塚本ハルが面会に来たと伝えてくださいと告げる。
正直、ビルに逆柳がいるかどうかは賭けだった。
受付嬢が内線電話でどこかと連絡を取り、やがてにっこり笑って『お入りください』と入館証を渡してくれる。どうやら最初の賭けには勝てたらしい。
エレベーターで10階まで上がって右手三つ目のドアには、『会議室』と札がかかっていた。ノックをして、失礼しますとドアを開ける。
広々とした室内にはいくつも机が並んでいて、木目調の内装は高級感が感じられた。ブラインドはすべて降りていて、暖かい色味の照明が室内を照らしている。
逆柳は、一番奥まった場所、ホワイトボードの前の席に座っていた。隣には、先日も見た若いスーツの女が立っている。
「やあ、『お待ちしていたよ』、塚本ハルくん」
開口一番、『お待ちしていたよ』ときた。今日ここにハルがやってくるのは計算づくだったらしい。なんだか、すべて見透かされているような気がしてきた。
「……どうも」
言葉少なに目礼をして、とりあえず逆柳の席から一番遠い席に腰を下ろす。広い室内なので距離感がかなりあった。
「おやおや、ずいぶんと嫌われたものだね」
その様子を見て、逆柳は大げさなリアクションで肩をすくめた。
「嫌ってるのは、そっちの方なんじゃないですか?」
「ご明察。とはいえ、『そっち』という表現は的確ではない。ASSBは『影』を忌み嫌う組織だが、私自身はと言えば、実はさほどでもないのだよ」
「……『閣下』。発言にはお気を付けを」
「構いはしない。この面会は録音も撮影もされていない。そのように根回ししてある」
つまり、ハルと逆柳が会うことは『秘密』である、というわけだ。
密会、というやつか。
それならば、こちらにも勝機はある。相手はASSBではなく逆柳個人だ。組織を説得するには骨が折れるが、個人ならばあるいは。
「それを聞いて安心しました。あなたは、その、とても合理的なひとに見えます。自分の目的のためならば清濁併せ呑む、そういうこともできるひとだと」
「短い時間でなかなか良い観察をしたようだね。82点だ。私が合理的な人間であることは認めよう。目的のためには何でもする、それを『合理的』と呼ぶのならばね。しかし、同時にただの人間であることもたしかだ。恐怖があり、嫌悪がある。数々の『影』と対峙してきた分、余計にね」
『影』に話が及んで、会話の取っ掛かりが見つかった。これはアピールのチャンスだ。思わず身を乗り出して、
「影子は恐怖の対象でも、嫌悪の対象でもありません! 普通の『影』じゃないんです! ただの人間と同じように感情があって、たまに普通の女の子みたいになって……いつも、僕を守ってくれるんです。『影』からも、他の色々な災難からも。僕を主人と認めてくれて、忠誠を誓ってくれた。充分に信頼できる相手なんです!」
せつせつと訴えかけるハルの言葉を、逆柳は表情一つ動かさずにただ黙って聞いていた。眼鏡の奥の瞳は、蛇のようにこちらを観察している。
値踏みされているのだ。自分にどんな値札をつけるべきか、計っているのだ。途端、至極居心地が悪くなった。
言葉を途切れさせてはいけない。椅子から立ち上がり、ハルは声を張る。
「影子は敵じゃない! 龍の『影』からも身を挺して僕を守ってくれた! 知ってるんでしょう? 影子が龍の『影』と戦ったこと。ことこの件に関しては、影子はリベンジをしようと思ってます。先日の声明文……龍の『影』のあるじからの。『影の王国』がなんなのかは僕らにはわかりませんが、龍の『影』と交戦して生還したのは僕たちだけなんじゃないですか? 対処法を、情報を持っているのは僕たちだ。そして、あの『影』は必ずまた僕たちを狙って現れる。他に手がかりがない今、これを『利用』しない手はないんじゃないですか?」
一気に『影の王国』にまで言及して、ハルは必死に主張した。逆柳は相も変わらず観察する目でこちらを見ているばかりで、なにも口を挟もうとはしない。
言葉が途切れて、沈黙が訪れた。それでも逆柳はなにも言おうとはしない。
焦れたこちらが更に言葉を重ねようとしたとき、ようやく口を開く。
「『影の王国』、か。大言壮語を吐いたものだ。もちろん、それがなにを指しているかは我々にもまだ検討がついていないがね。龍の『影』のあるじ……君のような『影使い』が何者なのかも、その真の目的も、なにもつかめてはいない。君の言う通りだ、暗中模索とはこのことだよ」
「じゃあ……!」
「しかし」
一筋の希望が見えて一瞬顔をを明るくしたハルの言葉を、逆柳がぴしゃりと遮る。獲物を狙う蛇の眼差しに射すくめられて、ハルはごくりと生唾を呑みこんだ。
「『影』と協力体制を敷くことについては、安易に首肯できない。『影』は『影』でしかない、というのが上層部の決定でね、私も組織に属する身、いくらそれに納得できなくとも、従うしかないのだよ。サラリーマンの宿命だ」
「けど、手掛かりはもう影子しか――」
「塚本ハルくん、大人は時に子供以上に意地を張るのだよ。いくら手がかりが他になくとも、『影』となれ合うことはできない。それはASSBの存在意義の根幹を揺るがすものだ。組織を組織たらしめるものは、規律だ。信念、意地と言い換えることもできる。宗教と同じだよ、なにかひとつ、妄信すべきテーゼを掲げていなければ、組織は瓦解する」
やっぱり、ダメだったか……どさ、と椅子に腰を下ろしながら、ハルは肩を落とす。ASSBという組織の壁は厚く、高く、その牙城にたどり着くことさえできない。子供風情が大人をなんとかしようというのがそもそもの間違いだったのか。
……違う。子供には、子供のやり方がある。かつては子供だった大人を説得する方法が。そもそも、ここで逆柳を落とさなければ話は始まらないのだ。