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嬉しさで舞い上がる僕と、いつの間にか変わってしまった日常。



 学校を後にして家に帰った僕は、真っ直ぐに自分の部屋へと向かった。


 そして部屋に入った瞬間、持っていたカバンを投げ捨てるようにして床に置き、制服を着たままベッドに倒れ込んだのだ。


 そのままうつ伏せになって枕に顔を埋めると、叫びたい要求をどうにかこらえて、代わりに大きく息を吐き出した。


 そんな僕の脳裏にこびりついて離れないのは、如月さんとの別れ際のシーンだった。


『ばいばい』


 そう言って軽く手を振って去っていった彼女の姿は、今でも鮮明に思い出せる。


 あの如月さんが。あの人付き合いが嫌いな彼女が。僕に向かってそう挨拶を交わしてくれた。あれはまるで、僕にとって夢のような時間だったと思う。


『ばいばい』


 もう一度、彼女とのやり取りがフラッシュバックする度に、顔がニヤけていくのが分かる。


 そんな締まりのない顔になっている自覚はあるが、どうしても抑えることが出来ないでいた。それくらい嬉しかったのだ。


 嬉し過ぎて悶絶するあまり、僕はベッドの上で足をバタバタさせていたくらいだ。傍から見ればかなり滑稽な姿に見えたことだろうね。


『ばいばい』


 ああ、もう。何度だって思い返したいくらいだ。それくらいヤバい。もうマジ無理。助けて。死んじゃう。悶え死ぬ。萌え死にしてしまう。


 もう本当に可愛過ぎてどうしようって感じだった。あんな風にお別れの言葉を告げて貰えるなんて思わなかったから、僕の心は余計に暴走してしまう。


 その結果、僕の想いは、妄想は膨れ上がるばかりなのだ。


『ばいばい、蓮くん。また明日ね』


 妄想が暴走したことにより、脳内に溢れ出した存在しない記憶。如月さんが僕に向かって笑顔を見せながら手を振る光景。


 実際の彼女は無表情だったし、笑顔なんて見せていない。それなのに、何故か僕にはその映像がハッキリと見えた気がしたんだ。


『如月さんはそんな顔なんてしない!!』なんて、僕の内に潜む如月さん過激派の僕が叫びを上げているが、そんなこと知ったことではない。


 この気持ちは本物なのだから。誰にも否定させないし、邪魔もさせない。僕と彼女だけの記憶だ。


 たとえ相手が自分自身であっても、それは許されないことだ。それだけは絶対に許さない。絶対にだ!


 それからというもの、僕の頭は如月さんでいっぱいになっていた。どうすればもっと仲良くなれるだろうかとか、どうしたら自分に興味を、好きになって貰えるだろうかとか、そんなことをずっと考えていた。


 実際のところ、そんな可能性は微塵たりともないのかもしれない。僕のやっていることは、時間の無駄なのかもしれない。


 でも、それで構わないと思った。無駄なことだろうと、僕は満ち足りた気持ちになれたのだから。それだけで十分だったんだ。


 そうして僕は他のことを何も考えられない状態でこの日を終えた。


 この時の僕はそう、完全に舞い上がっていた。有頂天とはまさにこういうことなのだろうと思い知らされるほどに。


 だからこそ、気が付かなかったのだろうと思う。この時既に、僕の置かれている立場が変わってしまっているということを。それに気が付くことなく、浮かれていたのだから。




 ******




 翌日。僕はいつものように登校していた。足取りは決して軽いとは言えないものだったけれど、それでも昨日の朝よりはマシだと思う。


 昨日の出来事のおかげで大分気分が楽になったし、何より心に余裕が出来た気がする。これも全て如月さんのおかげだろう。……昨日、寝不足になったのも如月さんのせいだったけど。


 そんなことを考えながら、僕はゆっくりとした足取りで学校に向かって歩いていく。そして校門を通り過ぎようとしたところで、不意に背後から声を掛けられた。その声に反応して振り返ると、そこには一人の男子生徒がいた。


「よっ、おはよう」


 爽やかな笑顔で挨拶してきた彼は、同じクラスの男子で名前は確か……うん、思い出せない。誰だっけ?


「あ、うん、おはよう……」


 とりあえず挨拶を返しておくことにした僕。すると、彼は僕の横を通り抜けて先へと進んでいく。そしてまた別の誰かに挨拶をすると、そのままその人と会話を始めていった。どうやら知り合いらしい。


 名前も知らない彼だったが、なんだったんだろう。今まで挨拶されたことなんて一度も無かったから、一体どういう風の吹き回しなんだろうか。


 そんな風に僕が考えていると、何だか妙に周りがうるさい気がした。何だろうと思って周囲を見渡してみると、他の生徒のみんなが何やらヒソヒソと話しているようだった。


 しかも、その視線は僕に向けられているような気がするんだけど……気のせいだろうか。いや、そんなことはないよね。僕に視線が集中しているだなんて、自意識過剰にもほどがある。きっと何かの間違いだよ。……そうだよね?


 そうやって自分に言い聞かせてみるものの、やはり周囲の視線は変わらず僕へと注がれているように思えた。そうした慣れない視線を受けて、僕はどうにも落ち着かない気分になってしまう。


 居心地の悪さに堪えかねて逃げるように教室へと向かう僕。足早に昇降口まで辿り着くと靴を上履きに履き替え、自分の教室へと向かっていく。


 その間も周囲からの視線を感じずにはいられなかったが、僕はなるべく気にしないようにしながら廊下を歩いていった。


 そして自分のクラスの教室に辿り着き、扉を開けて中に入ると―――その瞬間、教室の中の喧騒がピタリと止まり、一斉に僕の方へと視線を向けてくる生徒たちの姿が目に飛び込んできたのだった。


 え……? 何事……? その異様な光景に僕は思わず固まってしまう。何故ならば、先程まで賑やかだったはずの教室内の空気が一変して静寂に包まれてしまったからだ。


 誰も言葉を発しようとしない雰囲気の中、僕は恐る恐るといった感じで中に入っていき、自らの席へと向かった。


 窓際にある座り慣れた自分の席に恐る恐る座ると、そこでようやく周りの状況を確認することが出来たのだが……みんなの視線が明らかにおかしい。


 というか怖いよ。何でそんなにこっちを見ているのだろうか。もしかして何か怒らせるようなことでもしただろうか……なんて思っていると、僕はあることに気が付いた。


 みんなが送ってくる視線が何か変だと思ったのだ。なんていうかこう……観察されているような感じなんだよね。それもかなりじっくりと見られている感じなんだけど、一体どうしたというんだろうか?


 不思議に思いながらもひとまずカバンを置いて一息吐く。そしてそれから僕はどうにもいたたまれない視線から抜け出したい為に、癒しを求めて視線を巡らせた。僕が探しているのはもちろん、如月さんである。


 しかし、どういうことか彼女の姿は見当たらない。大体いつも、このぐらいの時間には登校してくるはずなのに、今日に限ってはまだ来ていないようだ。


 珍しいこともあるものだと思いながら、仕方なく視線を黒板の方へ戻す僕。するとその時―――唐突に背後から声をかけられたのだった。





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