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連理
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ユロロ
文芸・その他ノンフィクション
2025年04月20日
公開日
5.5万字
連載中
ヨーロッパへ旅行し、イギリスの語学学校に短期入学し、様々な国々の人々と友達になり、「ウエーター」や「ナース助手」のバイトをしながら、英会話を通じて国際的感覚を身に付けて行く青年の話です。

連理

 Nonfiction Nove  ぺンネーム:永棒升石(ながぼうますいし)



連理

ハバロスク号でヨーロッパへ出航の日      Page1

横浜とナホトカ(ソ連)を結ぶ52時間の航海のために、横浜港の大桟橋に到着した。弟、親戚の叔父さんと可愛いお嬢さんのNさん、高校時代からの友人N君達(恋人と共に)私を見送りにやって来られました。 JTB主催のツアーに参加する若者たち約100人以上が乗船し始め、わくわく感を皆が抱きつつ、各人へ割当てられた船室に荷物(私の場合は大きなリュック1つ)を置き、甲板の通路に出て、見送りの人々とお互い聞こえないかも知れない挨拶を皆さん交わして居りました。 私も精いっぱいガードロープから身を乗り出して、両手を振って一時的なサヨナラを叫んで居りました。出航の汽笛が何度か鳴り続け、別れがクライマックスに達し、それぞれの乗船者は一瞬、皆スターになって居りました。 別れのテープを投げる人、それが残念なことに、見送りの人々には届かずに、船と岸壁の間に落ちて海の藻屑へと、外国人の方々は「別れの投げキッス」で暫しの別れを惜しんで居りました。 船は岸壁からどんどん離れ、お互いに見えなくなって、お見送りの皆さんが家路に向かわれたようなので、私達はこれからの2泊3日の旅の同室の人達とそれぞれ紹介し合いました。 8人部屋で2段ベッド、1等ではない、かなり経済的な2等部屋だったと思います。三陸沖を航行中はゆったりした船旅でしたが、津軽海峡へ入るや否やピッチングを交えた横揺れが酷く、船室の皆は瞬く間に船酔いし始め苦しそうでした。 私は大学生時代「ヨット部」だったので、船酔いは関係なく、ゆとりで他人の心配をして居りました。 そうこうしている内に私もゆとりが無くなる位揺れ出して、「指圧の心は母心、押せば命の泉沸く」でお馴染みの「浪越徳次郎」先生の指圧学校に6か月間通い、「家庭向けの指圧」の2コーストレーニングを受けたときに購入した色々な具合への対処法の本の中に、「乗り物や船酔い」を改善に導く指圧の箇所や施術の仕方の指圧方法を思い出して30分程試して見たら、すっかり回復し、その夜に行われる「歓迎のダンスパーテー」に皆さんを部屋に置き去りにしつつ、パーテーのホールに向かいました。参加者はほぼ外国人で、日本人は当初


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10名にも満たない状況でした。 会場の女性スタッフの皆さんは皆「グラマラスな美人揃い」で、音楽が流れ始め、私のすぐ傍に居られた金髪の青い瞳の美人に英語で“Could you dance with me、please?” とお願いしたら、すぐに私の手を取ってホールの中央に進んで下さいました。「ジルバ」で始まり、ワルツ、ブルース、ルンバ等お相手して頂きました。 大学のヨット部時代に、カンパの為のダンスパーテーを時々開いたときに、お一人あるいは女性だけ数人で来られる方達が多く、自分も踊れなく、お誘い出来なかったので、街のダンスホールに通いマスターしました。 それがここでも役立ちました。 「あの人は少し踊れる!」となると他の美人スタッフにお誘い掛けしても毎回簡単にOKして頂けて最高でした! ソ連だけあって終了時間はきっちりして居りました。 ホールに居られた皆さんも私同様にまだ踊り足り無さそうでしたが、美人スタッフの皆さんとお別れで、二次会はありません。 楽しかったです! 部屋に戻ると皆ノックアウト状態でした。 皆さん船酔いで、残念でしたね。 その夜は疲れたのか朝までグッスリ眠れました。 


ハバロスク港 

客船が「オホーツク海」に入ると海は穏やかになり、皆船酔いから立ち直り生き生きして来ました。ナホトカ港に近づくとほぼ軍港のようで、様々な軍艦が停泊していて、 JTBの案内人が「危険なので港の写真を撮らないように」とおっしゃったことを思い出しました。 こんなところで「スパイ」容疑で捕まるのは御免です。 港に着いたら鉄道駅の方に案内され、到着したところが「シベリア鉄道」の発車する始発駅で、待ち時間が約3時間あるとのことで、自由時間になり、仕方がなく荷物を置いて近くに散歩に出かけました。 女学校とその寄宿舎があり、おかっぱ頭の髪型で中学生位の女子学生が 40-50人グラウンドで遊んでいたので、写真を撮ろうとカメラを向けたら、蜘蛛の子を散らすかのように遠くのほうに一斉に逃げて行き、こちらの出方を覗っているようだったので、カメラを仕舞うと又皆観光客が珍しいのか?はたまた「日本人」が珍しいのか?全員が20メートル位の所まで近寄って来て、こちらを見て居りました。                                                                                        


Page3                        危険でないことを確かめているようでした。実に可愛い少女達でした。ベルが鳴って皆、寄宿舎に帰って行ったので、私は駅に戻りました。途中喫茶店がないか?と                       注意深く見て回りましたが、一軒も見当たりませんでした。 やがてシベリア鉄道の発車ベルが小さく鳴って、ジーゼル車が動き出し、ハバロスクまでの約15時間位かかる旅が始まりました。 途中の景色は外が見えないように暗幕で全窓が塞がれ、何のために観光に来ているのか?疑問でした。ちょっとした隙間から外を覗いて見たところ、何のことはない何処までも草ぼうぼうでした。 車内での質素な夕食では「サーディーン、詰まりイワシ」と黒パンにバターとジャムしか覚えて居りません。「ボルシチ」もあったかも知れません。寝台車で昼頃「ハバロスク駅」に到着し、観光バスに乗せられて市内見物でしたが、街角にあった「レーニン」の像より記憶にありません。

次の日に愈々「モスクワ」に向け飛行機で出発です。 空港周辺は厳重な警戒態勢が敷かれここでも写真撮影はご法度でした。 粗末な内装で堅い椅子に座らせられ、アエロフロートのジェット機(ツボレフでしょうか?)、エンジン音が非常に煩さかった。(防音シートが張られていないのかなあ?)その椅子は簡単に外せるようになっていて、いつでも軍用に転用出来るらしいです。 その空港には見たことのない珍しい飛行機が沢山ありました。約10時間以上掛かってモスクワ空港に到着です。                 


モスクワ                                                                        夕方に到着したので迎えのバスに乗せられて、ホテルへ直行で、皆へとへとに疲れて到着です。部屋割りがあり一部屋に2人で、旅の途中で仲良くなった人達がペアーになり、各部屋に移動して行きました。私は特に親しくなった人が居なかったので、黙っていたら一人だけ残って個室に一人で泊まれるようになり、超ラッキーでした。やったねー! 私はバスの中でウトウトして居た勢で元気でまだ寝るには早いので、街が如何なっているのか見に行こうと地図を片手に外出しました。 ホテルの周りに何の面白味も無かったので地下鉄に乗ってみようと探し、50メートル以上ある 


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エスカレーターで下り、電車で5駅(20km位)だろうか、郊外に出てみました。 駅の周りは変哲もない住宅街で深々と静まりかえり、何の面白味も無かったです。            

ところで、とある広場に差し掛かったら以外にも人々が集まり、特に若い兵隊達が帰宅の前にブラブラしていたようで、びっくりしたのは若い男性兵士達がしっかり抱き合っているのに出くわしたことでした。一方が他方を何か慰めているような雰囲気でした。しばらく何となく様子を見ていましたが、「キス」するでも無く、不思議な光景でした。 夜10時頃になったので、又地下鉄に乗車しホテルへ帰りました。喫茶店は残念ながら見当たりませんでした。 次の日は朝から観光バスで約1時間、ボリショイバレーを見に行きました。 上演された題目や音楽に見覚えや聞き覚えが無く、少しがっかりしましたが、美しく鍛え上げられた「ボン キュツ パー」の美体には見る価値がありました。 ちなみに私が期待していた題目は「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」等でした。 1973年6月某日 2日目のモスクワ滞在です。今日朝気が付いたのですが、街中やストリートは、白いものが風に吹かれて舞い上がり、幻想的な光景で、ガイドさんに「あれは一体何ですか?」と尋ねたら、ポプラから出る綿なのか、花粉のようなものとのこと。 路上には綿の吹き溜まりが出来ていて、掃除が毎朝大変だろうなあと思いました。 今朝も観光バスに乗って「赤の広場」やロシアの尖がり帽子のネジレ模様のあるカラフルな丸い屋根の着いた教会を見学するということでした。たぶん国会等も見物するかも知れません。広場の石畳を歩いていると、足の裏に指圧を受けているようでした。流石にここは国際的な観光スポットで、次から次へと観光バスが到着しておりました。帰りのバスを乗り間違わないように気を付けましょう! 帰りの途中で大きなショップで土産物を扱っているスーパマーケットに寄り、私はキャビアの缶詰めを数点購入しました。 今晩の晩御飯は何が出てくるのでしょう? ロシアの国民食の「ボルシチ」が出て来ることは間違い無いでしょう。  さて明日はスウェーデンのストックホルムへ向かいます。





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 ストックホルム

北欧の都ストックホルムです。 アエロフロートの騒音に別れを告げ、金髪やブロンドで青い瞳の美人の多い北欧の街にやって来ました。 ここでこのJTBのツアーは解散です。皆様お疲れ様でした! またこのヨーロッパの何処かでお会いしよう。

その後行く先々で「やあ!」とお互い声を掛け合いました。 大体同じルートを辿っているようでした。 スウェーデンのオープンサンドイッチ「スモーガスボード」の店に行き、(もっとも街中何処にでもありましたが)、味見をしてみました。 見かけはよく知られている物で決して新しいものでは無く、多分スウェーデンの国民食的なものでしょう。民泊し、この日はストックホルム宮殿を見学して来ました。荘厳で煌びやかな印象でした。その後、地下鉄で約12~13駅の郊外まで遠出してみました。 何処にでも広い公園が有り、肌を焼く為に芝生の上に寝そべったり、ピクニックを楽しんでいる人達や水着を着た人達やら、楽しそうに見えました。沢山並んだベンチには、隠居された方々と思われる人々が本を読み、日向ぼっこを楽しんで居られました。そんな中にご高齢の女性達で髪色を紫色に染めている人々が居られ、珍しかったです。 北欧で流行っているのでしょか? 民泊に帰宅すると、スイスから来られたお客さんで金髪の青い瞳の約30代のお姉さんが女主人と共に出て来られ、挨拶を交わしました。その日はそのスイス人と英語で30分程話しました。 良く日焼けしている人でした。 次の朝はこの3人で朝食を食べ、女主人がレヴァーのペーストをパンに挟んで食べて居られました。 私とスイス人はバターとイチゴジャムでパンを食べました。 コーヒーはフリーで何杯でも飲めます。

この2日目はただ何となく街中をブラブラ散歩して来ました。 お昼は例の「スモーガスボード」でした。 スーパーに寄ったら日本では見かけたことのない香料が入っているのか、後で見たら何か小さな「ハーブ」の実のようなものが入っていました。 その後、3日目もまたブラブラして過ごしました。 4日目は少し郊外に歩いて出かけ、昨日の「ハーブ」の匂いが薫って来たので、何処からするのだろうと目と鼻を凝らして探したら、小さな実が沢山付いている木を発見し、木の下まで行って確かめました。 この木の実をパンに混ぜて使っていることが分かりました。 中々食欲を誘う香りです。


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デンマークのコペンハーゲン

5日目にストックホルムを立ち、コペンハーゲンに向かいました。 列車の中で隣に席を予約されたフィンランドから来られたフィニッシュと話し、「義父」がコペンハーゲン

の病院に入院しているので、数日ご主人の代わりに看護するので行くという話でした。私はコペンで観光しますが暇な時間が出来るので、病院へその義父をお見舞いに寄っても良いですか? と尋ねると多分義父は喜ばれるでしょう。というので明日の最大の予定は決まりました。 ブロンドで水色の瞳で美人の奥様とまた明日お話が出来ると思うとたまりません! また意味深なお言葉で、義父は戦時中日本と関係がある秘密の組織に属していたらしい?とおっしゃられたので、何が明らかになるのだろう?と不思議な感じでした。彼女の義父さんに会いたくなりました。兎に角明日が待ち遠しいです。 この日からユースホステルに泊まりました。 朝レンタルの自転車を借り、人魚姫の銅像を設置してある海岸へ行って来ました。 午後から病院を訪問し、受付にフィンランドからの患者さんが入院して居られることを確認し、5分程待っているとご主人が迎えに来られ、奥様から「義父のお見舞いに日本人の方が来られる」旨、伝わって居りました。そのご主人の話では「お父さんはフィンランドと日本を結ぶ工作員の一人だったそうです。」 病室に行くとお義父さんは眠って居られました。 どうも安静状態にあるようでした。                                                                  

ソ連と戦っていた日本とフィンランドは同じ側に立って行動していた様です。 日本とかジャパンという言葉が聞こえるのか? その時だけ「ピクッと」反応したような気がしました。 夕方4時ころまで見舞っておりましたが、奥様は何か用事が手間取っているらしく、今夜は遅くなりそうなので病院へは来ないとの事なので、私はユースホステルに帰りました。 またその後、私が日本へ帰国後も年に2度程手紙のやり取りをしておりました。 どうもその後、奥様が手紙で、「二人は離婚した。」  とのことでした。    


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また、義父は亡くなられたとのことで、 何だかやるせない気持ちで一杯でした。 次の日はオランダに電車で向かいます。                           

オランダ(ネーデルランド)                  オランダへの電車内はやや静かでした。 隣と向かい側に座られていたお二人にお国 

を尋ねると、二人ともにオランダですが、女性は「ネーデルランド」と言い、男性の方は「ベネルックス」とおっしゃったと思いましたが、丁度私達が(にほん、にっぽん、やまと、ジャパン)と時には古語で使い分けるような感じなのかなあ? やがて「アムステルダム中央駅」に着いたので下車しました。 駅の周りは運河で、通りの端には自転車が乱雑気味に置かれ太い鎖で鍵が掛けられて居りました。車輪は大き目で使用者達の脚の長さが覗えます。オランダ人は特に背が高いような気がします。男トイレに入ったら、お小水便器におしっこをするのに、そこが高い場所なので、かなり上方目掛けて発射しなければ下のタイル部分を漏らしそうでした。 朝にアムスに到着したので、地図で確かめながら、今日から泊まる「ユースホステル」へ向かいました。 その途中、どうやら朝から「立ちんぼう」らしき女性達がそのユースホステルの近くの路上にたむろしていました。 どうもここは夜の繁華街に近そうです! ユースにチェックインして、朝食を食べていたら、周りの若者達の中に大きなビニール袋に入ったシリアルを皆で分けながら、ミルクをかけて食べているのを見ました。 簡単で良さそうです。 この日は運河の観光船に乗ってみましたが橋の下を潜り抜ける為か、屋根部分は低かったです。 「アンネの日記」で有名なアンネフランクの隠れ家を訪づれ、中の秘密階段や秘密の部屋なども見て来ました。 そこを出て運河沿いに歩いて気付いたことは、壁を見ると運河側に建物が5度位の角度に傾いていることでした。 また屋上にはクレーンが設置され、階段経由で建物内部に入れられない大きな家具等を 各窓経由で入れようとのアイデアなのかも知れません。良い知恵だと思います。                         次の朝は市内観光をし、観光窓口で教わった「ダイヤモンド研磨工場」を訪れてみました。 観光客が団体でワンサカ、沢山のグループが列をなして居りました。私は単独で行ったので、どうかなあと不安でしたが、観光案内のマネジャーさんが、「日本か

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ら来られたのですか?」と尋ねられ、何故聞かれるのかと思いましたが、「そこにちょっと待っていて下さい。」と言われ何処かに行かれました。 間もなく日本人の綺麗な女性と現れて、「これからこの女性があなたを案内します。」というのです。何でもその女性は銀座の宝石店に勤めて居られ、今回修行や何らかのトレーニングを含め「ダイヤモンドを研磨する工程」等を勉強することを許されて参って居ります、とのことでした。

兎に角「ラッキー!」でした。 30分程詳しくご説明して下さり、久しぶりに日本人の美人さんからお話を聞けました。 ユースに帰宅後、「ハイネケン」を飲むに街中へ出かけました。繁華街では「立ちん坊らしき女性達」が多いのにビックリしました。 次の日はビール工場の見学に行き、出来立てのビールをフリーで頂きました。流石に美味しかったです。 次の日はオランダの第二の都市の「ロッテルダム」へ行って見ました。工業地帯で特に変哲も無く、帰りの時間の関係で、すぐに帰って来ました。


ドイツ

電車で「Hamburg ハンブルグ」に入りました。 ユースホステルにチェックインして早速、夜の街を見学しました。煌びやかに輝くネオンサインが眩しい位です。男性なら分かる「ワクワク」する雰囲気です。ぼんやり歩いているとあちらこちらで若い女性から「声かけ」が有りました。 彼女たちの目的は明瞭ですが、夜に着いたばかりで、トラベラーズチェックを換金していないので、お支払いが出来ません。 それではまた!・・ 


ベルギー             

「Brussel:ブリュッセル」に着きました。この時期のヨーロッパは乾燥しているようで、ビールなど飲み物が美味しいです!「Duvel デユヴェル」を皆さんビンから直に飲む人が多いです。一日だけの滞在予定なので、ユースホステルを朝にチェックアウトし、                        

あの有名な「小便小僧」のオリジナル像を街中に見にやって来ましたが、中々見つからず、人だかりの多い所が有ったので、そこへ行って見るとその像が有りました。 小さな像でした。

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英国 

ベルギーの港から英国の「Doverドーヴァー」港に旅客船で着き、横浜を1973年6月2日に出航し、今ドーヴァーに7月4日に着いたところです。3か月間                    の観光ビザが交付され、これでBournemouth(ボーンマス市)の「ユーロセンター英語学校」で約3か月間英語を学びます。

その船のデッキの長椅子でドイツ人の営業の方とビールを飲みながらこれからロンドンで何をするのかと聞かれ、ロンドンは通過するだけでボーンマス市に2~3日後に向かいます。と言うと、時間があれば明日の午後14時頃なら彼は暇になる予定なので、ロンドン市内を少し案内して上げます。と言うので、お言葉に甘えて会うことにしました。 市内の「ピカデリー広場」が分り易いでしょうから、と紙切れに時間と地名を書いてくれました。これで明日の予定が一つ出来ました。 そうしていると向かいの長椅子に大きなリュックを担いだベルギーの若者が来て、フランス語で私達にしゃべりまくり、私は分かりませんがそのドイツ人が通訳して下さり、「ビールを奢りたい」との申し出でした。 仲間に入りたそうなので、快くお受けしもう一本ビールを飲み始めました。ビールの国のそのドイツ人はアルコールに強そうで、瞬く間に飲んでしまったところ、彼からもう一本奢ってもらいました。 下船してそれぞれがばらばらの目的地へ向かいました。日本人の私はヨーロッパ人達と違い、旅行目的や行き先や滞在期間など詳しく尋ねられ、時間が長くなったので、彼らが乗った次の電車が2時間後で、ゆっくりロンドンに向かうことにしました。 ロンドンの郊外に民泊(Bed & Breakfast )しました。次の日市内を見物した後で、「ピカデリーサーカス、広場」に、昨日のドイツ人との約束の時間と場所に行き、2時間ほど待ち続けましたが彼は現われませんでした。ビジネスが長引いてしまったのかも知れません。連絡方法が無いので、民泊に戻りました。 そこは大ホールに20人位泊まれそうな、多くは2段ベッドで、私は2段ベッドの上段でぐっすり眠っていたのですが、何やら特別な喘ぎ声がして、本能的に目覚めてしまい、見えるところにペアーで泊まっていたカップルがセックスをしていました。私もスッカリ興奮してしまいました。薄目を開けて寝たふりをして見て居りました。


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何だか羨ましい!次の朝そのセックス相手の女性とお話をする機会があり、確かにセクシーな女性でした。彼の方はバイトに朝早く出かけたようです。

その日11時頃「ソーホー地区 Soho」のチャイニーズレストランを目指して行ってみました。 何処が良さそうか歩いていたら、茶髪で薄い水色の瞳で背の高い女性が私に話しかけて来て、「中華料理店の良い店を教えてください。」と尋ねて来ました。 どうやら私をこの辺をよく知っている中国人と間違えた様です。 私は「日本人の観光客です。」と言うと、ア!これは失礼しました。 それでは一緒に良い店を探しましょう!となり、私がこの目の前の店を見ながら、あの中国独特のローストチキンをぶら下げた店なら間違い無さそうなので、ここの店はどうでしょう?と提案し、そこに決まりました。 メニューがかなり多く英語のメニューが有ったので助かりました。私は「ミックスミートと野菜を炒めたものをご飯の上にかける、中華丼のようなもの」を選びました。彼女もそれを試してみたいと、同じものを注文しました。結構美味しかったです!その女性も満足して居られました。(ちなみにそのミックスミートとは、内臓等で胃、腸、レヴァー等のモツでした。) テーブルの上に赤青唐辛子を刻んだ「酢漬け」が置いて有ったので試してみたらそのミックスミートに合っていました。その女性も試して見て、初めて食べてみたがGOOD! と言っておられました。 その女性は「ロンドン大学の学生で、文学を専攻している。」とおっしゃっておられました。 今後のお互いの健闘を祈りつつ別れました。 それから民泊に戻り、リュックを担いでBournemouth行のジーゼル車が出る駅へ向かいました。その車は約2時間半位で目的の駅へ着きました。 遂に目的地に着いたと感慨に浸っている暇は有りません。 「アコモデーション Accommodation 宿泊設備」に近いバス停へ行く乗り場を見つけ、乗車しました。そのアコモは主に「年金生活者達」が老人ホームのように泊まれる小規模なホテルで、年決めで契約し宿泊生活をするところです。12部屋の内半分位を貸しておりました。 残りは観光客等向けに開放し、語学学校と契約し、学生も泊めております。 私の他にはスイス人が一名来られるとのことでした。 そこは主に女将さんとその娘さんと使用人の3人で切盛りし、必要に応じてバイトにお願いするとのことでした。 ここに3か月間お世話になります。                          

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                                                                                次の日そのスイス人が到着し、彼はスマートな青年27歳で化学会社のエンジニアをしているとのことでした。 そこの女主人が可愛がっている中国原産で宮廷に飼われていたのと同じ「シーズー」が私の革靴をやたらにクンクンして、丁度よい大きさなのか、乗っかって離れません。 ご主人は「あなたを気に入ったようです。」と満面の笑みを浮かべて居られました。そのホテルの周りには、同じ規模の小ホステルがあり、やはり同じように年金生活者達が泊まって居られるとのことでした。 海の方へ歩いて約500メートル位で砂浜に出て、散歩に良さそうでした。この辺は緑が多く良い環境です。コインランドリーが近くにあり、生活には便利そうです。 次の日から英語学校が始まります。


朝バスで学校の近くまで行き、早速クラス分けのテストが有りました。 各クラスに日本人が20人中5人位入ることになり、ところがテスト結果、上級の各クラスだけ約半数が日本人となりました。少し回答を間違えて、わざと胡麻化すべきだったと思いました。数日間この上級クラス(G)に居りましたが、クラスのドイツ人女性とフランス人女性が先を争って答えを言うので、私達日本人達は回答する暇が有りません。 これではいけないと思い、校長先生にお願いし、中位のクラス(E)への転入を即お願いし1週間後に転入出来ました。 話すことでは皆同じレベルで、このクラスなら私の居場所があるとホットしました。 クラスの皆は和気会い合いで仲良く勉強です。 楽しい! 毎週水曜日は催しが有り、観光バスで行きホテルに一晩泊まり、「エクスカーション」です。「ストーンヘンジ」や「Bath市のローマンの遺跡の大きなプールのような温泉」や「英国の大教会のCathedral」に行ったりしました。 また、生徒が企画し日本人達は浴衣を着て「盆踊り」を夕方行いました。 ものすごく賑わいました。 時には「ダンスパーテー」が有り、沢山の女性と親しくなり、学校生活が益々楽しくなりました。 好きになったポップスは「カーペンターズの“Yesterday Once More” でした。」この曲は毎回皆に好評で、ぴったりくっついて踊れるので最高でした! ダンスを習っていて良かったです! この6月から9月頃まではここは緯度が高いので、夕暮れは10時頃まで薄明りで、昼間が長いです。この年は特に天気が続き、温かったです。


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2か月が過ぎて学校が終わったらどうしようと皆考える時期になりました。 私は初めから2年位英国に住んで英会話を習得する積りで居りましたので、迷いは有りませ                  んでした。とは言え、生活費を確保しなければならず、ホテルでウエーターの仕事をして見ようと女主人に相談し、早速食事のマナーやカテラリーズ、お皿の置く場所、その他を学び、地方新聞の人材募集欄を調べ、ボーンマスにあるホテルへ学校が終わってからスタッフの募集はあるか? と尋ねに行ってみました。 何処のホテルもショートスタッフで大変と聞き、マネジャーがいつから働けるか?と直ぐに採用されました。 すぐに白ワイシャツ、蝶ネクタイ、黒のパンツ等を購入し、授業が終わってからそのホテルに直行です。 最初の内は中々「チップ」を貰えませんでしたが、メニューの説明が出来るようになってからは、少ないながらも戴きました。スタッフの中に、ウエールズから夏場のみ働きに来ていた3人の学生には色々教えて頂き有難かったです。“カムリアンベス camryan beth”・・・がんばれ!に似た言葉らしく“ウエールズ”の言葉のようです。それまで教わりました。(サッカーで良く叫ばれるとのこと。) 

学校が終了後、それから2か月間はそのホテルで週5日フルのスタッフとして働きました。学校の皆さんとは住所や電話番号を教えて貰い、殆どスイス人の友達でしたが、「スイスに観光に来られたら必ず寄って下さい」と言われました。 特に親しくなった、ダンスを通じての友達や、指圧教室を開いたときの友達方、彼らとは砂浜に水着を着て日焼けしに行ったりもしました。文字通り裸の付き合いでした。 この指圧教室は校長先生の後押しもあり、年配の女性教師も参加され、指圧の押すポイントなどを示したプリントを作り、そのコピーを皆に配りました。 床に学校からお借りした毛布を引き詰めて、床に伏せて行いました。 常時10人位毎週参加して下さいました。指圧教室を開いたタイミングは学校が始まって2か月目で、一か月間週1回行いました。 砂浜へ行ったときは背中を中心とした指圧を教えました。19歳の超グラマー女性への指圧はその肉体の弾力に、指が喜んでおりました。 その後学校が終了してから一か月後に、その年配の女性教師と新しい生徒達のグループ




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に招かれ、飛び入りでしたが、ご自宅で「フルーツポンチ」等をご馳走になりました。 日曜の教会で「バイブルスターデー」の催しがあり、毎回中学や高校位の年齢の女子達と学びました。新約聖書をその教会で購入し、本格的に「キリスト教」を勉強しました。英国を去るまで、またオーストリアに行って苦労していた時も手紙で私を励ましてくれました。信者の皆さんに色々と助けて頂きました。皆と一緒にボーンマスの水資源の有る貯水湖へのピクニックへも参加させて頂きました。その頃は先ず暇の無い毎日を送って居りました。女主人のホテルから出て、フラットレット(家具付きの間借りのアパート)を女主人のご協力で見つけ、そちらに引っ越しました。お皿やカテラリーズ、ガスレンジ、ガスオーブンなど全て備え付けられていて、毛布やシーツまたベッドも勿論ありますので何も新たに購入する必要が無く便利でした。                               

お盆祭りのとき一緒に準備に加わってくれた隣の教室の「上野のトンカツ屋さんの息子さん」と話したとき、ヨットに興味があるか尋ねてみたら、是非セーリングに参加したいとおっしゃるので、早速“Poole”にあるヨットレンタルへ電話して次の日曜日に「6人乗りのデンギー」を半日借りることになりました。 その日は快晴に恵まれ、風は穏やかで初心者3人を乗せてセーリングするには丁度良い感じでした。先ずトンカツ屋さんと言うことで、仮にTさんとしますが、彼に“タック”と“ジャイブ”という方向を変更するときのやり方を教えました。Tさんは呑み込みが早く完璧でした。“ジャイブ”はとっさに方向転換するときに行いますので、この幅の広い河では、また行き来する船が疎らな為、海へ出るまでは勿論のこと、殆ど “タッキング”のみでOKでした。 ここは“the Atlantic Ocean 大西洋”です。見渡す限り海、海、海です。船の航行は少なく陸地を眺めながらのセーリングです。 Tさんと同じクラスの二人の女性達もすっかりリラックスして楽しそうでした。2時間半経過した辺りで帰路も同じ位掛かるので、そこで引き返すことにしました。一艇の半日のレンタル料は約4千円位でした。皆初めての経験だったので、良い思い出になったでしょう。  2か月を過ぎたあたりで、スイス人女性のJさんが帰国されるというので、クラスの約20人の内約10人がTea Shopでお別れ会をやろうということになり、いつも笑顔で皆に人気のある可愛い女性で、急でしたが皆賛成しました。 別れ際はそれぞれ順番にそのshopの外で、


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握手では無く、ハグを交わしました。私はそれなりにドキドキして、見ると女性同士が頬に軽く“kiss”をしている様に見えたので、勿論風習なのだろうと思い、私も左の頬にしてやりました。 何かJさんが苦笑いをしたように思えたので、残りの男女がしているのを見ていたら、頬っぺたを軽く触れているだけでした。 私、ヤッチマッタなあ!その Jさんとは、ある日カンティーン(Canteen食堂)で昼休みが終わっても話し込んで、午後の1時間目をサボッタことが有りました。彼女が言うには日本人は占いが好きで良く「手相」を見るって本当ですか?と聞くので、私は調子に乗って「少しなら見られます。」と言ってしまった。私が海外に出るかどうかを判断する為? 基本的な手相の本を購入し調べたところ、確かにその旅行線がはっきり出て居り、それで海外に行く大きな決心をしたものです。 Jさんは結婚について気になって居る様で、それについては私が小学生5年生のときに、好きだった女子が私の小指の下の部分を見て、クスッと笑ったことで傷付いたことが有りました。 だから未だに「独身貴族」なのです。 Jさんのその部分にははっきりした2本の線が有り、大丈夫安心して下さい、あなたは20代の前半に結婚しますよ!と安心させました。 帰国したら彼にこのことを話すと・・おノロケに聞こえましたが、実に可愛いい女性だったなあ! 夏場のホリディのホテルの営業は終わり近くとなり、次の仕事を探して居りましたが、どこも閉鎖するようで見つかりません。 海岸近くの芝生に座って新聞の「アルバイトの募集欄」を調べていたのですが、何故かイギリス人の若者が声を掛けて来て、「どんな仕事を探しているの?」と聞くので、「ウエーターの仕事です。」と言うと、殆どのホテルは夏場のみオープンしている所が多いので、なかなか難しいかも知れないです。 但し、宗教問題がなければ○○ホテルに当たって見たら如何ですか?と言うので、私はどの宗教にも入っていないです。但し、バイブルスターデーでこのボーンマス市のプロテスタントの教会に行ったことは有ります。 と言うと、それなら大丈夫でしょう。と言うので、兎に角トライしてみることにしました。 その彼に後日バスでお会いしたとき、分かれ際に私が下車する直前に50P銀貨を握手の際に握った手に残しました。彼は不意を打たれたとばかりに微笑んで居ました。彼のお陰で仕事に有りつけたのですから、ほんの     Page15                          小さな感謝の気持ちでした。 そこのホテルはユダヤ教の人達がそこに内設されたシナゴクウ(ユダヤ教の教会)にお参りに来て宿泊する設備で、ホテルは1年中オープンしていることがマネジャーの話で解りました。勿論一般の方達も泊まれます。 彼はいつから来ますか?と言うので、「明日からでもOKです。」と答えると即採用となりました。 朝食付きとのことでした。そのマネジャーは日本のユダヤ教関係のホテルを一度訪問した経験があるとおっしゃって居られました。 ここには色々な国の人々がウエーターとして働いており、例えばイスラエル人(1名)、アラブ系の人(2)、フィンランド人(1)とその夫のエジプト人(1)、フランス人(1)スペイン人(多数)、英国人(多数)等でした。キッチンスタッフはスペイン人が多数いました。 ウエーターの中ではそのフランス人のXさんが最も優秀で、私は彼の真似をし、やがてチップを貰えるようになりました。 彼から凄いことを直接教わりました。それはお客様からメニューの内容や更に味わい等も聞かれることが有り、答えによっては滞在最終日に大きなチップを下さる人が居られるとの事でした。 その為には実際にメインの料理を食べて見るしか無い。ということでした。 お客様が多い場合に可能で、4個以上の注文のときキッチンに5個注文し、ホットチェンバー(小型のガスヒターのホットケース)に1個を入れて置き、仕事が終わってからロッカールームで味見をして見るということでした。早速次のチャンスから実行してみました。それで殆どの食べたことの無い料理は味わいました。 彼程では有りませんでしたが、結構チップを貰いました。彼に感謝です! ところで、カテラリーズ等光物、金属製品(特に銀製品や銀製のお盆等)の管理をされている叔父さんが自分の仕事場の壁に、零戦や自分の搭乗していた英国航空機の古びた白黒写真を飾って居りました。何でも戦時中空軍にいて、戦闘機のパイロットだったというではないか。 戦争前は日本のパイロット訓練生が英国に沢山来られ、彼はその日本人達と共に飛行訓練を受けたとのことでした。彼の場合戦争中はドイツ軍との戦いだったので、日本人達の零戦と戦うことは無かったが、一緒に訓練を受けた日本人達と対峙することになろうとは、全く皮肉なことだったと申しておりました。彼は日本人を恨む事は無いと私に説明してくれました。 クリスマスの期間の約2週間にはホテルは満室でした。色々な催しが有り、てんてこ舞でした。お客様に最も受けた催しは、ウエーター達は女装し、ウエートレス達は男装を強制されました。私は美人のフィンランド人の奥様から赤いスカ

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―トや赤いパンストをコディネーターして貰い、すっかり美女?に変身でした。胸にはパットを入れ、エッチなお客様からは「お尻」を触られ、またバスト何インチ?等と

持てはやされました。お客様の中には変装して来られた人達も居られました。 大変楽しかったです! お正月は数日休みでした。 ところで12月の第1~2                                     週の何日かは恵まれないユダヤ系住民をホテルの費用で約100名以上食事と宿泊に招待して、帰りにはお土産をプレゼントして居りました。偉いものです!1月は暇で、2月下旬までホテルの改装の為に、ウエ-ター達やウエートレス達やキッチンスタッフの仕事は無いとのことでした。但し、もしも改装の手伝いをする気があるなら、臨時に掃除や壁のペンキの塗り替えを手伝えるならお願いしますということで、私は2週間程塗装工になりました。 その仕事の合間に、国道沿いの工場を尋ね歩き、どんな仕事が有るか調査しましたが、余り忙しそうに見えませんでした。新聞の人材募集欄を見るとレンガ積の仕事がウエーターの3倍位の週給ですが、かなりきついらしく身体を壊しては何にもならないのでそれは止め、新聞で募集していた新しく開業するスーパーの仕事の面接に行ったりしましたが、戦争で日本を負かした国なので、日本人にはまだそれなりに就職の制限が有りました。 その市の就職の相談窓口で聞いた話では、病院がショートスタッフで、条件さえ合えば看護師助手として働ける可能性が有るということでした。 早速ボーンマス市にあるRoyal Victoria Hospitalsの人事課を尋ね、指圧の訓練を受けておりますが、関係する仕事は有りませんか?と尋ねたところ、マッサージ関係の仕事は、英国のライセンスが無ければ働けません。看護師助手なら可能性がある。との説明を受け、具体的に準備する事柄を伺いました。 「労働ビザ」は病院が申請するので心配は要りません。後重要なのは、「英国人の身元保証人2名が必要です。」ということでした。 早速、ランドレディに相談に行き、快く身元保証人を引き受けて下さいました。早速手紙を病院の人事課に書くという事でした。もう一人は提出する書面に日曜学校で、バイブルスターデーに通っていた教会の神父様のご住所と電話番号を記入しました。数日後、突然夜にその教会の信者が「神父様に頼まれて確認に来ました。」と話され、正式に神父様に身元保証人 


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になって頂きました。 後は、就労(労働)ビザの発給を待つだけで、旅券は病院の人事課にお渡し済みです。 私の延長した観光(語学学校)ビザの期間は2月末までなので、まもなく切れてしまいます。2月末に結果が病院に届き、「30日以内に英国を出国すること。」という命令でした。 私は昨年日本人の逃げ回っている人から、再就職の為にビザを申請したら、拒否され、お金が無いので、前の働き先だった英国人からコッソリ働かせて貰い、生活しているが、暖かくなってから、 ヨーロッパ大陸側に行き、そこで英国へのビザ申請を再度トライする。とおっしゃっていたのを思い出しました。その日本人はこのボーンマスのパン屋で働く人の友達です。そのパン屋の彼が英国女性と結婚するというので、この市に住む私を含め6~7人の日本人達を友人代表として結婚式に出席して貰うことになった経緯が有りました。その彼のフィアンセもですが、彼女の妹は金髪で青い瞳の華やかな美人でした。 日本は英国の植民地になったことは無いので、病院が知っている英国の旧植民地の「コモンウェルス」の関係には無いので、労働ビザの申請後は外国で待たねばならない、詰まり一度英国外に出る必要が有ったのです。私は薄々分って居りましたが、病院側が大丈夫だとおっしゃるので、試して見ましたが、矢張り駄目でした。 まだヨーロッパ大陸側も寒く、観光シーズンでは無いので、3月30日ぎりぎりまでここにいた方が得策で、それまでに色々と調べものをしていました。 

                                                   女主人は親切にお知り合いの弁護士さんに相談され、私を伴ってご意見を聞くに参りましたが、私と同じ考えだったので、腹は決まりました。 出国の数日前に海岸に行き、 “I’ll be back England again!”と叫んで来ました。最後の一歩手前の悪あがきになるのかなあ? カッコいいでしょうか?


英国から出国

1974年3月31日に英国を出国し、フランスのパリに寄って、美術館や博物館等を見学し、特にギリシャの「ミロのビーナス」の大理石像が印象的でした。市内の安い        


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 小さなホテルに泊まり、階段の中間程に有った植木鉢の土の上に無数の色々な国のニッケル系の少額コインが捨てられており、日本の穴開き真鍮の5円コインも数枚有ったので、ここに日本人が泊まっていたことが有ると分かった。その後、何件かの美術館や、エッフェル塔、凱旋門を見て、セーヌ川の辺りをブラブラ歩いたり、ノートルダム寺院を見たり、色々な観光スポットを写真に撮ったりしました。 ついでにカルチェ・ラタンをブラブラし、夜はモンマルトルの辺りを歩いてみました。 世界的に有名なキャバレー「ムーランルージュ」のドアマンに今日は席に空きが有りますか?と尋ねたところ、入るにはスーツとネクタイの着用が必要です、と言われた。最高の社交場だから尤もだと納得しました。もちろん経済的にそんな余裕が無いのはお分かりですよね? 何だか沈んだ気持ちで歩いているので、余り楽しくは無かった。 電車から降りて、大通りを横切る地下道を歩いていたら、無数の紙切れが散乱し、やけに綺麗な紙切れが有るので何となく拾い上げたらカラフルな偽札状の綺麗なピン札で、信じられなかったから、一枚だけ記念に持ち帰ったが、次の日お釣りで貰った10フランの新札と比較したら、全くそっくりで、万一偽札なら捕まってしまうかも知れないので、本に挟んで置きました。それをパリ滞在の記念品として今も保存しているけど、本物ならば同じものを拾い集めて置けば良かったかも知れない。何と卑しい考えだろう。  それからスイスのチューリッヒに向かい、ユースホステルに5日宿泊しました。 数名のスイス人の友達がチューリッヒに居りますが、荷物が重いので、観光し易いように、切手を集めるのが趣味のKさんのマンションに行って見たが、生憎不在で、段ボールに色々詰めてドアのそばに手紙を書いて置いて来ました。(置き配?と言うことです。)英国に帰ってから送り返して頂きましたが、ビックリしたと申して居りました。

次の日は指圧を教えた結婚予定のカップルと会う約束をしていたので、チューリッヒのユースホステルに車で迎えに来て貰い、彼等のマンションに行きました。昼食をご馳走になり、英国での思い出をお互いに語り合って楽しい時間を過ごしました。 夕方にユースまで送って頂きました。 ユースに帰ったら若い日本人達が数人話し込んで       


Page19                                   いて、そこにジョイントしました。一人が言うには、明日都合が悪く、オーペアもやっているが、誰か1日だけ代わりをしてくれないか?と言うことでした。3人の若者達が誰 

もOKと言は無いので、仕方なく私が行って上げようか?と提案したところ、初対面ながら私を信用してくれ、次の朝早くチューリヒの駅にやや近いマンションに行き5歳の男の子の面倒を夕方まで見ました。英語対スイス独語でしたが、利口な子供で何となく通じました。 夕方奥様が帰宅され、無事その子をお返し出来ました。私に頼んだ若者が多少日本語を教えていた様で、其の勢かも知れません。 次の日はよくダンスで一緒だった女性と彼女が銀行のバイト後に4時頃会うことになっていたので、駅の近くで待ち合わせ、湖へ行き、白鳥のボートのペダルを踏み込みました。 色々ボーンマスの思い出を語り合って、楽しい時間を過ごすことが出来ました。 その後、賑やかでカジュアルなレストランに案内され、日本人はカレーライスがお好きらしいので、ここのヨーロッパカレーを試して見ませんか?と提案され、どんなカレーか興味が沸き、注文することになりました。何とパイナップルの入った甘口のカレーでした。完食しましたが、お味は如何でしたか?と尋ねられましたが、つい目を合わさないで答えたので、本心がバレバレだったかも知れません。

お別れは小さな駅のプラットホームで、彼女が乗る電車が来てからハグし(頬にキスはしないで)別れました。 次の日は何件かの小さなレストランのキッチンを尋ね、シェフにバイトの可能性を聞いて歩きましたが、どこも観光シーズンで無いので、今はスタッフが足りていると丁重に断られました。 せっかくスイスに来たので、ユングフラウ(若い乙女:標高4,158m)やアイガー(3,970m)等の聳える山に行くのに登山鉄道へ乗ってみようと、インターラーケンへ向かいました。凄く綺麗なところで、上の方には「氷河」が有ったり、氷の洞窟が有ったり、オープンカフェで小瓶のビールを飲んだのですが、4千メートルの高度の勢か?具合が悪くなり、悪酔いしました。少し休んでいたら酔いが収まったので、下山を開始し、途中何故かトンネル内で電車が停車したので、そこでアイガー北壁で有名なトンネルを掘った時の岩石や土を捨てた横穴と言うので見て来ました。 ユースホステルに泊まり、シャワーを浴びている途中で、                    ユースに泊まっていた日本人からの情報では、オーストリアは「労働ビザ」が日本人にはすぐ降りると聞いて、すぐに出発することにしましたが、給料はスイスと比べたら半額          Page20                                コイン給湯器が直ぐに止まってしまい、冷水を浴びて嫌が応でも「シャキット」しました。以下だとの情報も得られました。 観光シーズンになったらここに戻って来ようと、ホテルの住所や電話番号の記載されたインターラーケンのホテルガイドを手に入れました。


オーストリア

オーストリアのウイーン(Vienna)に向けて電車に乗り出発です。途中、冬季オリンピックが1976年に開催された「インスブルック(Innsbruck)」で下車し、スキージャンプの行われたジャンプ台を見ることにしました。 駅の近くの観光案内所で小さなホテルを予約して貰って、そこへの行き方を観光地図の上に印などを付けて頂きました。徒歩で15分位のところで、ブラブラ歩いて行きました。チェックインし終わって部

屋に入ったところで、急にこの盆地状の街に無数の教会の鐘が鳴り響き、18時を報せているようでした。それは賑やかなものです。綺麗な鐘の音でした。一服してからこのホテルの周りはどうなっているのだろう?と散歩に出かけましたが、特段何も店などは無く、ホテルに直ぐに戻りました。

次の日の午前に予定通り、ジャンプ台を見に行き、台上からインスブルックの街並みが綺麗に見え、ジャンパーはその街まで飛んで行くかのように錯覚したかも知れません。午後からまたウイーンに向け電車に乗りました。途中、ザルツブルク(Salzburg)はどんな所だろうと、旅行ガイドを見たら,モーツアルトで有名で、しかもあの“Sound of Music”の舞台だったというではないか、寄って見ることにしました。 ユースホステルに約1週間程宿泊し、「モーツアルトの家」を見学し、サウンドオブミュージックの映画が撮られた所を市内だけで無く、郊外にバスで行って見て来ました。そこでは観光に来ていた台湾の女学生2人とご一緒しました。 一日歩き続けて、ユースに帰って来た時は、足が棒のようでした。観光都市でもあるこの街に何か働き口は無いか? 次の日から一応チェックして見ることにしました。 プライベートな就職エージェントが有ったので、話を聞いて見ましたが、観光シーズンはまだなので、大きなホテルなら可能性はあるかも知れない。労働ビザは日本人ならすぐ取れます。ということで                           でホテルの人事部へ行って確かめることにしました。 ザルツアッハ川近くの大きなホテルが目について、尋ねてみたら、シーズンには毎年日本人の女子1名がベッドメイキPage21                               した。そこのエージェントではバイト情報は無かったので、彼のアドバイスにより、自分ング等を手伝いに来るとのことでした。 そのホテルは「5つ星☆☆☆☆☆のザッハーザルツブルグ “Hotel Sacher Salzburg”」だったと思います。1866年からの長い歴史があるようです。 人事部のマネジャーがおっしゃるには、「まだ観光シーズンには早いですが、あなたがバイトをしたいのならOKですよ!」 但し「ご希望のウエーターの仕事には、2年かかるホテル関係の短大で訓練を受け、卒業し仕事の資格を取らねばなりません。」とのこと。今現在可能な仕事はレストランを併設しているので、今結構忙しくキッチンスタッフの中でも、資格の要らない「鍋や食器の洗い場の仕事」です、とのこと。 私に選択の余地は有りませんので、その仕事をお願いしました。 早速、労働ビザの申請作業や健康診断等の一通りの必須項目を次の日に所定の診断所に行き、OKが取れました。 毎日食事は1食付きで、従業員の為の専属のキッチンスタッフが調理してくれるそうで、従業員の宿泊所が有るので、そこに滞在して下さい、とのこと。 その寮にはこのホテルで働いている「ユーゴスラビアの人達が10人位おられました。後日、歓迎会を開いてくれ、ギリシャ風?のコーヒーの淹れ方で、(私は泥コーヒーと思いましたが、)コーヒーの粉をカップに入れてお湯を注ぎ、砂糖を入れて混ぜて、暫く澄むのを待って飲みます。上澄み部分だけ飲みます。 彼らは皆陽気な人達で、この狭い部屋で民族舞踊を踊り始めました。 この中にリーダー的なお姉さんが私に小声で、「どの娘が好みですか?」等、意味深なお声がけが有り、まさか1人を選びなさいとでも意味するのか?“ドキッと”しました。今夜まさか? ユーゴスラビア人と言っても、ロシア系の白人達やスラブ系や宗教的にはイスラム教の人達とか色々で、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、モンテネグロ等など国民性が異なるのに、「チトウ大統領」は良く共和国を作ったものだと、後で調べて驚きました。 ちなみに、セルビア系の夫婦は「喫茶店側でマスター」をしておりました。彼らは民族舞踏の関係で、日本に行ったことが有る、と言って居られました。 私には特別、紳士的に接して下さいました。彼等は英語を話せました。




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このお二人は他の宿舎にお住いの様でした。 ところで仕事を終わって帰りに通るところに大きなビール工場が有り、ビアホールが併設され、オープンな店で、外から直接入れ、ドアは無く、長い水飲み場でそこにある陶器のジョッキーを自分で洗ってカウンターに持って行き、ビールを注いで貰います。 出来立てで新鮮なマイルドな味わいで美味しかったです。 「お摘み」と言えば、小カブ等が洗面場のそばのテーブルに置いて有り、自分で洗ってカウンターでスタッフに見せて購入します。セルフサービスで安かったです。1か月経った頃、例のインターラーケンのホテルリストを見ながら、何処に手紙を書くか検討を始めました。英語と拙いドイツ語を駆使し、5軒位に送りましたが、その内の一つのホテルのオーナーが、自分のところは決まったスタッフが居るために、「カジノ・クルサール・インターラーケン」に紹介して下さり、そこから夏場にウエーターとして採用したいとのお申し出が有りました。最近日本人のグループが多く来られるので、是非ヘルプして下さいとの、温かいお申し出でした。期間は6月中旬から9月中旬までの3か月間でした。 早速承諾の返事を書き、ここザルツブルクのホテル人事部にはそこへ出発一週間前に辞めることを話ました。 約2か月間余りお世話になりました。  日本人女性のベッドメイクの手助けの方はそのホテルに6月中旬に来られる予定になったと話してくれました。 ところで、スリランカから来られた、私と代わるがわるキッチンの洗い場で仕事をしていた人にだけ、スイスに行くことを話したら、彼はインターラーケンのホテルに2年程働いていたと申して居りました。そこのホテルでは大変もてて、スイス人の女の子達のセックスフレンドで最高でした!とのこと、労働ビザの関係で、もう戻れないそうです。 ところで、時々挨拶をしたオーストリア人のウエートレスを目指しているという、ブロンドで青い瞳が綺麗で、更にグラマラスなスタイルの良い美女と、もう会えないと思うと、少し寂しい気持ちでした。ホテル専門の短大に次の年に入学する予定だと言っておりました。 まだ20歳位の女性で、たまに歯磨きのときに髪に白い歯磨きペーストが付いていたことが有り、拭いてやると恥ずかしそうな顔をしていました。その表情がとても愛らしかったです。1974年6月某日ザルツブルクを出発。 それからスイスのチューリッヒに向かい、インターラーケンへ移動しました。 

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スイスに再入国

インターラーケンに帰って来ました。 「カジノ・クルサール・インターラーケン」の受付に寄って、本館でディレクターの奥様が色々これからのことを説明して下さいました。明日すぐに労働ビザを貰いに、イタリアとの国境近くにある税関(ビザ申請所)まで電車で行くことになりました。朝早くに従業員の寮を出て、約5時間以上掛かって税関に到着し、直ぐに一枚の用紙に必要事項を記入し、奥様から預かった書類を係員に渡し、1時間程待って労働ビザを交付され帰路に着きました。途中長い高架橋を渡り、結構景色の良い観光ツアーをしました。 次の朝に奥様のご主人のディレクターに面会し、今後の予定等をおっしゃったと思いますが、全てスイス独語なので、時々奥様が通訳して下さいましたが、途切れ途切れの為、大まかに理解しました。 ウエーターの服装でそのクルサールやコンサートホール、広いイベントホール、付随するコーヒーショップやバーラウンジ、本館にある従業員の宿泊所等を案内してくれました。 ここの従業員もユーゴスラビアからの労働者が多いようです。 また次の日は、ウエーター仲間になる人々(2人のイギリス女性達、スペイン人、ホールマネージャーの奥様の美人妹、スイス人夫婦で(その奥様はキッチン担当で彼はルーレットホールでルーレット回しの役目)、外国からの作業スタッフ、ホールで演奏する3人の音楽演奏家(ピアニスト、フルート類奏者、ヴァイオリン演奏者)を紹介されました。  演奏家達はプロで、東欧の国から来られたそうです。3人の奏でる音楽の響きは素晴らしかったです。毎日ホールで演奏されますが、聞き惚れてしまい、飲み物の注文を取るのを忘れそうでした。 晴れた午後は、庭園でお茶類や他の飲み物の注文を受けたまわりました。 外での演奏は音が流されてしまうので、のんびりしますが、音的には反響の有る室内の方が良いです。 ところで、私達ウエーターの収入は飲み物の売り上げから出るので、家庭を持つスペイン人は早朝に花屋さんでポットに花を植え替える等、土いじりのバイトをし、その方がその時は実入りが良いので店に言われるまま1時間位の残業をし、ホールのウエーターの仕事時間に遅れて来て、マネジャーにこっぴどく怒られて、遂に解雇されました。6月は観光客が疎らなので、私達も僅かな収入でした。 イギリス人の1人の女性ウエーターは些細な問題を起こした、イギリス人の1人の女性ウエーターは些細な問題を起こしたらしく、7月に入ってか Page24                        イギリス人の1人の女性ウエーターは些細な問題を起こしたらしく、7月に入ってか                        ら解雇されました。 7月下旬には毎日賑やかで沢山の観光客が入館され、儲かり7月に入ってから解雇されました。                                                    バ-ラウンジで働くイタリア人のウエーターは余りの忙しさで、飲み物やお摘みの集金をまとめてしようとしましたが、気が付いたらグループで来ていたお客様達が約10人以上お金を払わずに帰ってしまい、自分の財布にキープする釣り銭が無くなり、商売出来なくなってしまいました。最悪です。 プロバンドのメンバー達以外、そのホールには彼がたった一人のウエーターなので、全ての人達への目配せは出来なくしょうが有りません。 次の日に彼は、誰彼構わずに、私にもお金を貸してくれと頼んで来ました。あのやり方ではまたお客に逃げられるのを想像が付くので、誰も貸しませんでした。それで彼は廃業せざるを得ませんでした。 厳しいものです。私たちは貸し売りをしません。 その場で集金します。 バーラウンジには新しいスイス人のウエーターが入りました。 先に紹介されたマネジャーの奥様の美人妹の恋人でした。 8月は最も入場者が多く、日本人のグループの観光客は50人以上が団体でド~と来られ、私の役目は大きかったです。皆さまから声掛けされ、色々尋ねられたりしました。日本人達はきっぷが良いので、沢山のチップを頂きました。 日本人の高校生バンドもやって来られ、夏休みの期間だけですが、ヨーロッパ中を駆け足で演奏旅行をしているとのことでした。 イベントホールの催しは多彩を極め、スイスホルーンの集い、東欧からの民族舞踊、竹笛(サンポーニャ、パンフルート)、ホルンバンド(このグループは後日、日本へ来られ、虎ノ門ホールで行われたコンサートに私は聞きに参りました。その竹笛奏者は痩せた人でしたが、日本に来られたときは恰幅が良くなり、2年間で裕福になられたのが分りました。最初は見間違えたと思いましたが、曲を聴いていると「アッこの人」だったと安心しました。  その他の本格的バンドが目白押しでした。 9月はそろそろ観光客が減り始めました。 ところで、3人の東欧からの音楽奏者の皆様は、お客様にモテモテで、いつも中年の女性達が朝から寮まで押し寄せ、中にはミュージシャンの部屋に泊まってしまった人もおりました。 聞くところによると、スイスにある、ある外国大使館の奥様方とのことでした。 浮気相手に選ばれた音楽家達が可哀そうでした。(何にせ、金持ちなのか?デブ揃いでしたので、これは失礼!)  


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愈々英国への「労働ビザ」の再申請の時になりました。 あの病院へ手紙を書き、再申請のお願いをしました。 引き続き雇うことを確約して下さり、安心しました。

やがて程なく返事が来て、こちらがクローズする頃に英国に向かいます。 インターラーケンのホテルに見習いで来ていたシェフ達3人とバーで偶然お会いし、彼らのホテルの寮を尋ねて行って、皆で盃を交わしました。彼らは広島県から来られたそうです。 またある午後の仕事終わりの休み時間に外を歩いていたら、神田でドイツ語会話に通っていた時に同じクラスで学んだ東京医科歯科大学病院の医師に偶然お会いし、ご家族と来られドイツの病院勤務をしていて、休暇で観光に来て昨日ここに着いたとのことでした。近くのホテルに泊まっているので、今夕時間があったら来てみませんか?とおっしゃるので、行ってみました。 奥様は旅行疲れで、少し具合が悪いそうでお会い出来ませんでしたが、可愛い娘さん2歳位を抱いて下りて来られ、玄関で

お会いし話をしました。 彼とご家族は更に少しゆっくり観光してからドイツに帰るとのことでした。  数日後、朝早く、見送りに3人のシェフと金髪のスイス人女性(私より3歳年上で、小学校の先生で、ボーンマスでのパーテーでダンスをしたことも有りました。スイスでは休日に車で近くをドライブに誘ってくれて食事を一緒にしたりしました。)に駅でお別れし、愈々イギリスへ出発です。


英国に再入国の日

遂にこの日(1974年9月26日)がやって来ました。ドーヴァーの港に着き、12か月の労働ビザが下りました。 一応病院の人事課に確認を取るので、お待ち下さい。と言われ、8時間近く他の3人と同じ部屋で待って居りました。もっとも彼らは5時間位待ち、出て行きましたが、日曜日だった為か、ボーンマスの人が中々捕まらず、8時間缶詰めになりましたが、夕方無事に確認が取れ釈放?(自由に)されました。 すぐ次の電車でロンドンに向かいました。 今回はホテルに泊まり、次の朝にボーンマスへ向かいました。 そのホテルにチェックインし、指定された部屋の鍵を開けたところ、先客の荷物が未だ有り、フロントに戻って説明し、他の部屋の鍵を貰い無事宿泊出来ました。 ボーンマスでは看護師寮に寄宿し、先ずは安心の一服で、久し

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ぶりに風呂に浸かりました。大陸側はどこもシャワー設備のみだったので、バスタブは良かった。身も心もスキッリし、軽やかになった気がしました。明日から私は看護師助手です。(Nursing Auxiliary ナースイング オーグゼリイアリ 看護師助手)その寮にはテニスコートが併設され、その内一度プレイします。 この寮は高齢者専門の患者用の病棟の一部に在り、セメトリー(cemetery お墓)に近いそうです。真っ黒な猫がいて、撫でてあげたらすぐになついてゴロゴロ喉を鳴らして来ました。賢そうな猫です。病院では10時頃の休み時間にカンティーンに行きお茶し、昼食もそこで無料で何かを頂きます。ほとんどホットベジタブル付きでした。英国人は余り生野菜を食べないようです。私は一度も生野菜を食べる機会は有りませんでした。野菜は主にキャベツ、ニンジン、ポテト(色々な調理法で)、オニオン、トマト(茹でる、オーブンで焼く等)、味付けは塩、胡椒、トマトソース、マヨネーズ、カラシ、等などでしょうか。17時まで働いて寮に帰宅です。 私の配属された病棟は「オーソペディック ウオードOrthopedic(整形外科)」で、代表的病気は交通事故の被害等で、骨折や打撲が多かった。ほぼ1か月以上治療が必要で、皆顔見知りになり易く、英会話の習得に適した病棟でした。 初めの6か月間はこの病棟の婦長さんは「For Whom the Bell Tolls 誰がために鐘は鳴る」 の女優「イングリッド・バーグマン Ingrid Bergman」に良く似た美人で、責任ある仕事の勢か分かりませんが、少し冷たい感じがする女性でした。 朝1番のミーティングのとき、私がイングリッドに何時も見とれているらしく、看護婦さんは冗談で「婦長さんに惚れているでしょう?」と皆に聞こえがしに言うので、顔が「真っ赤に」なっていたらしく、本当なので、仕方有りませんでした。 オオ恥ずかしい!Routineなのか、6か月後に他の病棟に移動されたので、余り見かけることは有りませんでしたが、遠くに見かけたときは、わざわざ挨拶をしようと、通り過ぎるのを待って”ハロー“と声掛けをしました。その時は、何だか幸せな気持ちになりました。

ところで、看護師助手の第1日目でしたがその午後4時頃の仕事はその日の午後に亡くなられた個室の男性の死体を運び出せるようにシーツで包むことでした。本来はナースがやる仕事らしいのですが生憎その時はパートナーが居なくて、私に手伝うようにとそのスタッフナースが命じるので、何が何だか分からないまま、彼女の言う通り   

                                      Page27                        に手伝いました。 ナースがその方の身体を優しく手早く消毒液で綺麗に身体全体を拭き、私はただ眺めて居りましたが、横向きに半回転させシーツで包みました。 病院の死体置き場に運ぶステンレス製のキャリアーが来て、その役目の男性が頭の方を持ち、私が足の方を持ち上げ、キャリアーの隠れたケース部に移し、私たちの仕事は完結しました。 キャリアーにすっぽりカバーを被せて、誰も中に居ない状態に見えるように設定して居りました。 2日目からは、この病棟でのRoutineなお世話でした。先ずは朝のミーティングで個々の患者達の今朝までの状況や病状を夜間のナースからの引継ぎ事項を、夜間の婦長さんから受け取った朝昼時間の婦長さんが私達に伝達し説明し理解して貰う。そして各グループリーダーがそれらの情報に基づいて普段やらないことが有れば、個々のナースと助手に今日やるべき事項を伝えます。約15分位で終わり、患者達へのケアーが始まります。 必要に応じ、それぞれの患者達に布団の中で使うトイレ(ベッドパン)やひ尿瓶等を配ります。 次にトローリーに湯水を載せ、運びながら、個々の患者達が持っている石鹸で全身の肌を拭きます。 印象に残ったことは、石鹸分を僅かばかり残すようにする事でした。 全部綺麗に石鹸分を拭き取ると石鹸の新鮮な香りやデオトラント効果が薄れるので、そうするらしい。ある種の知恵でしょうか? 1日1回だけの勢かも知れません。 中にはご家族が午後の面会時に拭いてやっているのを見たことがあります。そして、歯を磨いて貰います。 それから、紅茶やジュース等の飲み物をボランティア達がサービスして歩きます。主に高校生が約1時間ボランティアで働きます。 其の時間分は学校の授業の単位を貰えるそうです。 学生達が来ない場合は一般の成人達が他のサービスを含め、必要に応じ2~3時間働いてくれます。ボランティアなので、多分カンティーンでミルクティー位のご褒美でしょう。それから医師とナースの巡回サービスで助手は同行しません。 患者達の個人的なご要望はご家族が面会時に行います。 私達にそんな暇な時間は有りませんので。 昼食を代わる代わるカンティーンで済まし、午後は回復して来た患者達をリハビリ室に案内することも有ります。時には散歩に同行します。主に中庭で行いますが、天気の日は日向ぼっこを短時間して貰うことも有ります。その時間は私の英会話の時間です。17時前に次の夕刻からのシフトのナース達が交代の準備に入ります。3交代制で患者達をケアーします。   Page28                        ナースのシフトは色々有りましたが、2か月後から、私は夜に大学主催の英語教室に週2回通えるシフトを組んで貰って居りました。そこには前年3か月間昼間の英語学校に通った「ユーロセンター」の副校長が講師をしておられました。 

今朝出勤すると、20歳位の女の子が男病棟のベッドに寝て居て、ミーティングでの連絡で、昨夜グループでお酒を飲みその店の傍で倒れて気絶して救急車で運ばれて来たが、生憎女性病棟は満員だったのでこちらの病棟で緊急の点滴を行って、今朝に至るとのことでした。 何でも「急性アルコール中毒」とのこと。 若い人に良く有ることで、日本なら新入生歓迎会で上級生が掛け声と共に無理やり飲ませる古い習慣の有る部活動で発生し、しばしばニュースになりますが、この時良く「急性アルコール中毒」が報告される。 兎に角、その若い女性はグッスリ寝たので、午前中に退院させる予定とのことでした。 カンティーンで昼食後病棟へ戻ったら居りませんでした。 食事に行く前に見かけたのですが、可愛い顔した若い女性でした。

就労1か月を過ぎた頃、私の仕事ぶりに関するチェックが有ったことが後で解りました。働き始めて2週間経った頃、あるスチューデントナースと一緒に働いたとき、まだ慣れていなかった為、彼女が期待したようには、要領よく出来ていなかったのでしよう、どうも人事課の方に「チクった」様でした。 人事課は調査し、今仕事のトレーニング中なので、2か月目にもう一度確認してからどうするかを決めるとの結論が出された模様でした。 私を面接された方は、ナースの仕事は未経験と分かった上での採用だったので、こと無を得ましたが、「危ない、危ない!」 あの気の悪かったスチューデントナースで有ろうと推定出来ます。気を付けよう! 他のナース達には、自分では、気に入られていると信じて居ります。 

最近個室に入られた高年齢の入院患者が私の方を見るなり、「ジャパニーズ ソルジャー!」と叫ぶでは無いか、ビックリしました。その日私とチームを組んだスチューデントナースが彼もナースですよ!と説明しても、「ジャパニーズ ソルジャー!」と叫び続け、困ったものです。 ケアーの為その個室へ行きましたら、今度は「そこにチキンがいるから、ひっとらえて殺せ!」との命令です。参りました。 何度か鶏の首根っこを摑えて殺す真似をして見ましたが、「そこにまだチキンがいるから、ひっとらえて殺せ!」の連続です。 もう構って居られないので、いつも朝にミーティングする男女病棟の中間にある小部屋にベテランのナースが居られたので、この場合どう対処すべきか伺うと、

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「実はその患者さんは“認知症”のようなので、様子を見るしか方法は無さそうだ。」とあきらめ顔でした。それでは私達現場で直接患者さんに接するナースはどうすれば良いのでしょうか?誰か教えて~? その後約10日位してその患者さんが居たベッドは新しく設定にされたので、「あの患者さんは退院されたのですか?」とお聞きすると、亡くなられたとの事でした。 老衰だったかも知れません。多分タイ国とか東南アジアで戦時中に日本兵と戦っていた可能性が有りました。 この病棟では様々な事が起こります。 変化に満ちた環境です。 ある昼過ぎの事でした。このボーンマスの他の語学学校で勉強していたスイス人の女性が交通事故で救急車に運ばれて来ました。例の如く、女病棟は空きベッドが無く、こちらの個室に収容されました。5日位してナースの手が足りなかった日に、私もお世話をすることになり、「何かお困りのことは御座いませんか?」と尋ねてみたら、丁度ナースが来られるのをズーと待って居りました、とのことで、彼女は片足をワイヤーで引っ張り吊り下げられ、片方の手や腕にはギブスが嵌められ、指を動かせませんでした。 私に備え付けの机の引き出しから○○○を取って下さい? と言うのですが、スイス独語の意味が分かりませんので、これか?こっちか?等と手当たり次第に取り出して確認しようとしましたが、さっぱり当たりません。 まさか袋に入っている太めのタバコ状の物では?とそれを避けて居りましたが、どうやらそれらしい、これでしょうか?と尋ねると、小首を下げたとき、パジャマのズボンに目をやると、下半身の部分に乾いた血痕が見え、「アンネ」の日らしいことを悟りました。それで女ナースが来るのを待ちわびていたみたいです。 それを渡すと片手ではそれを袋から取り出せないので、1個だけ出して下さい、と言われそれを取り出したら、片方に紐が付いた吸水棒のようなものでした。 日本でも今は普通なのかも知れませんが、女性が毎月定期的に使うらしい吸水パットですら、私は見たことも触ったことも無かったので、一体これは何?と思いながらお渡ししました。何となくそこに居てはいけないと感じ外に出ました。 それをあそこの中に入れるということは、多分ヴァージンでは無いと思いました、余計なことで済みません。(今調べて見たら、タンポンとのこと、しかも語源はドイツ語なので、スイス独語でタンポン、と言われたのかも?   45年前の事で、失礼しました。)それから約2週間位後にワイヤ

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ーとギブスが外され、自由度を回復したころに、彼女の婚約者がスイスから車で迎いに来られ、退院し帰国されました。ヤレやれ!

ある日、女病棟を手伝っていたら、インド系の若い女性の入院患者が私の手が空いたところを見て、左手を広げて手相を見て頂けませんか? と尋ねられ、うっかり乗ると後が面倒になるので、まあ参考までに、私の手相には外国旅行などする旅行線が出て居ります。それ位より分かりませんと答えました。すると私の手相をマジマジと見て、生命線がすごく長いですね!とある程度手相の知識があるようでした。で、頼みもしないのに、ご自分の手相を私に見せて、彼女の生命線が私の3分の1位なのにビックリしました。ちょっとショックでしたが、「手相の各線は環境や、ご自分の努力などにより変化するらしいことを日本の手相の本で見たことが有りますので、心配なさらずに、先ず病気が治るようにお互い頑張りましょう!」と訳の分からないことを言ってソソクサと退散しました。 それから1週間位してまた女病棟を手伝ったとき彼女は退院して居りませんでしたので、ホットしました。 男病棟にはこの病棟の「主」みたいな人が数人居られ、他の病院が引き取ってくれないし、無理に退院させても看護するご家族がお婆さん以外にいない等々、1年以上入院し続けている人達が居りました。それでも公の福祉制度のお陰で無料看護されます。 ところで長期入院患者の中にまだ30代の男性が、ケンブリッジ大学へ入学が決まっていたのに、交通事故に合ったという。 この当時は「National Health Service」の制度が英国に住む人々全てに行き届いていた時代だったのです。 英国に入国したその日から全ての人々に「ヘルスサービス」が適用されました。(ちなみに、日本人の若者が「サッカー留学」で英国に来て練習中に膝を痛め、入院して来ましたが、無料で約1か月間居りました。彼は日本への帰国を考えたが、英国はサッカー発祥地で長年治療経験が有るというので、適切な治療をして貰えるとのサッカーチームのアドバイスでこの国に留まったそうです。) さて左記の荊の道に投げ込まれたような、両足が有る角度で固まって伸縮出来なくなり、手も変に曲がって指でものを掴むことが出来なくなり、食事はスプーンで何とか

Page31                        食べていました。 ナースが朝のルーティーンで身体を拭いてやると気持ち良さそうで、毎回「見事な勃起」し、マスターベーションが出来ないので、溜まりに溜まっているらしく、男に生まれて辛い人生をベッドの上だけで送って居られるのでした。ある日私と組んだベテランナースは、英国人には珍しく「緑色の瞳をし、優しい女性でした。」以前にはこの病院等のフルタイムの看護任務についておられたそうですが、ご結婚を機に、夫との時間を作る為にエージェントに所属され、週3~4日働いているとの事でした。その患者さんはそのベテランナースがお気に入りで、他のナースと私が組んで看護した時には全然「勃起」はしませんでした。 エメラルドグリーンの瞳の彼女に対し、時々子供のように或いは恋人のように甘えて抱き着く時も有りました。コントロールの利かない「勃起」した男の力ですから、普通の女性ならご自分の立場を忘れて引っ叩くところでしょうが、Nさんの事情を良く把握されているのでしょう、強く抱き付かれて居ながら、子供をあやすように優しく頭を撫で撫でしていると約1分後には「勃起」は収まり、彼は「Thank you Thank you!」と言って笑顔になりました。 傍で見ていて、「このナースは天使ではないか?」と思った位です。

ある日、いつものように忙しい朝、その日は優しそうなスチューデントナースと組み、高齢の女性の皆さんを一人ずつ「床擦れ」予防の為、反対側に寝返しさせて居りましたが、1瞬呼吸が止まり、救急手当を施しましたが、そのまま亡くなられました。そのナースは真っ青な顔になり、「ショック」でうろたえて居る様子でしたが、アクシデントだったので、責任の取りようも有りません。1週間位仕事が手に付かなかったようで、休暇を取った様でした。この仕事を辞めることを考えていた様です。その後、多分「カウンセリング」に通い、回復したみたいです。 引っ繰り返したときに、息が無いので、呆然とそのまま約1分以上両腕で抱えていたのを見て、私も何も出来ませんでした。 寝返ししただけなのに。 しばらくの間、私も落ち込んでいました。

この病院:英国のRoyal Victoria HospitalsはBoscombe(ボスコンべ)に在り、1876年5月に開業されたという、長い歴史の有る病院です。

私の通っていた語学学校(ユーロセンター)のすぐ近くに「カイロプラクティク」の学校が在り、指圧を知っていることで、それはどんな技術なのだろう?と帰りがけに寄って

                                                                         Page32                        見ました。 ドクターが出て来られ、私の興味について、指圧との違いをお聞きしました。 先生はご親切に校内施設をご案内下さり、色々な機械を見せて下さいました。

「カイロプラクテック」は背骨/脊椎を矯正する、或いは安全に元に戻す技術のようでした。ドクターは「指圧」が有ることはご存じでしたが、詳しくは存じ上げないとおっしゃって居られました。 私にとって貴重な情報になりました。 後日、この学校の学生が一人男病棟に入院されたとき、貴方の学校を訪問して、あるドクターがご親切に「カイロプラクテック」について教えて下さいました、と話したら、もう少し脚の部分が良くなったら、その指圧について実技で教えて欲しいと言うので、2週間位して大分良くなって来たので、教えることにし、お話より、実技で指圧をして上げましょう、と実のところ、浪越徳次郎先生の指圧学校に「家庭向けの指圧を習った」だけなので、基本的な

プレッシャー方法だけならやれますが、怪我をされた脚部分を除いて行うとなると、安全を考えて、背中のみの指圧と致しましょうと申し上げ、ベッドの上に腹ばいになって頂き、私もベッドの上に上がり、背中への指圧を約20分間行いました。周りの患者の皆様は、今から何が始まるのだろ?と興味、深々だったと思います。 その指圧を施された患者さんは「気持ちが良かった」と大変気に入って居られました。 今後の彼の勉強に役立つことを期待しました。

寮に帰る前に、「フレンチフライドポテト、とフライドチキン」をフィシュアンドポテトの店で購入し、寮で食べました。ゴミ箱にチキンの骨を捨て、寝ましたが、夜2時頃でしょうか、暗闇に何かゴソゴソしているような気がして、慌てて電灯のスイッチを押したら、大きな白黒の毛の長めの猫がそのゴミ箱のチキンの骨をあさっていました。チキンの匂いに誘われて、入って来たのでしょう。向こうの方がもっとびっくりしたのでしょう、慌てて窓から逃げて行きました。少し空気を入れ替えようとして、開けて置いた勢いで、窓の外に非常階段が在り、そこから登って来たのでしょう。 今後は開ける隙間を少なくしておこうと思います。

12月の月末となり、24~25日はこの病院でもそれぞれの病棟で飾り付をし、私には珍しいことだらけでした。夕食には「スライスされたターキー」が出て、高齢者には「ブランデー約20cc位を小グラスに入れ」飲みたい人達だけに振舞いました。 Page33                        何だか病棟が陽気になり、お代わりを貰った人も居りました。私達はそれぞれが思い思いのおかしな格好に着替え、私はあるナースの提案で、カジノのルーレット回しみ

たく、黒いチョッキを着て(手作りで紙を黒いマジックインキで塗りつぶし作りました。)終わったら直ぐに屑箱行きでしたが。 私達ナースや職員には、25日のランチに大広間に設定されたテーブルに皆集まり、やはり「スライスターキー」を頂きました。 私は例のユダヤ教のホテルで良く摘み食いをして居たので、珍しくは無かったですが、クリスマスケーキは“これ何?”と思いました。 見た目は黒砂糖の入ったケーキのようですが、味は甘ったるかったです。“何にこれ?”と思いました。隣の席のナースに尋ねたら、英国ではこれを食べなきゃ、クリスマスにならないとの事でした。中にはドライフルーツが入っていました。「ガトウ」系統のお菓子でしょうか? 勉強になります。

クリスマスの賑わいが一段落し、静かなお正月で、病院では特に何も有りませんでした。12月下旬に他の病棟にロンドンから派遣されて来た「香港人」の男ナースと知り合いになり、彼は他の寮に2か月位宿泊し、何処かの病棟を応援しますとのことでした。 彼が言うには12月31日はダンスホールへ行くと最高!というので、前にユーロセンターの企画したダンスパーテーの会場が市のセンター近くに有り、彼の車に同乗し、2人で出かけました。やはり滅茶苦茶混んでいて、入れ替わり立ち代わりに、男性と同伴では無い人がほとんどだったので、持てたかのように次々に女性のダンス相手をしました。 「12時のカウントダウン」がマイクで声高々に始まり、5-4-3-2-1-0で“A Happy New Year!” の掛け声で・・皆がキッスをし始めました。 彼が言う「最高」の意味が解りました。私は見ず知らずの5人とキッスを憚りなく済ませました。 12時半となったので、明日もお互い仕事があるので、お開きにし、車で帰ろうとすると、2人の若い女性が駐車場におり、私達に話しかけて来て、自分たちの友達の家でパーテーの続きをするので、出来たらそこまで車に乗せて欲しいとのお願いでした。 運転する彼の隣の助手席に一人が乗り、後部座席の私の隣にも、もう一人の若い女性が乗り込みました。 その彼等の友達の家の近くに着いたら、さようなら!と言おうとしたら、急に私の唇を吸いだして、前の運転席でも2人が抱きしめ合いかなりディープなキスをし始めたので、礼儀か?と納得しつつ、私も楽しみました。 こちらは興奮して来て、おっ○い を少し揉んだら、すぐダメ!といなされて、キッスの挨拶は

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そこで終わりになりました。 凄い経験をしたものです! それなりに楽しかったです!

3月の末となり、ここ英国ではまだかなり寒い日が続いて居りました。 朝6時頃ベッドの中で電車の汽笛がボートかなり長い間鳴っておりました。 何のトラブルだろう?と思いました。何時ものように出勤し、朝のナースミーティングで、婦長さんが「今朝電車への飛び込み自殺が有りましたが、この男病棟の○○さんが亡くなられました。」と告げられ、一同皆仰天しました。 夜間のナースの点検の合間に、その男性は病

院を抜け出して線路に向かい、電車の運転手が前方を確認し難いカーブになった辺りに密かに隠れ、電車が来るのを待って居たようです。

この患者さんは、大学を卒業されましたが、身体に問題が有ったのか?或いは自動車事故等で足が不自由になり、若いころから入退院を繰り返さざるを得ない状態だったようで、不味いのは、自殺願望が強くなり、しばしば問題を起こしていた様です。 ベテランナースからは、「彼女がシフトで一緒のときに、あの個室の患者さんをしっかり見張り、何か普段と様子が異なるときはすぐに彼女に報告して下さい。」と注意されておりました。 トイレが30分位長い時は、私に男子トイレに行き確認して下さいと言われ、何度か調べに行きました。 また食事の時は「セットになっているナイフを渡さないこと。」等、配膳を差し上げるときに点検し、必要ならナースに言ってお肉などをカットした上でお出しするようにとの細かな支持もされました。 その後、キッチンのスタッフ達には理由を伝え、あらかじめフォークやスプーンだけで食事が出来るように、細かく切った上で配膳するようにお願いしたようです。 入院後、約2か月経ち、少し自分で歩けるようになられ、間もなく退院出来そうな状態まで回復し、我々一同ホットしていたところでした。 その退院のことでちょっと先日この患者さんと話したところ、何となくですが、余り喜んではいない様に感じました。松葉杖無しで歩けるようになり、「おめでとうございます。」とその内言う積りでおりましたが、ご本人はどうやら退院が嫌で、全ての苦痛から解放されたい一心で、自殺への決断をされたのかも知れません。とにかく皆ナース達がお世話をし、回復に向かって居られた人だったので、そ                                                                                                                                                      のショックの大きさは大変なものでした。 その約3週間位後のことでした。 男病棟                           に怪我をされ入院された方の体重が約160Kg以上とかで、ベッドに横たわったま  Page35                        ま、動きは鈍く、治療し易い器具を取り付け出来るベッドに移さなければならず、皆で話し合って、シーツを6枚重ねにし皆で持ち上げて移すことになりました。 先ず、それらのシーツを患者さんの下に滑り込ませ、準備が整ったところでシーツの各端を6人で掴んで持ち上げようとしましたが、160Kgは重い~! 女子の力だけではどうにも動きません。ベテランナースが私にベッドに上がってシーツの1端を持ち上げるように指示され、上がって構え、皆で持ち上げましたが、隣のベッドに半分位移動したところで、その重さに耐えきれず、ナース達は手を放しそうになり、私はベッドの上で何とかしがみ付き、必死にこらえて居ましたが、一瞬、皆が手を放したようで、危ないと思い手を放し損ねた私にその重量が瞬間的に大きくかかり、腰の辺りで「ギクッ」としました。 何とかその患者さんをベッドとベッドの間に落とすことは免れましたが、私は暫く動けませんでした。 誰の責任にもしたくないので、ジ~と我慢し、痛くない素振りをして居りましたが、それから10日位、ズキズキし、これが腰痛というものか?と痛さに堪え続けました。 数日後のことでしたが、指圧で何とかならないか? と考え、腰や背骨に当てられそうな小さめのコーヒーカップを見つけて、それを寝そべって当て、30分位「痛、気持ち良い」状態で指圧的な治療を約1週間以上重ね、何とか腰痛から解放されました。 その時以来今でも、時々年に1~2度腰痛が発生します。長年「整体にも通い」痛みを緩和する年月を経て居ります。 それから2週間後だったと思います。この日は何時もより疲れた感じがし、早めに夜10時にベッドに入りました。 多分深夜の2時頃だったと思いますが、「金縛り」に合い、身動きが取れなくなり、意識ははっきりしておりましたが、どうにも動けません。暗闇の中でしたが、「どこかのお爺さん」が私をジ~と覗き込んで居るではないか? いったい誰?“Who are you? What mater is it with you ? “ その内上半身が動けたので、起き上がった瞬間にそのお爺さんは消えてしまいました。 電灯のスイッチを入れ、部屋に誰も居ないことを確認し、鍵が掛かっている事、窓の戸締りもしっかりしており、一体全体何が何だかさっぱり分かりませんでした。 誰かに話しても相手にされ                                                                無いと思い、今日まで誰にも話して居りませんが、不思議な経験をしたものです。 そのお爺さんのお顔に見覚えは無く、思うにその方は亡くなられた人で、この寮の近く                          に有る「高齢者の病棟」に嘗て入院していた人だったのか?その人をこの部屋に以Page36                        前住んで居られたナースが良く面倒を見、そのお爺さんは彼女のお世話になったのだろう? 感謝する積りで出て来たのに、他の人が寝て居たので、多分ビックリしたことでしょう。 私自身は怖くも何とも無い気持ちでしたが、「金縛り」には参りました。 さてスチューデントナースが次々にこの病棟へも参ります。長い場合で1か月位勉強されます。今度来られたナースは以前に交通事故に合われ、この病院にお世話になった事が有るそうで、それが切っ掛けでナースになろうと思ったそうです。 血行の良さそうな独身女性で、活発な人でした。 私が乗馬を習っていると知ると、3週間後の休日に一緒に乗馬に行きましょう?と誘ってくれ、森の小道での馬上のデートの予定が入りました。 中々のグラマー美人で、楽しみにしておりましたが、ある日カンティーンで休憩中に他のナースに「1年後位に日本へ帰国する予定です。」と言ったのをそのナースから聞いたらしく、私にそのデートの予定の1週間位前に、そう言う事なら「私はMadam Butterfly蝶々夫人」になってしまうので、乗馬で森に行くデートは中止にしたいと言われ、ガッカリしました。 シマッタ!余計なことを気軽に話してしまったものです。美人との1日中のしかも森の中でのデートが無くなりました。悔しい~! さて時々ナース達が友達同士で企画し、平日ですが仕事後に何らかのPartyをやりますが、今度は「パジャマ パーテー」だそうです。 興味は有りますがパジャマは着ないので、そのPartyに参加される一人のナースに尋ねたところ、それなら患者用のパジャマがリネン室にあるので、借りたら良いでしょう。というので、鍵が掛かってなかったので、そのリネン室に勝手に入り、1セット借りて来ました。 そのパジャマは次の日に洗濯物ケースに返しておきました。さて寮からパジャマを着たまま歩いて向かい、夜なので暗闇で目立つことは無く無事パーテーする家に到着し、自分より20㎝位背の高いナースと変なチークダンスを踊ったり、あのデートを中止したナースとも踊ったりしましたが、何と!そのナースは元カレと寄りを戻したとの事で、2人で2階へ上がって行きました。 愕然としました。                                        のーテーにウエールズから3人のスチューデントナース達(18歳)が参加され、私も知り合いになりました。私がウエールズ語を知っているのは唯一“カムリアンベス camryan beth”・・・がんばれ!なので、試して言ってみたところ、通じました! そ                        の内の積極的な1人とすっかり近しくなり、 住所や電話番号を交換したり、ダンスPage37                        何曲か踊ったりしました。 ブラウン系の髪色に、薄い水色の瞳をした可愛い子でしたが、ウエールズの首都カーディフでお目にかかることになりました。小柄で私と同じ位の背格好でした。 後日、手紙のやり取りをしたり、状況を報せたりしました。 恋する心が積もったものです! エー?そんなに早く? 休日にそのカーディフへ行き、そこ美術館でフランス人ロダンの「考える人」の黒い彫刻や、女性のあそこが鮮明に彫刻された部分のある女性像を見つめたりしましたが、中々素晴らしい彫刻が並んで居りました。お会いする予定の時刻になったので、彼女からの手紙に書いてあった番号に電話を掛けたら、お母さんが出られ、その朝生憎彼女に突然の仕事、(予定のナースが病欠の為)代わりに出勤となり、「電話が有るのでその旨私に伝えて欲しい」ということで、お会い出来ませんでした。 私もすぐにボーンマス市に帰ってナースをしなければならなく、致し方無かったです。

4月の初旬でしたが、病院近くの家の塀に灰色のコロッと丸々に太った猫ちゃんがいたので、おとなしそうに見えたので、撫でて上げたら、人懐こく頭を私の手に擦って来たので、背中の方も撫でて上げました。指を鼻先に持って行き、移動すると塀の上をズーと付いて来ました。ふっと庭の方を見たら、何と桜が咲いているではないか? 英国で見たのは初めてでした。山桜に似て居りました。 まるで品種改良される前の原種の山桜の様で、そんなに沢山の花は無く、疎らに咲き、多分明治時代頃に日本に来られた英国人が持ち帰られたものの子孫?かも知れないなあ!と勝手に想像しました。 その後も色々なナースに巡り合いました。 例えば、ご自分の家系は筋肉が固く兄弟も同じ位というエージェントから来られたナースで、自慢げに触ってごらんというので、腕に触らせて貰いましたが、その堅さにビックリしました。ボディービルや特に筋肉を鍛える運動はしていないとのことでした。バストも堅いそうですが、そこには触らせ無かったです。残念!  またある日、やはりエージェントからのナースがユダヤ系とのことで、その証拠として肌を一部見せて下さり、血管が透けて見えました。バストなんかも血管がモロに見えるので、夏には肌を十分に日焼けしないと普通の人に                            は気持ち悪がられるので、困りものですとのことでした。  ご親戚がイスラエルに居られるので、今年の夏は「イスラエルのキブツにあるオレンジ果樹園」で働きながら、

時々肌を日焼けして来ます、とのこと。 我々黄色人種に無い悩みが白人には有るのだなあ、だからか?それで北欧の人々は良く日光浴をしているのかも知れない。

Page38                                                   またある日来られたナースはクイーンエリザベスクラスの客船に乗り、その船のナースとして、1年契約で働く予定だと言って居られました。先輩に聞いたところでは、かなり良い待遇らしく、何処かの港に寄港した時以外はお金を使う機会がないので、否でも貯金出来るそうです。 何と、今度は日本語の単語が分かる男性のスチューデントナースが1週間の研修で配属され、「何処で日本語を習われたのですか?」と尋ねたところ、数年前に2年程東京都の吉祥寺界隈にある「子供向け英語会話教室」で英語教師のアルバイトをしていたことが有ると言うではないか! 今では全く日本語を話す機会が無いので、中々言えなくなったが、単語は少し分かるとの事でした。 彼にしてみると、私のような日本人が英国の病院でナース助手をしているのを知って、ビックリしたとの事でした。 仕事で彼と組むことは無いので、彼の日本での話を聞きたいので、お互いに休みの日か夕方に一緒に食事をすることになりました。 私の行ったことの有る中華とイタリアンも出し、何だか怪しい日本食も有るという小さなレストランに彼を招待しました。 何でも1年前に日本人がバイトで手伝っていたので、その時は少しだけ試しに日本のメニューも提供していたようです。 この時に何を注文したか覚えて居りませんが、海苔巻用の海苔が有るというので、出してもらったら、彼は思い出して「Paper Seaweed 海苔」 と懐かしがっておりました。 ただ、「味は良いのですが、口の中に張り付くのが苦手」だそうです。 彼は子供たちに英会話を教えておりましたが、高校卒で教師免許が無いので、資格保持者の同僚だった米国人と給料を較べると半額以下だったらしく、同じ仕事をしても「資格」が無いと惨めな事を悟り、2年で帰国したそうです。日本へは旅の途中で寄っただけで、特に先生のバイトをする目的は無かったが、労働ビザが取れる外国人向けのバイトは少なく、幸い彼は英国人と言うことで、日本では英語の教師のバイトが出来たので幸いだったようです。帰国後何をしようか?と仕事を探したところ、ご自分に合った 

ものは見つからず、資格が取れて、トレーニング中に生活出来る程度の収入が得られるスチューデントナースの制度が有ることを知り、トライしていたのです。 彼はナー

スのトレーニングを通じ、今後続けるべきかどうか?悩んでいるようでした。 その後、何度かカンティーン等でお目にかかったので、悩みを乗り切ったものと思います。 東京では英会話教室から紹介されたアパートの中で、お金が無いので、お風呂の無い

Page39                        安いアパートを間借りしていたそうです。 最初銭湯に入った時、皆さんが彼をジロジロ見るので恥ずかしかったが、年配の人に手振りというか、ジェスチャーで盛んに「タオルを取ってアレを見せろ!」とでも言いたいのでしょうか?よく見ると皆さんそのタオルを頭に載せたり、お風呂の縁の部分に置いたりしていたので、ジェスチャーの意味が解り、その年配者に、 “Thank You!” と言ったら、指でOKサインをしてくれ、会うたびに笑顔で迎えてくれたそうです。たまに自分でタオルを頭に載せたら、皆大笑いで、すっかり日本の社会に溶け込めた気がしたそうです。それでお風呂に行くのが益々楽しみになったようです。

ところで、神田の英会話学校で知り合った日本人の友達がロンドンにアパートを借りて、キリスト教会の事務所でバイトをしているというので、一度遊びに来ないかとのお誘いで、行って見ました。狭い部屋でしたが、木製の2段ベッドが有り、そこに一晩厄介になりました。 夕方彼がロンドンで知り合ったクリニック医院の医者がパブに誘ってくれたというので、医院が閉まった頃に彼の到着をその紹介されたパブで待ち合わせました。 結構大きなパブで、珍しく舞台が有りました。 お客さんでゴッタ返し、早速3人共パイントジョッキーでラガービアーを飲みながら話をしていたら、音楽が流れて舞台に若い女性が1人だけ上がって行き、踊り始めました。 何曲か踊った後何と衣類を脱ぎ始めるではないか?ビキニの水着まで行き、それで終わりだろうと高をくくって居たら、アレあれ全部取ったではないか!そして観客に軽く会釈をしながら舞台の裾に消えたら、次の若い女性が舞台に上がって来て、踊り始め、2人目もグラマーな女性でした。その後、3人目も同じようにストリップステージを終えて、合計約30分位のストリップショウが終り、皆またパイントビアーで乾杯です! さっきの3人の若い女性達がお客達の中へ出て来て、それぞれ何か話して居りましたが、そのお医者さんの説明では、彼女等は女子大生のバイトで、男達と話して「デートの                        相手」を選んで後日会う約束を取り付けているとのことでした。 プラトニックラブというよりは、お互いの合意の下、殆どの場合セックス目的で、女性は特別のバイト代を頂く様です。 先生はロンドン市内に在るこの種のパブを3か所位ご存じだそうです。

次の日ボーンマスに帰ろうと、地下鉄のホームを歩いていたら、日本芸術の宣伝のポスターが貼って有り、私が何だろう?と眺めていたら横から来た中年の紳士がそこに書いてある日本語を読み始め、お互い顔を合わせ、私が試しに日本語で聞いてみPage40                        たら、少しより分からないというので、”Where have you learned Japanese ?” と尋ねたら、日本に約10年間居りましたとのこと。特に日本語は習いませんでしたが、単語だけなら多少分かるそうです。英国大使館に事務官として勤めて居られたようで、日本中を休暇中に旅行したそうです。特に日本で気に入ったのは、何処に行っても温泉が有り、大いに楽しんだそうです。どうやら「007」では無さそうでした。 私がまたロンドンに来た時、観光客が行けない所を案内しますよ!と提案して下さり、お名前、ご住所と電話番号をメモして下さいました。 それから数週間たった頃に、手紙で来週の日曜日に「クイーン・エリザベスとフィリップ殿下」が結婚45周年の祝賀パレードをするらしく、金ピカの馬車に乗って大通りをパレードするので、良かったら見易い場所に案内しますので、如何ですか? とのお誘いの手紙が届き、行って来ました。 宮殿からの大通りを下った後に、他の大通り経由でお帰りになるというので、その通りまで急いで行き、2度も「女王と殿下」を拝見出来、その煌びやかな馬車の行列を見られ、写真を撮って来ました。 可成りの厳しい警官などによる観客達のチェックが有り、北アイルランドの人らしい感じの髭面の男が捕まって警察車両に押し込められたのを偶然見かけました。 その元外交官の話では、この所「IRA」による爆弾騒ぎがこのロンドンでも発生し、北アイルランド人に似た英国人も時々警官に疑われるらしいです。 そのクイーン・エリザベスご一行のパレードを見てから、彼が日常的に訪れる「プライベートサロン」に案内され、入り口でガードマンにクラブの会員証を見せ、私が彼の招待者ですと説明し、無事入館出来ました。 普段彼は多数の新聞がそこに置いて有るので、それらを読んで過ごすそうですが、色々な種類のマガジンもたまに見るようです。 彼はそれこそ独身貴族で、其の後、彼のマンションに                                                   も招待されました。 私に「疲れたでしょう?」と盛んにお風呂に一緒に入りましょう?と誘うので、「私はまだ若いので、大丈夫です。今夜ボーンマスに帰ってからゆっくり入れますので、今入ると却って疲れそうなので止します。」とお断りしました。 ちょっと「ホモッ気」を感じていたので、紳士的ですが、危なかったです! 私は「ホモ」では無いので。 その後、お分かりのように、お互いに手紙のやり取りも止めました。 どうもヨーロッパには「ホモ」の男性が多く、軽い気持ちで私を誘って来るので参ります。 ドイツを旅行していた時は、私が公園で休んで居たら、幾らでもベンチは有るのに、その叔Page41                        父さんがわざわざ私の座っていた長いベンチに腰掛けて来て、 “Lieve ist schoen!愛は美しい!」 と繰り返し言って中々離れないので困りました。 少し独語が解りますが、うっかりドイツ語を使うとヤバイことになりそうなので、理解出来ないという、ジェスチャーで両手を広げたら、離れて行きました。 スイスではヒッチハイクが簡単に出来るので、インターラーケンで働いていた時、日曜日に休日のとき、ベルンへショッピングに出かけるのに、高速道路の入り口付近で「ベルン」と紙に書いたものを車に向け、例の親指を立てる「ヒッチハイクポーズ」をして、ほんの10分位で若い男性が約20メートル位先に車を止めてくれました。 お互い片言の英語でズーと話し込んでいたのですが、いつの間にか私の股間を右手でそっと触り始め、チェンジレバーに触れるふりをしながらだったので、ナニコレ?と思いましたが、高速を走行中で危ないし、ジーっと我慢していたら、すごいテクニックで私のアレを擦って来たので、遂硬く立ってしまいました。 ベルンの街に入り車のスピードが落ち遅くなって、お互いに冷静に成れた頃、ホテルに誘われましたが、私は「竹笛、パンフルート」を探しに来たので、どこか楽器店の近くで下ろして下さい。とお願いし、無事解放されました。 あーあーヤバかった。その道へ踏み外しそうでした。いい気持ちになりかかっていたので、危なかったです。                                     日本のバレエ団(多分、松山バレエ団の森下洋子さんや熊川哲也さんだったかも知れませんが)ボーンマス市にも来られるとのことで、日頃お世話になっていた、またこのナースの仕事の件でもお世話になったアコモデーションの経営者の女主人と娘さんをそのバレエ公演にご招待しようと前売り券を購入し、後日彼女等のホテルへ向かいました。そしたら既に自家用車と知り合いの運転手を手配され、車でその公演                                                の行われる劇場に行き、楽しいときを私も過ごしました。 どうやらお二人とも久しぶりにバレエをご覧になったらしく、「日本のバレエ団も素晴らしい!」と褒めて頂き、自分の事のように嬉しくなりました。 ところで英語学校に通って自分の語学能力が付いている事を確認する為に、”UNIVERSITY OF CAMBRIDGE ・・・ LOCAL EXAMINATION SYNDICATE” 主催の英検を受けて見る事にし、申請をしました。”Listening と Speaking”が弱いので、心配でしたが、 筆記試験の方は自信が有りました。このレベルは“FIRST CERTIFICATE IN ENGLISH” と言うPage42                       ことから、日本の「英検1級」に値します。1975年6月に行われ、結果は多分私が日本へ帰国するまでには実家に到着している事でしょう。 (結果は合格でした。)

8月下旬になり、病院の人事課からお呼びが有り、来月9月に「労働ビザ」が切れるが、その「延長申請」をするかどうか尋ねられました。 私自身は少し迷いましたが、本来の英国に来た目的は英語を必要とする「輸入商社」で貿易関連の仕事をしたい為なので、結局その「延長申請」は行わないことでご理解頂きました。 ところで、1年間の正式な就労だったので、英国の法律により病院は全ての就労者に年間「4週間の休暇」を与えることになっているとのお話でした。 9月中にその休暇を取るとなると日にちが迫っており、結論は2週間の休暇を9月中旬から取り、後の残りの2週間分は、異例な事らしいですが、「金銭でその分をお支払いする」とのことになりました。 病院としても直ぐに9月初めから休暇をとられると、「整形外科」のナースの代わりの人を見つけ難いので助かると大いに感謝されました。  

そんな訳で、愈々帰国へ向けて心の準備をしなければいけなくなり、後ろ髪を引かれる思いが有りましたが、新たな旅立ちへ向け計画を練り始めました。9月中旬に、愈々お世話になったナース達に別れを告げ、今後色々とお互いに希望に向かって歩もうと励まし合いました。

毎日通勤に使っていた自転車は「ドイツ人の男ナース」が同じ寮に移って来られたので、彼にプレゼントしました。 荷物をまとめて日本の実家に送る手配をし終わり、何だか落ち着きました。


スコットランド

英国を出る前に、湖水地方やスコットランドへ旅行します。 ロンドンのEustonから3~4時間かかりOxenholmeで乗り換え、そこからWindermereまで約20分、そこから路線バスに乗り、湖水地方に向かいました。「ピーターラビットの故郷」でも有り、展示場が有りました。 天気が良かったので、ブラブラ散歩し、午後3時頃に元の鉄道駅に戻り、電車でスコットランドに向いました。 「Edinburghエディンバラ」に次ぐ大都市の「Glasgowグラスゴー」に夕方到着し、予約したB&Bに泊まる為に

Page43                        街中を歩いて行ったら、何と甘い香りが街中に漂い、スコッチウイスキーの “Barents Whisky”の本場なので、すごいなあ!と感じました。 B&Bに着いたら、早速女主人が3段重ねの塔のような載せ台にスコットランドらしいお菓子類を持って来られ、私は余りお菓子を食べないので、礼儀として、2個のみ頂きました。 後6個位有りましたが、早めに街を見たいので出かけ、とある小さなパブに入り、スタンドに座り、スコッチの水割りを飲んで居たら、隣に叔父さんが寄って来られ、ウイスキーを飲んでいたのを見て、地元のこのウイスキーを飲んでみて下さいとご親切に奢ってくれました。 香りがすごく良い上等なお酒で、2~3杯となり、心地よくなり、叔父さんと話し込んで居りました。夜10時頃になったので、叔父さんにお礼を言い、楽しい夜だったなあ!とB&Bに帰って来ました。 なんて良い人なのだろう!(そのウイスキーのブランド名をメモすべきでした、が地元のお酒と言うことで、他では手に入らないものかも知れません。)

次の朝、エディンバラ行きのバスに乗り、エディンバラ城近くで下車し、早速丘を目指して登って行きました。 その丘には大学も在り、昼食時だったので、カンティーンに行き、メニューを見たら、子牛のカツレツ骨付きが有り、それを注文しました。このメニューはスイスのインターラーケンの宿舎で食べて以来だったので、少し懐かしく感じられ、美味しかったです。 お城は歴史が有るというか?煤けた濃い鼠色で、昔石炭を各家庭で焚いていたから、その色になったのかも知れません。 この夜もB&Bに泊まり、次の朝にスコットランドの「ネッシー」が見られたらしい「ネス湖」へバスで向かいました。 

湖の端の方でバスを下り、藪を掻き分けながら、湖に下りて行き、カメラは望遠レンズへと交換し、1応ネッシーに遭遇した時を期待しつつ、小1時間ジーと静かに藪の中からカメラを構えて居りましたが、ネッシーが出て来そうに無いので、諦めてその湖畔の行けるところまで約500m位歩いて見ました。 午後2時頃になったので、ネッシーちゃんは諦めて帰りのバスに乗って、最寄りの駅に到着し、ロンドンに向けて出発です。 それからボーンマス行きの出る駅へ向かい、ボスコンべに在るナースの寄宿舎に戻って来ました。次の朝、銀行に行き、口座を閉じるために全てと言っても、200£ばかりでしたが、下して口座を閉鎖して貰いました。そして 女主人と娘さんに最後のお別れのご挨拶に伺い、「シェリー酒(Sherry)」で乾杯して戴き、「日

Page44                        本への帰路が楽しく、安全な旅路と成りますよう、お祈りして居ります!」と言って下さいました。駅へ向かおうとバスを待っていたら、その日は何かカーニバルみたいな行列が賑やかに何台もの車に分かれて水着の美女達がはしゃいで手を振って通過しました。 こんなパレードが催されるとは、全く予想しなかったので、最後に私が皆さんに見送られているかのようで、嬉しかったです。


スペイン

愈々帰国の為の出発の日、1975年9月22日で、ドーバーからパリ行きとなり、パリでスペイン行きの駅を探し、列車に乗り込みました。 国境のピレーネ山脈を越えればそこはスペインです。”Madrid マドリード“へ向かい、そこで2泊の予定で、民宿に泊まり、次の朝は「闘牛」を見に行き、帰りにプラド美術館に寄り、「ゴヤの絵画」等を見、豊満な婦人の絵も見て、帰りました。 次の日の夕方に「フラメンコ」も欠かせないと思い、民宿の叔母さんに聞いた店に行ってみました。激しい踊りのフラメンコで、感動的でした!ギターの弾き方は何か切ない上に哀愁が籠っております。 良いですねえ!

ポルトガル

次の朝に「PortugalのLisbon ポルトガルのリスボン」行の直通電車」は無く、途中で乗り換えてリスボンに到着しました。宿に泊まる前に、まだ午後で時間がたっぷり有                                                    ったので、旧市街の方をワザワザ通り、石畳の道で何だか薄暗い通りを通り抜けました。危険な感じは無く、安全に素通りでした。 宿に着きましたが、まだ夕方には間

が有り、荷物を宿に置いて、ブラブラ歩いて行くと、七輪のようなものの上に金網を載せ、何と鰯を焼いているではないか、何か懐かしい田舎感が漂って居りました。 夕暮れと共に、多少明るい照明の点いた街角を通ると、若い女性達が「立ちんぼう」らしい感じに見える通りがあり、お客とどうやら値段交渉をしている様に私には見えました、真偽の程は解りません。 次の朝、これからどこへ行こうか?地図を広げて北の方へ行ってみようか?等決めあぐねて居りましたが、目的が無く、時間を無駄にしそうなので、スペインへ帰ることに決めました。  


Page45                       (再度)スペイン

Maragaに向かいます。 電車を乗り継いで、途中の駅では3時間位待たされる等、大陸的習慣に慣れねばなりません。 (日本の電車の時刻ぴったりに到着するのと較べると、雲泥の差が有ります。)マラガに到着しましたが、電車から下りたとたんに、その強烈な暑さの洗礼を受けました。宿に着いてから、海パンや湯タオルを用意し、海岸が有れば泳ごうかと思いましたが、海辺へ行くと、日本の港同様で、コンクリートの壁で覆われ、水泳処の話では有りませんでした。靴の底から立ち上る熱さには閉口し、街中に帰り、映画館を見つけ、その中で涼んで居りました。夕方になって漸く宿に帰りました。 次の日は「グラナダ」へ向かって出発です。 そこには「アルハンブラ宮殿 la Alhambra 」が在るようで、何か有名らしい! イスラム教関係らしいです。その宮殿は煌びやかで、中庭に花壇が有り、お花が咲き誇って居りました。夕方になり、宿まで歩いて行く途中にレストラン等は見当たらず、お腹が空いたので、軽食を出しそうなバアが有ったので、入って見ました。 英語が全然通じなくて、仕方なく外にパンのサンプルがガラスケースに入って居たので、そこへカウンターの男性を連れて行き、そこに有ったサンプルを指さし、解って貰ったのですが、その干からびたパンを中から取り出して店の中へスタコラサと入って行きました。 理解して貰えたのは嬉しかったのですが、そのサンプル品を皿に載せて私に出すではないか? ビックリ仰天し                                                     ました。 その状況を見ていた中年の叔父さんが、その男性に大声で、多分「何て失礼な事をするのか?新しい新鮮なパンを用意するべきでしょう?」とスペイン語で言っ

て居られるのだろうと推定しました。 彼はかって船乗りで、日本の港にも寄港した経験が有り、日本が大好きだ!と言って居られました。 英語が出来るので、それから新しいふわふわのパンにバターを付けながら、約30分位彼とおしゃべりをしました。 たまたま良い人が隣に居られたので、助かりました。 次の朝にバルセロナに向け出発です。 バルセロナの宿に荷物を置き、尖塔が何本も並ぶ、「Sagrada Familiaサクラダファミリー」聖堂に向かい、一部分には登ことが許されている所だけ上がって見ました。 何でも後100年位完成に掛かるか、永遠に終わらないかも知れないそうです。 そこを見て写真を撮り、街中に有る「ピカソの青の時代」の美術館を尋ね、拝見しましたが、ピカソらしい絵は無く、若いころは普通の絵を描いていたことが分りPage46                        ました。が少し後の絵に繋がりそうなデッサン画がそこに展示されていました。 市電に乗り、奥の方に行くと、また奇抜な建物が見え、サクラダファミリア聖堂と同じ希代の芸術家「ガウディ」の設計による建物群でした。 実用性は計り知れません。 次の日はコロンブスがアメリカ大陸へ向かった帆船の模造品が港に停泊していて、切符を買って乗船して来ました。 意外と小さ目の船でした。 余程荒波を避けて航海しないと、転覆しそうです。羅針盤が展示されて居りました。 次の日に「イタリア」に向け出発です。


イタリア

途中にある「モナコ」を通り、イタリア北部の港町「Genova ジェノヴァを通り、フィレンツエで1泊し、美術館を見ました。 イタリアルネッサンス時代の絵画が沢山あり、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ミケランジェロの彫刻等を見ました。 ローマ ナポリからポンペイに入り、2000年以上前のポンペイ近くの火山の噴火により埋もれた都市を未だに発掘している所を見、奴隷が戦わされたコロッセ等、貴重な歴史遺産を見物しました。 それからまた電車で下り、ギリシャへ航行するのに出航する港のバーリーに着きました。 


ギリシャ

乗船切符を購入し、間もなくギリシャへ向け出港しました。 穏やかな地中海の海を航海し、のんびりと船旅を楽しみました。 アテネ近くの港ピレウス港に着き、そこからバスでアテネへ行きました。 天気が良く、丘に聳える「パルテノン神殿」を見学に登りました。 見事な佇まいで、大理石の柱が凛冽し 素晴らしい眺めでした。 一部修理の為に立ち入り出来ないところが有りましたが、ほとんどの所を見学出来ました。 宿に戻り、可なり疲れたので、早めにベッドに入りました。

次の朝は早くから「クノッソス」行きの船が出る港へバスで向かい、船の出航時刻に余裕で間に合い乗船しました。 夕方にクノッソス島に到着し、港に近い所で屋台の店を開いて居たところで茹でエビを一袋購入し、宿で食べました。 次の朝に強烈な腹痛と下痢が始まり、トイレを求めてアチラこちらと彷徨いながら、何とか用を足しPage47                        ました。 それこそ観光処では有りませんでしたが、次第に快方に向かったので、午後にはクノッソス宮殿跡などの遺跡の見学が出来ました。 帰りの船に乗る為に港へ行き、またアテネ近くの港に帰って来ました。


パキスタン

 その夕方のパキスタンの飛行機に乗り、出発です。 途中アラブ諸国に止まりながら進み、アラブの乗客の中には「生きたチキンを籠の中に入れたまま飛行機に乗り込んで来て、騒々しい鶏の鳴き声やら、刺激的な匂いやら閉口しました。 次の日に漸くカラチ空港に着き、ほっとしました。 イスラム教の国なので、女性と男性は別々のバスに乗り、皆黒いヒジャブ/スカーフで頭と顔を覆い、目だけぎょろりと見えました。 線路脇を歩いたら、綿の積み下ろしをして居りました。 何処も彼処も綿の山でした。 宿へ帰る途中にオープンカフェというか、お茶を専門にサービスする店が有り、席を探したが混んでいて、そこに18歳位の現地の青年が、同席で良ければ自分の隣でどうですか? と片言の英語でお誘い下さり、お世話になりました。 私も彼と同じ紅                         茶を注文し、この西パキスタン風?の沈殿式紅茶を頂きました。 彼は話好きで、英語で話す機会が少ないので、私と話が通じるのがうれしくて、夕暮れになり、そろそろ、お暇しようとしましたが、もう少し話したそうで、自分の家の夕食に招致したいがご都合は如何でしょうか?と誘われました。 初めての他人の家に行くのは気が引けたので、「ご家族は何人ですか?」と尋ねたら、「祖父母や両親と兄弟姉妹合わせて16人です。」というので、可なりびっくりしました。 何とか言いつくろいながら、彼のご厚意に何度も感謝しつつ、その店を後にしました。 とても親切そうな青年でしたが、こちらの風習等全く分からないので、それで良かったと思います。 私の宿にはレストランが併設されていたので、早速パキスタンらしいカレーはどのメニューなのか?ウエーターに尋ね、英語のメニューを持って来たので、チキンカレーを注文し、「ナン」が付いているというので後はミネラルウオーターを1ビン頼みました。 イスラム教の国々では、「アルコール飲料」は飲めないと旅行本に書いてあったけど、ドリンクメニューにもそれは載っておりませんでした。ところでやはり本場の辛さのカレーでした。 東洋人のお客さん約10人位が入って来られ、突然向こうの大きなテーブルの方で、Page48                        日本語が飛び交い始めました。 日本からの団体客でした。 私は丁度食事が終わったところだったので、切りが良いので、早々に自分の部屋に戻りました。 

朝早くから鳥たちの鳴き声が聞こえるので、木戸の様な窓を押し上げて見ると、大きなカラフルな鳥が木の枝に止まっていて、オームのような口ばしの鳥でした。野生で有り、デカいので直ぐ窓を閉めました。 カラチはおろか、パキスタンの情報はほとんど無かったので、2晩泊って次の旅行先のタイへ移動することにしました。 明日の飛行機の時刻を確認するために、旅行会社を探し、自分の航空券が使える航空会社は何処かも確認するために、街で見かけたのを思い出し、入ってみました。 何とそこに見たのは、やや金髪の美人女性で昨日の同じフライトで下り、バスの中で少し話をした女性でした。 2人の私服警官らしい男性達と一緒におり、「強制国外退去」のような雰囲気でした。 旅行者にしては荷物が少ない感じでしたが、今日もハンドバッグのみでした。 この中東から東南アジア辺りは何らかのスパイ活動が活発な地域なので、何か我々旅行者には計り知れない何かが有るのかも知れないと想像しました。 その女性が無事に何処か中東のアメリカ大使館に無事戻られたことをお祈り致しました。


タイ

次の日タイのバンコックに下り立ちました。 カラチは暑かったが、ここバンコックは海辺と運河(川)に囲まれた地形の為に非常に蒸し暑いです。 旅行本で調べたホテルの方へ行く、乗り合い小型トラックを探し、目的のホテルへ着きました。 安いだけに大部屋でベッドの周りに蚊よけの網が全面にわたって垂れていて、隣のベッドからお互いが透けて見えました。 夜遅く11時頃に着いたので蒸し熱いけど服を着たままで毛布を掛けて休みました。 朝顔を洗った後、クーラー付きのホテルを探し、日本人に人気があるらしいホテルを旅行本に見付け、タクシーで目的のホテルへ向かいました。着いた途端カウンター周辺に若い日本人男女が5~6人居りました。 部屋に入ったら、寒のなんのボーイに頼んで、冷房の温度を調節して貰い、チップ代わりにタバコを数箱上げました。 シャワーを浴びてスッキリし、少し疲れていたので、ベッドに横になったら、3時間程昼寝をして居ました。 お腹が空いていたので、ホテルのカウPage49                        ンター受付に行き、タイのラーメンを食べられる店を聞いたら、直ぐ近くに屋台が沢山出ているので、様子を見ながら選ぶと良いと教えてくれました。 食べたのはラーメンと言うよりは、素麵のような麺で、鳥出汁の澄んだスープで、パクチーを初めて食べたので、その味に「ナニコレ?」と思いました。「パセリの一種かなあ?」と思ったので、ビックリしました。 数日と言うか、毎日必ず何かのスープ系メニューにはそれが入っていて、3日後にはすっかり慣れました。 あと血豆腐が珍しかったです。これもいけます。全て馴れでしょうか? 「青菜と水牛のオイスターソース炒め」は美味しかったです。 ビールは当然ですよね!イスラム教の国では無く、仏教国ですから。 観光にはバスが便利で、朝夕は通勤客の為に、酷い混みようなので、10時から夕方は4時までに帰るようにしました。初日は金色の涅槃像の大きな横たわった仏像や、王様の館とか、観光客向けに開放されている場所を見学しました。 帰るのに大通りの歩道を歩いていたら、観光客に色んな物を売り付ける約10数人の少年達に囲まれ、要らないと両手を挙げた瞬間に違和感を感じ、彼等が急に逃げ去ったので、ホットしましたが、腰のバッグが空いていて、日本円にすると「約5万円」程をスラレました。やられたなあ~!スラレそうな物はもう無いので、賑やかな公園に行くと、大蛇を操る人が余興をしておりましたが、先程の少年達に囲まれたのがショックで、その余興を見ていてもつまらなく見えたので、バスで帰路に着きました。 バンコックは大都会で、何処か田舎に行って見ようと旅行本を見て居たら、北の方に「チェンマイ」と言う所が有り、日本で言えば夏の避暑地の軽井沢的な所と説明が書いて有り、そこに行って見ることにしました。バスで約10時間かかるそうで、早朝の出発です。 私は5時頃出発のバスを選びましたが、途中で1時間程の昼食と休憩時間があり、食事は1品のみで「ご飯の上に細切れの肉と少しの野菜入りのポークスープが掛かった丼物でした。」まあ、いけましたが。夕方4時頃にチェンマイに到着し、少し良さそうなホテルを見て探しました。 チェックイン後コーヒーショップへ行ったらそこに手伝いに来ているという、旦那さんが日本の長野県におられるという奥さんと知り合いになり、チェンマイ周辺の観光スポットを教えて頂きました。 明日知り合いの結婚式が有るそうで、チェンマイの結婚式をご覧になりたいなら、案内して上げるといい、日本と全く違うらしいので明日の夕方のプランは決まりました。 参加する時に、新婚夫婦へのお祝いと

Page50                        して「10バーツ紙幣1枚」で良いので、ホテルに備え付けの封筒に、出来れば「エアー便箋」に包むと喜ばれるかも知れないとおっしゃるので、そうしました。 会場というか、家の軒先が広いので、そこにシートを敷き詰め、近所の人々が約50人位座って、皆で「どぶろく」のような自家製の濁り酒を振舞っておりました。その日本人と結婚している奥さんは忙しそうに手伝い、1度その濁り酒を注いでくれ、次いで新郎新婦も来られ、それを注いでくれました。 他の人も珍しい客人とばかり、次々にサービスして下さるので、すっかり酔ってしまい、どうも悪酔いの様で、その奥さんに「明日の予定が有るので、この辺で失礼します!」と話、新婚夫婦には「末永くお幸せに!」と話し掛け、奥さんがこの地方のタイ語に通訳して下さり、早々に退散です。  朝早くに、「ジャングルツアー」の予約を入れて居たので、二日酔いの悪酔いにミネラルウオーターを飲んで対処し、何とか出かけました。 車に欧米人が大半でしたが、12人位居られましたが、ガイドさん1人と共に出発です。途中で休憩となり、タイアップしている住宅からマンゴウに似た味の黄色い果肉で多分完熟のパパイヤ、マンゴP                                                 ウの2~3倍ある果物を食べました。それから車を下り、細長い船で、これまた長いモータースクリュウの付いた物を操り、川の上流に向かいました。やがて上流の村に着き、村人達が待って居て原住民の住む村へ案内されました。 素朴な木の細い枝で出来た村の門を通って、人気の無い所を見て歩きましたが、どうやら村人達は田圃か畑に仕事に出掛けているようでした。そこを出てジャングルとまでは言えない林の一本道を約1時間歩き、小さな滝が見える所に今日の宿が在るというので、そこへ到着しホットしました。 お風呂は無いので、その滝の近くで皆さん水浴びをし、女性も何人かいたので、遂、彼等の裸体をジ~と見てしまいました。 こちらの方も、勿論、見られた筈です。(おあいこです!) 夕食はご飯の上に豚肉入りスープの丼物でした。その豚は黒豚で、次の朝に野原で用を足していたら、何匹も匂いに引き付けられたのか?集まって来て、紙で拭く暇もなく、ペロッと舐められてしまいました。“ウンギャ~!” トイレは何処かと聞いたらこの辺りは全てトイレで、好きな所を見付けて下さい。と宿のご主人が言うのですが、それはきっと冗談だろうと思いトイレを探しましたが、見つからず、他の人達が木陰や藪などに隠れて用を足しているのを目撃し、それを探すのを諦めました。 何と人懐っこい黒豚達なのか! それで愈々何処かにPage51                        出発の為に皆集まり、今度はミャンマーとの国境に近いらしく、万一に備え、ライフル銃をガイドが取り出して、それを背負って歩き出しました。 問題は山の窪んで平らな所で「アヘン」の材料になる「ケシの花」を密かに栽培している事で、万一間違って踏み込むと監視している部族が鉄砲を撃ってくるらしいとのこと。 一応ガイドはどの辺りか見当が付いているので、大丈夫と言って居りました。 どうやら山を下り始め、やがて川が見え、昨日舟を下りた場所では無い、ミャンマー側に近い川なのか? 長い竿部付きモータースクリュ付きの細長い舟で川を下り「ジャングルツアー」は終わりました。(ちなみに、あのペローが暫く忘れられなかったです。)

私の泊まっているこの高級ホテルに、北海道から農業指導に来られている先生が何年間か常宿にされておられ、ホテルの喫茶店にいたら、入って来られ、お互いに日本人ですか?と尋ね、一緒にコーヒーを飲みました。私も北海道出身ですと言うと、直ぐに2人の距離が縮まり、明日の日曜日休みなので、この地域の観光スポットに連れて行って上げるとお誘いを頂き、明日のプランが出来ました。 取り合へず、夕食に招待するので、8時にホテルのロビーでお待ち下さいと言われ、専属のドライバー付きでジープが来て、夜会の行われているレストランへ行きました。色々な料理が出て来ましたが、印象に残ったのは「ナマズの炭火焼」でした。実に美味しかったです。 次の朝に矢張り専属のドライバー付きでジープが来て、乗り込みました。 色々とお土産屋を見て回り、最後に「美人の村」で有名な所に行き、何でもそこの村の人々は同じような美人顔で、余り外の人とは混血では無さそうに思えました。 タイ人には珍しく、日本人か中国人に似た感じで、先生がチェンマイで聞いたことですが、この人達の2~3世代前の人々は中国の何処かの地域で美人故なのか、特別に少ない種族なのか分からないが「迫害」を受け、山を超えて逃げて来た人々の末裔だということでした。

次の日はブラブラ街を歩き、古物屋が有ったので、ホテルに戻り、「ソニーの携帯ラジオ」を持って行き、何かと物々交換しませんか?と女店員に聞いたら、母親を奥から呼んで来て、じゃあ、そのラジオが聞こえるのかどうかと言うので、早速スイッチを入れ、適当にFMラジオの周波数をチェックしたら、澄んだ音楽が聞こえたので、その娘さんはすっかり気に入られ、母親にねだって、そのお母さんは何でもこの店に有る物を持っPage52                        て行って下さいと言うので、見渡しましたが、大きいものはこれからも旅行を続けるので、駄目ですから、最終的に「タイの銀製の腕輪大小合わせて6個に針金細工の銀色メッキの指輪を10個」で交換しました。これを日本へのお土産に決めて、帰国後、何人かにプレゼントし、喜ばれました。

次の日、農業指導の先生に感謝とお別れを言い、バスに乗りチェンマイを後にしました。


フィリピン

マニラの空港に到着し、バスで空港内の荷物受け取り場所を探したがそれらしいターンテーブルは無く、前のバスの旅客の皆さんは出口に向かわれ、最後のバスに乗った我々は自分の荷物を、私の場合は「リュック1つ」でしたが見当たらず、出口の方

を見たら、何と他の人がそれもフィリピン人と思しき若者が担いで、ドアの傍に立ちキョロキョロとこちらを見ているでは無いか。“Excuse me! Do you carry my Backpack ? ” と尋ねると、彼は悪びれることも無く、税関の方へ行きましょう!と歩き始めました。 それで分かったのですが、どうやら荷物を運ぶ「運び屋」のバイトをしていることが分った、でも何も頼んでいないのに勝手にバイトをしているようでした。 私は今到着したばかりで、フィリピンのお金は持って無いし、タバコを数箱持っているのでそれをチップ代わりに如何ですか?と尋ねると、私の腕時計を繁々と見て、そのシチズンと自分のタイメックスを交換してくれたらそれで良いです、と言うので交換しました。税関を素通りで外に出ました。どうやら彼は何時もこの空港に来て、フリーパスで勝手に入るのか?知り合いがいて、自由にバイトをしているのかも知れません。私のシチズンは油切れなのか?時々止まるので、このカタカタいうタイメックスの「自動巻き」の方が便利でした。何でも日本の時計は店に行けば高く買い取ってくれるらしい事を後で知りました。多少軽いひっかき傷がタイメックスには付いて居りましたが、動くのでOKです。 外のベンチに3人の日本人の若者達が居たので、声を掛けたらタクシーを待って居るとの事で、泊まる安宿に皆で行くところです。私にもしも宿が決まっていないなら、一緒に如何ですか?と言うので、その瞬間に今夜の宿泊所が決まりました。程なく 車が私達の前に1台来て、運転手が下りて来て、彼等の一Page53                        人と話をし、「おーい、皆行くぞ~」と手招きしたので、皆その車に4人共乗り込みま                      した。 何と「白タク」でした。 目的の安宿に着いたので、後で割り勘にすることにし、バンコックからのフライトで皆それぞれ疲れていたので、部屋に有った古い少しうるさいけれども無いよりはましということでその扇風機のスイッチを入れ、皆横になったら、中の一人は直ぐにイビキをかき始めました。私は3時間位昼寝をしました。 頭がスッキリしたので、近くで何かパンでも買って来ようと雑貨屋みたいな店を見付け、パンらしきものを購入し、皆で分けて食べました。誰かがジュースを買ってきてくれたので、皆でそれを飲みました。 東南アジアでの鉄則は「生水」は飲まないことで、下痢の防止 になります。それぞれ明日からの観光の計画を旅行本で調べ始め、どうやらこの3人は一緒に回るようですが、私は勿論単独行動です。 3人はバラバラに日本を出国し、バンコックで一緒の安宿で友人となり、気の合う友達になったようです。 次の朝、私は彼らに感謝とお別れを言い、通りで本物のタクシーを拾い、中華街へ行き、昼食を摂りました。 中国系のホテルに冷房が付いているのを接客カウンターで確認し、チェックインし、涼しい部屋で寛ぎ、この周辺の地図を貰い夕方ブラブラしてみました。 踊りを見せるという、小さめのバーが有ったので、入ってみたら、3人の若い女性達が狭い舞台に現われ、セクシーな踊りを披露したり、まともな踊りも見せたり、中々なものでした。16歳から18歳だと言っておりましたが、「ボン・キュ・パ」の美形で良かったです。 何でもこの女性達はダンスレッスンを受け、日本のプロモーション会社にスカウトされると労働ビザを日本で申請して貰へ、2~3年間働き、長い人では5~6年キャバレー等で踊るようです。 彼女等に取っては確実な収入となり、家族へ送金出来るので、真面目に、真剣に日本人の要望に沿う踊りを習っているそうです。午後8時から10時までそのショーは続き、ビールでほろ酔いになり、今夜はグッスリ眠れそうです。 朝9時頃、ホテルのコーヒーショップでトーストや果物を食べ、11時頃ホテルを出てタクシーに乗りマニラで1番大きな公園に行きました。 フィリピン独立の父と言われる「ホセ・リサール」の銅像が有るというので、その公園に見に来ました。 何とフィリピンの若い男女が沢山来ていて、皆仕事にあぶれているらしく、私に次から次と「ガイドをさせて下さい。」と言い寄られ、断るのが大変でした。                                                                             

                     Page54                                       自分好みの可愛い女が来たなら断り切れなかったでしょう。 日本兵とアメリカ側との攻防戦が有ったという、記念で残しているという、元政府の建物が戦争記念として保存されているらしいので、タクシーの運転手にそこまで行って下さいと頼み、到着しました。 何でもその建物を日本軍が接収し、立て籠り、最後まで米軍の総攻撃を受けたらしく、建物の壁の至る所に機関銃等による銃弾の跡がハチの巣の様に全面に付いて居りました。 凄い戦闘だったに違い有りません。 分厚いコンクリートの壁だったので、建物は持ち応えたのでしょう。 この日の夕方にマニラに住むフィリピン人と会うことになっており、ホテルに迎えに来られるというので待って居りました。 それ                                                        バンコックのホテルで会ったフィリピン人と話していたら、マニラに寄るなら自分の姉さんに手紙を書くので着いたら電話して下さいとのことでした。 何番目かの兄がその手紙を受け取りに伺うことになり、ご希望なら観光案内をしてくれるように書いて置きますがどうですか?と言われたのですが、帰国まで余り日にちが無いのでと、感謝しつつ、やんわりとお断りしました。 そのお兄さんは知り合いから借りて来たという、大きなアメ車で来られ、友人2人も乗って来られました。お預かりしていた手紙を渡したら、郊外に良いドライブインが有るので、そこで皆一緒に食事をしましょう! とお誘い頂き、その大きなアメ車に乗りました。そのドライブインレストランは個室でゆったり食事が出来るので気に入っているそうです。 東南アジアで良く日本人の若者達に聞いた話では、食事に招待されると、日本人の方が金持ちなので、結局のところ「勘定は払わなければならない。」と言う事らしく、場合によっては近くの親戚皆さんが次々に来店し、偉い出費になったという話を聞いた事が有りました。 今回は3人で、車で遠くに来ているのでそれは無いと思いました。 運転手だけアルコール飲料はダメと言う訳にいかないので、私は自重し、「下戸なので、ソフトドリンクを注文して下さい。」とお願いしました。皆もコーラやジュースを飲みました。オレンジジュースは本場らしく、濃くて美味しかったです。 勘定を私が払いました。それで今度はダンスの出来る店が有り、そこに知り合いの専門学校に通っている女学生をその店に待たせているので、紹介するので行きましょうと誘われ、鼻の下を少し伸ばしかかりながら、2次会に繰り出しました。 その中位の広さの店では、若いカップル等、西洋と変わらない雰囲気と踊りの真最中でした。 待たせていたという女学生を紹介され、彼女はこのような社交 Page55                        場は初めてらしく、初々しい感じの目がクリっとした可愛い女の子でした。 ダンスは                        私の得意とする環境なのですが、今度ばかりは、ぎこちないカップルとなり、2曲踊っ                        たところで、夜10時となったので、寄宿舎が閉まるので直ぐに帰らなきゃならないというので、他の女性と踊っていた彼を探し、お開きにし、先ずは彼女を寄宿舎に届け、握手して別れました。 私は明日の朝早いバスで北へ向かう予定が有るので、そのままホテルに送って貰いました。次の朝、バスで「バギオ」へ向かいました。マニラからて、                                         将軍」が降伏した土地で、絞首刑にされたこと、バギオの坂を登って行く途中に「マレーの虎」とか何とかかんとか色々とフィリピン語(タガログ語?)なのか、で書かれた大看板が何枚も道に沿って掲げられて居りました。 それで初めてその将軍が恐れられた存在だったことを知りました。

1晩バギオのユースホステルに泊まり、次の日は棚田の見える「バナウエ」行のバスで5~6時間かかりました。 ここでもユースホステルに泊まり、大勢の西洋人が泊まっておりましたが、私がそこに着いた時は夕方7時を回って居り、既に暗かったです。 通りには街灯が無く、星が出ていない暗闇をブラブラ歩いていたら、ポツンと明かりが見え、居酒屋かも知れないと思い、スタンドだけの店で、3人程土地の方達でしょうか?ビールを飲んでいたので、私も注文しました。 フィリピン人は英語が公用語ということで、皆さん解るようなので、隣に居られた人に話しかけたら答えてくれて、私は観光で来た日本人です。あなたはここの住民ですね?と尋ねたら、そうです。とのことでした。あとの2人は近くの村から来たそうです。 その彼が言うには、私が何と勇気の有る人か?と驚いたそうです。どうしてと聞き返すと、お爺さんから聞いているが、この辺りは戦後も元日本兵が時々出没し、住民を驚かせたそうです。お互いに戦ったりはしなかったが、食料を民家から盗んだりした兵隊がいたらしい。 住民は鉄砲を持った日本兵が怖かったのでしょう。やがて彼らは居なくなったが、更に北のジャングル地帯に逃げて行ったのではないか?と思ったそうです。 北のジャングル地域には彼等も良く知らない、噂では今もいるという「人肉」を食らう部族が居るらしいので、怖いのでまだその地域には行ったことは無いとの事です。 爺さんに聞いた話では、ここに出没していた日本兵の他に、バギオ方面から逃げ延びた日本兵グループもその北の地域に潜んでいたようで、後に洞窟に潜んで、やがてその洞窟に遺骨となったよPage56                        うだとのこと。 アルコールに酔った勢いなのか?日本人に会ったからなのか? その遺骨を確認しに行かないか?と提案され、困ったが、日本の遺骨収集団に連絡して上げる前に、遺骨の周りに何か日本兵と分かる物が落ちていたら、それを日本大使館に届けに行くなど、した方が良いかなあ?と考え、明日その地域に一緒に小型トラックで向かうことにして、ユースに帰りました。 帰ってから実家に「遺書」風のハガ

キを書き、ユースに有る郵便ポストに投函しました。 ちなみに、そのハガキは帰国後に実家に到着しました。朝に待ち合わせの所に行き、待って居りましたが、約束の1

時間を過ぎてもトラックさえ来なく、漸くして彼は到着しましたが、リュック等無く、手ぶらで来ました。 昨夜あの後も3人で飲み続け、すっかり2日酔いで頭が痛く、行けなくなった事を伝えに来たとのことでした。

ガッカリしたり、助かったなあ!と思ったりしました。 埋め合わせに、この棚田の案内をしますと言うので、付いて行きました。先ず彼の友達の小屋住宅を尋ねました。家の周りに何か麻袋を縛って小屋の側面に吊るしている物が有り、何処の家にも同じようなものが吊り下がっていたので、聞いてみたら、ご先祖様の遺骨とのことでした。 土地が少ないので、死体を一度土中に埋めて何年かしたら掘り返し骨を麻袋に入れてこのように吊るして置くそうです。これが彼等の風習とのこと。 次に訪れたのは 15人位が通う保育園小屋で、一人の女性が子供達の面倒を見て居ました。 私は子供たちに後で飴かお菓子を買って上げて下さいと、日本円にすると約千円位を紙に包んでプレゼントしたら、大変喜んで感謝されました。 彼はまだ少し昨夜の疲れが残っているようだったので、私の方は棚田を上がったり下ったりして疲れたので、午後のバスでバギオへ帰りますと伝えお別れしました。 そうそう、今思い出しましたが、彼等若者達は「マルコス大統領」に反対の青年団で、捕まると牢屋に入れられるので、用心していると言って居りました。 私は政治に疎いので、密告することは無いと彼等に約束しました。

バギオへのバスで隣に座った20代の女性から、自分のお爺さんが「山下将軍」の隠したという宝石類の一部を持っており、日本に返還したいと言っていたと急に言い始め、出来たら日本大使館にその旨伝えて、この私の住所に連絡して貰えないか?との話になり、無下に断れないし、紙切れにその場で書いたものを渡されました。 Page57                        後日帰国後、その連絡をフィリピンの日本大使館に手紙を送り、返信を頂きましたが、良く日本人の観光客を通じ、宝石類の買い取り依頼が時々有るようです。 現                        地で売れない物を何とか売り捌こうというのでしょうか?真偽の程は解りかねます。 国際交皆様、最後までお読み頂き、大変有難うございました。

流の難しいところです。 それでバギオのユースにまた泊まり、次の朝にマニラへ向かいました。その午後の羽田行きの飛行機に乗り、1973年6月2日に横浜の港から出国し、1975年12月16日に帰国した2年6か月に及んだソ連、ヨーロッパ各国、東南アジア経由の旅行は終わりました。 楽しかったです。


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