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【第十三章:川沿いの断片】

 月ヶ瀬市の郊外は街の喧騒から切り離された静けさに包まれていた。

 舗装の剥がれた道路が、雑草の生い茂る空き地に続く。渚はトートバッグを肩に掛け、佐藤 礼子の名刺を手にしていた。

 名刺に記された住所は「月ヶ瀬市川原町三番地、青葉コーポ二〇三号室」。川沿いの古いアパートを指している。

 朝の靄が地面を這い、二人のスニーカーを湿らせた。

 隣を歩く大地がスマートフォンの地図アプリを覗き込みながら呟く。

「この辺、ほとんど人が住んでなさそうだね。駅からも遠いし」

 渚は頷き、バッグから取り出したペンダントのチェーンを引き出した。琥珀のトップが朝陽を鈍く反射する。

 昨日の司書・山脇の言葉が頭の中で響いていた。

「佐藤 礼子さん。瀬野さんの小説を一緒に作ってた。火事の後、ぱったり姿を見せなくなった」

 佐藤は瀬野の物語の鍵を握っている。だがなぜ海は彼女の名前を聞いたとき、嘘を吐いたのか。

「うん。名刺に載ってる住所だから間違いないと思う。ただもう三十年前の話でしょ? そのままいるほうが奇跡かも。『街を出た』って噂もあるらしいし。でもダメ元でも、もし会えたらぐんと前進する気がするな」

 大地は眼鏡を押し上げ、穏やかに微笑んだ。

「そうだね。開発の事故の話も気になるし。瀬野さんが小説で何か暴こうとしてたなら佐藤さんがその手がかりを持ってる可能性が高い」

 渚は大地の声に安心を覚えた。彼の冷静さが彼女の心を落ち着かせる。だが、頭の片隅には、海の震える声がこびりついていた。

「お前が傷つくのを見たくないんだ」

 ──あの言葉には嘘がなかった。なのになぜ隠すのか。家族なのに。

 二人は川原町の突き当たりにたどり着く。青葉コーポは二階建ての古いアパートだった。

 いや、名前からも三十年前は小綺麗な新しい建物だったのかもしれない。しかし今はコンクリートの外壁はひび割れ、錆びた階段の手すりが朝の湿気に濡れている。

 二〇三号室のドアに表札はなかった。インターホンを押したが、まったく反応がない。

「誰が住んでるにしろ留守みたいだね。どうする?」

 大地がドアを軽く叩きながら言う。

 渚は一瞬考え、隣の二〇二号室のインターホンを押した。しばらくしてドアが開き、六十代だろう女性が顔を出した。カーディガンの袖が擦り切れ、髪は乱雑に束ねられている。

「何? お隣? 昼間はほとんどいないわよ。朝早くて夜遅くに帰って来るの。仕事か何か知らないけど、変な時間に出入りしてるわね。佐藤 礼子? あの人はもうとっくに出てったわ。何人も入れ替わって、今は男の人が住んでる。ここであの人と一緒だったのはもうあたしだけよ」

 渚の頭に光はなく、女性の言葉に嘘がないことを捉えた。大地がスマートフォンを取り出し、丁寧に尋ねる。

「佐藤さんのことはご存知なんですね?」

「ご存知、って言うほどじゃないけど、まあ合えば挨拶したり立ち話はしてたわ。……あの人、ダムの反対運動に関わってたって聞いたしね。そういうのにはあんまり興味ないのよ、あたし」

 大地がメモに「ダム反対運動」と入力した。

 隣室の女性に礼を述べてアパートを離れる。

「大地くん。佐藤さんがダムのことに詳しいなら、開発の事故のことも知ってるよね。瀬野先生の小説と関係あると思う?」

 大地は頷き、眼鏡の奥の瞳が鋭く光った。

「うん。瀬野さんが開発の闇を小説に書こうとしたなら、誰かに邪魔された可能性が高い。ダムの事故が火事の動機かもしれないな。……昔の開発現場に行ってみる?」

 渚は一瞬、海の警告を思い出した。

「深入りするな」

 だが、渚は瀬野の声を捉えている。

「私の物語を取り戻して」

 ──渚はペンダントの琥珀をそっと撫でて、バッグに仕舞うと決意を固めた。

「うん。行こう。そこに真実の欠片があるかもしれない」

 月ヶ瀬川の旧開発現場は、街から数キロ離れた山間部にあった。放棄されたダム建設地は雑草と錆びた鉄骨に覆われ、まるで時間が止まった廃墟のようだ。

 渚と大地は看板の前で止まる。

「月ヶ瀬川ダム計画 一九八年着工 ・一九九〇年中止」

 看板の下方に「高梨建設」のロゴが入っていた。

 文字は風雨に削られて薄れているが、頭に鋭い光が走って看板の「中止」の文字に嘘を捉えた。

「この看板は嘘ついてる。『中止』って書いてあるけど、本当は何か隠してるんだわ」

「高梨建設の高梨って県の有力者だ。『大きな力』ってのはそいつかも。……佐藤さんも?」

 看板の裏を覗き込むと、影に何かが光っていた。地面に半分埋もれた紙片だ。

「トンネルは事故ではない。高梨の裏金。川沿いのLZX 。 R.S.」

「これ、佐藤さんのイニシャルじゃない? 佐藤 礼子

 渚が囁く。

「『LZX』。……シーザー暗号なら『MAY』だ」

「佐藤さんは月ヶ瀬の川沿いの『MAY』にいるってこと?」

 渚の言葉に、大地がスマートフォンで何か調べ始めた。

「……これ、かな。『皐月荘』っていうアパートかなにかがある」

 道の先にはコンクリートで封鎖されたトンネルがある。入口には「立入禁止」の札が錆びた鎖で吊るされていた。

 渚がトンネルの暗闇を覗き込むと、冷たい風を頬に感じる。トンネルの奥に「嘘のない何か」を捉えた。まるで瀬野の物語がそこに眠っているかのように。

 大地がトンネルの入り口に手を触れ、目を閉じた。彼の額に汗が滲む。

 渚は息を呑んだ。大地の「過去視」の力。彼が力を発動するたび、渚は彼の孤独を思い出す。家族に疎まれ、たった一人で力と向き合ってきた彼の痛みが彼女の胸に突き刺さった。

「大地くん、何か視えた?」

 大地はゆっくり目を開け、震える声で言った。

「うん。……事故の映像。古いから本当に朧気だけど。ダムの工事現場は夜で、作業員が崩れた岩の下敷きになってる。叫んでるみたいだったけど誰も助けに来なかった」

 大地の言葉に嘘がないことはすぐわかる。

 先程の佐藤のメモの通り、作業員の死は単なる事故ではなかったのではないか。瀬野がその真実を小説に書こうとしたからあの火事が起きたのだ。

 渚はトンネルの封鎖された入口を見た。

「このトンネルには事故の証拠が隠されてるのかも。佐藤さんがダム反対運動で知ってたこととも関係あるよね」

 大地が眼鏡を押し上げながら答える。

「そうだね。佐藤さんに会いたいな。彼女ならトンネルの謎や証拠の何かを知ってるかもしれない」

 帰り道、渚と大地は川沿いの土手を歩いた。靄が川面を覆い、遠くの山並みがぼんやりと霞む。渚はふと立ち止まって大地を見た。

 彼の穏やかな横顔が、夕陽に照らされている。

「大地くん、……力って、怖いよね。嘘を見抜くのは便利なこともあるけど、誰も信じられなくなる。お兄ちゃんのことも家族なのに疑っちゃう自分が嫌いになる」

 大地は一瞬黙り、土手の草を踏みながら答えた。

「うん、わかる。僕の過去視も怖いよ。昔家族や周囲に話したら気味悪がられて……それ以来隠さなきゃならないんだ、って知ったんだ。力って僕たちを強くするけど孤独にもする。でも僕は、渚ちゃんに出会って初めて仲間ができた気がした」

 渚の胸が熱くなった。大地に一歩近づき袖をそっと握る。

「私もだよ。大地くんがいてくれるから、怖くても前に進める。……私たちは仲間だよね?」

 大地は微笑み、袖に掛かった渚の手を軽く握り返した。指先がほんのりと温かい。

「うん、仲間だ。一緒に瀬野さんの真実を見つけるよ」

 二人は土手を歩き続けた。

 川のせせらぎが耳に響く。渚の心には海の警告がまだ残っていた。

「お前が傷つくの、見たくないんだ」

 だがもう立ち止まれない。瀬野の物語が彼女を突き動かす。

 大地と別れて帰宅したその夜、渚は私室で日記の断片を読み直した。黄ばんだ紙には、瀬野の震える筆跡が並ぶ。

「彼は私の物語を奪った。月ヶ瀬の真実を、誰も知ってはいけないと言った」

 頭の中に、また弱々しい文字が浮かんだ。

 ──私の物語を、取り戻して。

 これは本当に瀬野の言葉なのか、渚の力が生み出した幻なのか。わからない。

 喉が渇いて、渚は階下のキッチンに行こうと部屋を出た。

 向かい側は海の部屋だ。渚は閉まっているそのドアを見つめた。

「お前が傷つくの、見たくないんだ」

 兄の震える声が耳の奥で響く。

 彼女は意を決し、ドアを叩いた。

「渚、遅えぞ。何だ?」

 ドアを開けた兄の声に、渚は琥珀を握り話し掛けた。

「お兄ちゃん、佐藤さんは川沿いの皐月荘にいるよね? 開発現場で彼女のメモを見つけたの。『高梨の裏金』って書いてた」

 海の瞳が揺れ、息を呑むのがわかった。

「……なんで」

「大地くんが暗号を知ってたのよ。有名らしいね。川沿いの『LZX』は『MAY』、つまり『皐月荘』よ」

 兄が一旦室内に引っ込んだかと思うと、折り畳んだ紙片を持って戻り渚に渡す。

「夜のLZX。証拠を。レイコSサトウ.」

 それだけが記されたメモ。

「川沿いの下宿屋みたいなアパートだ。佐藤さんは夜だけそこにいる。高梨が狙ってるから深入りするな、頼む。俺は俺で動くから」

 嘘がない言葉に顔を上げて視線を合わせた妹にそれだけ言うと、海はドアを閉めた。

「明日は佐藤さんに会えるといいな」


 ──呟く渚の手の中で、蜜色の石がぼんやりと光を放っていた。

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