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№21 イントゥ・ザ・シャドウ

 昨日の作戦失敗がうそのように、街はいつも通りに動いていた。


 ただ、ハルはいつも通りにはしなかった。喫茶店にも寄らず、黙ってひとりで登校する。昨日影に沈んだっきり、影子は姿を見せなかった。登校時間になってもそれは変わらず、ひとりぼっちで教室に到着する。


「ねえ、今日影子様は!?」


 早速にじりよってきた一ノ瀬に、上の空で返事をした。


「あー……生理じゃない?」


 みるみるうちに一ノ瀬の顔が赤くなる。気が付けば、鞄で脳天をばかん!と叩かれていた。


「サイッテー!」


 この最低発言、影子のが移ったか。移るくらいいっしょにいたのだなあと痛みも忘れて感慨にふけっていると、一ノ瀬はぷりぷりと去っていった。


 机に寝そべり、授業が始まるのを寝たふりをして待つ。


 日常は、影子抜きで淡々と進んでいった。午前の授業が終わり、学食へカレーを食べに行く。きつねうどんを所望する暴君はもうどこにもいない。ひとりっきりで味気ない食事を済ませると、テレビからまた龍の『影』による被害が出たと聞こえてきた。それすらも他人事で、ニュースの途中で席を立って食器を返しに行く。


 午後の授業が終わり、放課後がやってくる。影子がいなくて所在無さげな一ノ瀬を置いて、ひとり教室を出た。


 ふらふらと下校路をさまよい、影子の影を探す。彼女なら自分の影の中にいるはずなのに、そうじゃない気がした。もはや彼女は自分の影を離れて、自由に笑ったり怒ったりしているのが当たり前になっていた。


 いっしょに行ったゲーセン、クレープ屋、どこにもいない。


 最終的にたどり着いたのは、初めて影子と出会ったあの空き地だった。


 薄暗い空き地には前と変わらずに資材が積み込まれ、ひとっこひとりいない。


 資材の上に腰を下ろして、なにかを待つように背筋を伸ばす。


「なぁんだ? ひとりっきりで傷心ぼっちツアーですかぁ? トモダチいねえと悲惨だなあ」


 ひょこ、と路地の影から影子が顔を出す。それでも仏頂面で黙っていると、影子は、ちっ、舌打ちをしてこちらに歩み寄ってきた。


「アタシがいねえところで楽しくやってんじゃねえ。ノケモノにするんじゃねえよ。ったく、アタシがいなきゃなんもできねえくせに……」


 それでも、ハルは笑わなかった。笑えなかった。


 代わりに、すぐそばに歩み寄ってきた影子のからだをぎゅうと抱きしめる。


「なっ、なにすんだよ!?」


「……なあ、影子。影子は、僕のものなんだよな?」


「そーですけど!?」


「僕といっしょにいてくれるんだよな?」


「当たり前だろ!」


「ずうっと、いっしょなんだよな?」


「……そーだよ。どした?」


「じゃあ――」


 影子のからだを少し離して、まだ狼狽している影子と向き合った。そして、くちびるを重ねようとした。


 ……しかし、それは叶わない。


 影子の顔は、まるで塗りつぶされたかのように真っ黒だったからだ。赤く燃え滾るような目も、すっと通った鼻も、意地悪な笑みを浮かべる口もない。


 完全なる黒だけが、そこに居座っていた。


「……あーもう、やめだ」


 妄想をやめて、ハルは頭をがしがしと掻いた。黒く塗りつぶされた影子も頭の中から消える。こんなのは、そう、虚しすぎるだけだ。


 再びひとりぼっちになって、ひどい自己嫌悪に陥る。


 自分と来たらこんなときまで妄想の中に逃げ込んで、情けないったらない。


 本物の影子が見たら呆れるだろうか、嘲笑するだろうか。


 ……どうか、そうしてほしい。


 誰かに責められなければ、自分で自分を責めるしかないじゃないか。


「……影子、どうしてここにいない?」


 アタシはアンタのもんだ、そう言ったじゃないか。


 頭を抱えて悶々と懊悩していると、ふと路地の影からなにかが出てきた。


 最初は野良犬かと思った。しかし、犬の形をしたそれは、墨汁に浸かってきたかのように真っ黒だった。


 ――『ノラカゲ』だ。


 龍の『影』とは無関係だろう、ただひとを食うためにやってきた、彷徨う『ノラカゲ』。


 本来なら慌てふためいて逃げ出すところだが、今はその気力もなかった。


 犬の『ノラカゲ』がゆっくりとこっちへ近づいてくる。すんすんと鼻を鳴らして、獲物を探しているようだった。


「……ここだよ」


 ハルが語り掛けると、『ノラカゲ』の耳がぴくりと動く。はっはっ、と舌を出しながら薄くあぎとを開け、牙をのぞかせている。そのすべてが、黒い。


 もう、いっか。自分にはやっぱり、何の価値もなかった。影子が見放すわけだ。情けなさすぎて消えたいと思ったら、おあつらえ向きに『ノラカゲ』がやってきた。


 これは、きっと運命なんだ。


「……食っていいよ」


 語り掛けられ、『ノラカゲ』は一瞬不思議そうに足を止めた。


 それでも、獲物が目の前にいるのだ、すぐさまこちらに向かって駆けてくる。


 『ノラカゲ』に食われるのは痛いのだろうか。それは勘弁してほしいな。


 口を大きく開いた『ノラカゲ』を前にして、最後に考えたのはそんなことだった。


 そして、じゃぶん、という水音と共にすべてが黒く塗りつぶされる。痛みはなかった。『ノラカゲ』に食われる、ということはこういうことらしい。


 からだが、黒い海に沈んでいく。深く、深く。意識が遠くなる。なんだか、強制的に眠らされているような、そんな感覚。


 暗い海に沈み、まどろんでいると、『ノラカゲ』の意識のかけらが夢のように断片的に入り込んできた。逃げ惑うひと、初めて主人を食ったときのこと、それらが絶望という黒に混じって流入してくる。


 ……あれ……?


 これは、影子だ。そして、僕やASSBのメンバー。更には、先日この空き地で食われたサラリーマンの断末魔。


 そして、これは……


 ここで初めて気づく。


 『影』は、集合的無意識のようなもので繋がっているのだと。なにか大きな意識の根っこがあって、『影』はすべてそこから派生しているのだ。影子も、龍の『影』も、他のさまざまな『ノラカゲ』も、意識を共有し合っているのだと。


 ただ、その集合的無意識は表面に現れることはないのだろう、単なる共有ストレージのメモリーのようなものだ。記憶だけが意識の裏側にあって、普段は表に出ることはない。


 ああ、そうだったのか……


 すべての真相を目の当たりにしながら、それでもハルは眠りに就こうとしている。もう何もかもがどうでもよくなるような強い眠気が、黒い海に沈みゆくハルを満たしていた。


 これで終わり、か……


 目を閉じようとした、そのときだった。


 なにか強いちからがハルという存在を鷲掴みにする。


 黒に混じり合おうとしていたハルを、強引に引っ張り出したのは、傷一つない美しい手だった。


 自分はこの手を知っている。


 やめてくれ、まだ眠っていたいんだ、と駄々をこねるハルを無視して、手は一気にハルを黒い海から引きずり出した。


 まぶしい、外の世界がぐんと近づいて……


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