ハルは顔を上げて、話を切り上げようとしている逆柳にまっすぐな視線を送った。
「……そんなこと言ってる場合か」
「まだなにか?」
煮えたぎるようなうめきをとらえた逆柳が、そっけない言葉を投げかけてくる。構わず続けた。
「組織? 規律? 大人? 『影の王国』が完成したら、もうそんなこと言ってられないんだぞ。僕は、逆柳律人、あなたと話してるんだ。ASSBとじゃない。あなたにも大切なひとがいるだろう? 大切な時間、大切な場所、大切な思い出でもいい。それが全部壊されてしまうんだ。そんなこと、我慢できるのか? 今組織のつまらない意地に付き合ってすべて失う、それでいいのか? 賢いあなたならわかるだろう、組織と心中して、それがなんになる? 今すべきことを考えろよ、守りたいものは何なのか、もう一度よく考えてみろよ」
とつとつと言葉を並べる。観察の眼差しが、すう、と細くなった。
子供は、感情で動く。そして、一対一でやりあう。合理的、いや、超合理的なこの男がそれにノってきてくれるかどうかは賭けだ。逆柳の中に一片でも感情的な側面が残されているのならば、この一打は有効打となるだろう。
しばらくの間、逆柳とハルはただ見つめ合っていた。お互いの真意を探るように、こころの奥底を見出そうと視線を交し合う。
……やがて、ふっ、と皮肉げに逆柳が笑った。この男の笑顔は初めて見たかもしれない。
「まさか、この私に感情論で訴えかけてくるとはね。成熟した合理主義からは程遠い、幼い議論だ。が……」
逆柳が、くい、と眼鏡を上げる。照明が反射してその奥の瞳がどんな風になっているのかは見えなかったが、少なくとも口元は皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
「子供には子供の論理がある。そして、大人にはそれを聞く義務がある。かつて子供だったものとして、ね……君は、私の中の子供だった頃の名残を呼び覚ました。守りたいもの、か。まさか、この年でヒーローをやることになるとはね」
「……『影の王国』を阻止するための手助けを、させてくれるんですか?」
注意深く問いかけるハルの言葉に、軽くうなずき返す逆柳。
「上層部は私が何とか言いくるめておこう。と言っても、動かせるメンバーは少数だ、これは私の独断専行なのだからね。ついでに言うと、これは私の進退にも関わる問題だ」
「進退……クビになるかも、ってことですか?」
「まあ、そうならないよう上手く立ち回るつもりだがね。ともかく、ASSBという組織ではなく私個人の判断だと思っていただきたい。すべての責任は私が負う。それだけの価値が、影子くん……そして、君にあると判断した」
影子だけでなく、自分にも価値があると……? せいぜいオマケくらいの心構えでいたので、その言葉に目を見開く。
「愚者には何の価値もないが、賢者には利用価値程度はある。『利用』させてもらおうではないか。私の守るべきもののために。せっかくつかんだ手がかりだ、大いに使わせてもらおう……君に決意があるのならば、ね」
「も、もちろんです!」
「よろしい。では、具体的な作戦プランの会議に入ろうか――」
ぱんぱん、と手を叩いた逆柳のそばに席を移す。
逆柳が舞台に上がった。これで出演者は全員出揃ったと言える。
あとは、舞台がどう転ぶかだ……
作戦会議は夜まで続き、龍の『影』を撃退し、そのあるじを捕獲するプランがだいぶん形になった。決行は明後日だ。作戦が出来上がった今、あとは機運がどう転がるかになる。
逆柳のもとを辞して、ASSB本部のビルから出ると、もう外はすっかり暗くなっていた。
『影』は光のない夜眠るものらしく、影子は呼びかけても出てこない。
ただのオフィスビル然としたASSB本部の前は、ときおりスーツ姿の男女が通るばかりで、閑散としている。そんな風景を眺めていた、そのときだった。
「あれ……?」
見覚えのある姿が、入れ違いになるようにASSB本部へと入っていくのが見えた。
倫城先輩だ。
どうやらこちらには気づいてないらしく、硬い表情でエントランスへ抜ける自動ドアをくぐっていく。そして、それを出迎えたのは逆柳のそばに立っていた若い女だった。
「なんで、倫城先輩がここに……? それに、あのひと……」
なにか、いやな予感がした。
しかし、まさか、と一笑に付す。
言い知れない不安を引きずりながら、ハルは夜道をたどった。
作戦決行日は一週間後、学園祭の三日後だ。それまでに影子と話を詰めなければ……
「――と、いうわけなんです、師匠」
翌日、いつものように登校前に立ち寄った喫茶店で、マスターにことのいきさつをすべて話した。影子とはまだ話をしていない。影の中で眠っているのだろうか。
「……なるほど、ね」
こぽこぽと音を立てるサイフォンを眺めながら、マスターは目を細めた。
「なかなか壮大な計画だ。今度小説のネタにでもさせてもらおう。それにしてもその逆柳って男、一筋縄ではいかない相手らしいね」
「そうなんです、説得するのに骨が折れましたよ……」
げんなりと肩を落として見せると、マスターは軽やかに笑った。
「あはは、ご苦労様。けれど、それだけ心強い味方ってわけだ」
「『味方』、なのかなあ……あのひとのことだから、事件が解決したら手のひら返ししそうで……」
「まあまあ、そのときはそのとき、だよ」
のほほんと笑ってお代わりのコーヒーをいれてくれるマスター。飄然としていてつかみどころがないのがこのひとだ。今だって、一体何を考えているのやら。
「それに、僕に価値がある、だなんて。リップサービスも程々にしてほしいですよ」
「そうかな? 単身敵地に乗り込んで敵の大将と互角の舌戦を繰り広げる、なかなかできることじゃないと思うけどね。君は自分自身のことを過小評価しすぎるきらいがあるから」
師匠と慕うマスターにそう言われると、なんだか妙に照れくさい。頭をかいてコーヒーを一口。
「そうやって、悪く言えば卑屈になって自分の世界にこもっている君のイデアが、尊大で外向的な影子ちゃんだと思うと面白いね。陰と陽、か。白と黒の世界、美しいね」
「……師匠?」
一瞬うっとりとした表情を見せるマスターに怪訝そうに呼びかけると、すぐにその表情は消えた。いつものマスターだ。
「それより、そろそろ学校の時間じゃない?」
「……あっ!」
腕時計を見ると登校時間ぎりぎりだ。急いで席を立つと、お代を置いてごちそうさまと告げる。
「はい、いってらっしゃい」
ひらひら手を振るマスターを後に店を出る。タイミング的にはそろそろ出てくるはずだ。
「……ん、ん、んー、ぐっもーにん」
するん、と影から伸びたのは、いつもの黒いセーラー服。猫のように伸びをしながら、生あくびをかみ殺している。
「夜は出てこられないなんて、『影』ってのは品行方正な中学生みたいだな」
「清く正しく美しいからな、アタシは。で、結局どーなった?」
端的に尋ねる影子にうなずき返して、
「ASSB……いや、逆柳の協力は得られることになった。作戦決行は一週間後だ。概要は昼休みに伝える」
「おーおー。ついにリベンジマッチか。わくわくすんなぁ!」
今からいきり立っているのか、影子は腕をぐるぐると回した。相当鬱憤がたまっていたらしい。しかし、この分だと猪突猛進で計画を無視しそうで怖い。
「お膳立てはしてあるから、ある程度の手順は踏んでくれよ?」
「踏む踏む、踏みまくる! とっとと計画の中身聞かせろー!」
と、やたら楽しそうにハルの頭を鷲掴みにして学校へ向かう影子。一抹の不安がぬぐい去れない。