「なぁお前、あの噂って本当だと思うか?」
満月の光が降り注ぐ夜の森。生えたばかりの口髭をさすりながら、竹雄(たけお)は隣を歩く林太(りんた)に問う。
「噂って、人が忽然(こつぜん)と姿を暗ますってやつか? 嘘に決まってんだろ。だから噂なんだよ」
男はふっと鼻を鳴らし、釣り上がった目をあさっての方向へ向けた。
「待て待て、この話には続きがあるんだよ」
将軍、徳川家康(とくがわいえやす)が幕府を開いてから丁度一年。夜道を歩く人間が姿を消すという噂話が出回った。しかし、はやり風(インフルエンザ)のような噂の広まりように、当初は見向きもしなかった群衆の不安は増大していった。竹雄がいう続きとはここからである。
とある刀圭家(とうけいか)(江戸時代の医師)が娘の行方不明を皮切りに気が狂ったと言う男性患者宅を訪問した際のことだった。その患者はしきりに妙なことを口にしていたという。
『化け物が娘を喰らっていった……化け物が娘を喰らっていった……化け物が娘を−−−−』
「−−−−と言う話だ」
「と言う話だ。じゃねぇよ。馬鹿馬鹿しい」
「他のやつが化け物を見たって話も多いんだって! こんな偶然ってあるか?」
「ふん、どっかの詩人か何かが金稼ぎのためにでっち上げたホラだ」
竹雄は荷物を背負い直す。
「なんか早歩きになってるぞ。びびったか?」林太の口角が上がる。
その言葉に、竹雄はぎゅっと眉間に力を入れた。
「馬鹿言え。こんな獣がうろついてる夜の森で呑気にしてられねぇってことだ! 全く、話は終わりだ。とっとと行くぞ」
「へぇへぇこりゃ失礼致しました。まぁ遅くなったのはアイツが途中でぶっ倒れたのが原因だけどな」
そう言うと林太は背後に視線を送る。大袈裟にため息をつく。
視線の先には、小柄で線の細い少年が左右に揺れながらトボトボとついてきていた。途端に立ち止まった竹雄はわなわなと肩を揺らし、我慢ならんと方向転換。声を張り上げる。
「なぁおい! 頼むからもっと早く歩ってくれよ。いくら何でも遅すぎだ!」
青年は自身に向けられた罵声に気づくと、俯いていた顔を何とか起こし上げる。満月に照らされ、青年の顔には無数に殴られた跡が見えた。
「ご……めん。でも……もう、一杯……はぁ……一杯で……」
「口答えすんな。また一発もらいたいか!」男は右拳を作ると振り上げた。
「や、やめてよ。頑張るからさ」
将之は両手を顔の前で交差させた。
「チッ、だったら早く歩け!」竹雄は腕を下ろし、方向転換する。
再び歩き始めた竹雄を目で追い、林太もやれやれといった様子で再び歩き始める。しかし、途端に足を止めた。先ほどまで罵声を飛ばしていた竹雄が途端に立ち止まったのだ。わなわなと肩を揺らしながら。
「なぁ、気持ちはわかるけどよ。いちいち切れても体力の無駄だって」
なぁ? と、林太は竹雄の肩に手を乗せる。
「……なんだよ、あれ!」竹雄が前方を指さす。
竹雄の上擦った声に違和感を覚えた林太は、指を刺された方向に目を向ける。
「……!?」
思わず手で口を覆う。
「はぁはぁ……、二人ともどうかしたの?」
息絶え絶えに将之が追いつく。しかし、二人からの返答はなかった。
不審に思った将之は、二人に駆け寄る。そこには今まで見たこともないほどに動揺している二人がいた。将之は二人の視線の先に首を捻る。
「……え」
将之の全身が固まったと同時に冷や汗が全身を滴った。
三人の目の前の木に、血みどろの首なし死体が吊るされていた。それも一体ではない。見えるだけでも五体の死体が吊るされていた。
あまりの悲惨さに、言葉を失う三人。
「う、うぇ……」
その静寂を払ったのは、将之の嘔吐による吐瀉物が地に落ちる音だった。
「な、なぁ早く村に帰ろう」
林太の声音は、一刻も早くこの場から離れたい。それを彷彿(ほうふつ)とさせるものだった。
「わ、わかってる。だが、まず隣町に戻ろう」
「はぁ!? なんでだよ、とっとと帰ろう!」
竹雄は縋(すが)り付く林太の手を払いのける。
「馬鹿! 隣村の方が近い。戻るぞ! とにかく人がいるところに−−−−」
『……エサ、ダ』
突如として発せられた性別不明なくぐもった声に、三人の背筋が凍った。
咄嗟に林太が疼くまる。
「う、うわぁ!」
林太は悲鳴を上げ、手で頭を覆うとう地に蹲った。
「誰だ。誰の声だ!」
竹雄は首を右往左往とブンブン振りながらあたりを見回す。しかし、声の主は見つけられない。
将之はいまだに嗚咽を漏らし、地を這うように動けないでいた。
そんな恐怖で震える三人を嘲笑うかのように、正体不明の声が再び鳴り響く。
『……エサ、ガ、サンビキ』
カサカサ。
『……エサ、ガ、イッパイ』
カサカサカサ。
『……エサ、エサ、エサ、エサ、エサ、エサ、エサ、エサ、エサ、エサ、エサ、エサ、エサ』
カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ。
将之が未だ嗚咽を模様している最中、竹雄と林太の顔からは涙と鼻水でグチャグチャになり冷静さ無くなっていた。
『……イタダキマス』
聞こえた刹那。
「いてっ……!?」
ほぼ同時に、将之の近くを風が切る。右頬にすっと痛みを感じ、咄嗟に手を添える。
「……血、え……た、竹……雄?」
ボトン。音が聞こえる。コロコロと丸みのある物体が将之の目の前に転がり、動きを止めた。将之は目の前に転がってきた竹雄と目が合った。
「ひっ、うわぁぁぁぁぁぁぁ!?」
驚いた将之が背後に飛び上がり、首なしの竹雄の胴体とぶつかった。
将之が再び叫び出しそうになるのを止めるように、腹のあたりからムカムカと不快な感覚に見舞われた。
将之はその場で二度目の嘔吐。
「れか……誰かぁ!」
地に蹲っていた林太は背負の荷物を投げ出し、一目散に逃げ出した。
「林太、待って……よ!」
将之は気だるい体を起き上がらせる。
「……え?」
視界に入った林太の背中が少しずつ小さくなってくる。遠くに見えていた林太の胴体が真っ二つに分かれ暗闇の中、水のぶちまけるような音が聞こえた。
二つになった林太の近くにモゾモゾと何かが動いている。雲に覆われていた月が出始めると、月明かりにそいつはいた。
八つの細長い手で這うように林太の肉片を食らっていた。徐々に視界が見やすくなると、蜘蛛のような造形が人間の顔を持っていることがわかった。
『……ンマイ、ンマイ、ン……』バケモノと目が合う。
途端にそいつはカサカサとすり足のような音をたて迫ってきた。
「うわ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
将之が踵を返しざまに前のめりで倒れるも、這いつくばりながらなんとか体を起こす。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
「あ……」
背後にいたはずのバケモノは頭上から迫っていた。
瞬間、そいつの口角が釣り上がったように見えた。
「……るな」
そいつが迫る。
「……くるなよ」
体が動かない。そいつはもう目の前。
「くるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
目を閉じ悲鳴をあげ、かろうじて動いた両腕を目の前で交差させた。
『死』
そんな言葉が脳内を過ぎていった――。