……気が付いたら、ハルはもといた空き地にへたり込んでいた。からだじゅう黒いペンキを浴びたかのように真っ黒で、重たい。
ハルを食ったはずの犬の『ノラカゲ』は、どこにもいなかった。
代わりに、手首をしっかりと握りしめているのは――
「こんの……大バカ野郎!!」
ぱぁん!と右頬を張られた。痛みに目を白黒させていると、また左頬を張られる。次は右、次は左。怒涛の往復ビンタで、次第に意識がはっきりしてきた。
「……かげ、こ……」
赤くらんらんと燃えるような瞳に、紙のような肌、怒りをこらえるように歯を食いしばるくちびる。妄想の中の真っ黒な影子ではない、たしかに本物の影子だ。
「あーそうだよ、アタシだよ! アンタの『影』だよ!」
「どう、して……」
「ああ? んんんん? 『ノラカゲ』の腹かっさばいて助け出してやったんだぜ? なに寝ぼけたこと言ってやがんだ? ああ?」
もう一度、派手な音を立てて平手打ちをされる。
「このアタシの許可なしに食われるたぁ、いい度胸してやがるな。誰が、いつ、いなくなっていいっつった? 勝手に食われてんじゃねえ!」
「だって、僕は……」
「はん、価値がねえとか生きる意味とか、そーいうめんどくせえこと考えてんならやめちまえ。バカの考えることだ。ああ、ん、アンタはバカだったっけな。バカの考え休むに似たり、だ。うぜーから考えんな」
バカバカ言われて、感覚がマヒしてきた。そうか、自分はバカだったか。
ぐいっと胸ぐらをつかまれて、鼻と鼻が触れ合うくらい近くに顔を寄せられる。影子の表情は、歪んでいた。いつもの笑みが、いびつになっている。
「大切なのはひとつっきりだ……アタシをひとりにすんな。言っただろ、アンタがいなきゃなんにもなんねえんだよ。アタシをまた野良に戻す気か? アタシはアンタのもんで、アンタはアタシの帰る場所だ……頼むから、アンタのそばにいさせてくれ。どんだけロクでもなくていい、アタシだけは、アンタのそばに死ぬまでいる」
すぐそばにあるのに触れ合えないイデア。交わることのなかった光と影が、邂逅を果たした。その奇跡を、大切にしたいと思った。
どれだけ打ちのめされてもいい、それでもそばにいると、誓ってくれた。
その誓いに恥じない答えを出さなければならない。
「答えろ」
こころの内を見透かしたかのように、影子が問う。ハルは神妙な顔でうなずき返した。
「アンタに、アタシといっしょにいる覚悟はあるか? 妄想の殻に閉じこもるのをやめて、現実と戦う覚悟はあるか?――どれだけ打ちのめされようとも、アタシと共に生き続ける覚悟はあるか?」
ハルは、大きく息を吸い込んだ。そして、胸ぐらをつかむ影子の手首をつかみ返した。
その瞳には、影子と同じような燃え滾るような光が宿っている。
吸い込んだ息を一気に吐き出すように、大音声で答える。
「――覚悟なら、君がくれた!」
「…………!」
影子が目を見開き、息を呑む。
「君が覚悟を決めたなら、主人たる僕も覚悟を決める。君が共に在ることを望むなら、僕はそれに応えよう。君が生きることを選ぶのならば、僕は君を生かすことに全力を尽くす……君は、僕のものだ。どれだけひどく打ちのめされようとも、君をひとりぼっちにはしない。君がいる限り、僕は二度と折れたりはしない!」
それを忘れていたなんて、とんだ大バカ者だ。これでは、主人のクセに影子に頭が上がらないわけだ。
影子がそうしてくれたように、誓いを立てる。
永遠に共にある、光と影の誓いを。
影子はしばらくの間、ぽかんとした顔をしてハルを見つめていた。それから、にっ、と赤い笑みを浮かべると……
ふいに、くちびるにやわらかい感触があった。
軽く触れるだけだが、キスをされたと気付いたのは、その一瞬あとだった。
「!?!?!?!?」
混乱の坩堝に叩き落されていると、影子はすぐそばにあるハルの耳元に妖艶にささやきかけた。
「愛してるぜ、ダーリン。それでこそ、アタシのご主人様だ」
「あ、あ、あ、あい!?」
こういうことにまったく免疫のないハルは、ただ口をぱくぱくさせるだけだ。
そんなハルの脛に、容赦なく蹴りを叩き込む影子。
「いっで!!」
「あはははははは! ウケるし! 童貞丸出しの反応してんじゃねえよ! 今夜はアタシでマスかいていーよ♡」
「誰がかくか!」
怒鳴るハルに、影子はただ爆笑するだけだ。
ああ、これでいつも通りだ。
……ただ、『いつも通り』を乗り越えるためには、まだひとつ、やらなければならないことがある。
「影子、『ノラカゲ』に食われてわかったことがあるんだけど」
「どーせまた、ロクでもねえこったろ」
ダルそうな顔をして耳穴を掻く影子に、真剣な表情で向き直るハル。
「あの龍の『影』のことなんだけど――」
そしてハルは、たどり着いた真相を影子に話した。