図書館を出ると、夕暮れの靄が街を覆っている。
渚と大地は駅に向かう道を歩きながら名刺を手に話した。渚の声には興奮と不安が混じっている。
「佐藤さんって瀬野先生の親友だったんだ。彼女なら火事の真相を知ってるかもしれない。ダムの事故も、何か関係ありそうじゃない」
大地は頷き、眼鏡を押し上げた。
「うん。開発の事故を隠蔽した誰かが、瀬野さんの小説を邪魔したんだろうね。佐藤さんがその鍵を握ってる可能性が高い。明日、名刺の住所に行ってみようか?」
渚は微笑み、頷いた。
大地の冷静な声が彼女の心を落ち着かせる。だが頭の中では、祠での海の動揺が繰り返し蘇っていた。
兄の震える手、遠くを見ていた瞳。なぜ、海はあのとき、黙ったのか。
家に帰るとリビングは静かだった。両親はまだ仕事だろう。渚はキッチンで紅茶を淹れ、ソファに座って名刺を見つめた。佐藤 礼子。彼女が瀬野の物語の鍵を握っている。だが、山脇の警告──、「大きな力が動いてる」という言葉が胸に引っかかる。
階段を降りる足音が響き、海がリビングに入ってきた。カジュアルなスウェットの裾が動きに合わせて揺れる。彼は冷蔵庫からジュースを取り出し、軽い口調で言った。
「よお、渚。図書館はどうだった? また変な本でも見つけた?」
渚は一呼吸置き、名刺を手に海を見た。兄の軽い口調に嘘がないことがわかる。だが彼女の心には、祠での海の嘘が刻まれている。
渚は静かに問いを投げた。
「お兄ちゃん、佐藤 礼子って人知ってる? 瀬野先生の親友で編集者だった人」
海の手が一瞬止まった。ペットボトルを握る指に力が籠もったのが伝わる。
「……いや? 誰だそれ。いきなりどっから出てきたんだよ」
渚の頭に鋭い光が閃いた。
また嘘だ。そして兄の挙動には動揺が隠れている。彼女は立ち上がり、声を震わせた。
「お兄ちゃん、嘘吐いてるよね!? 佐藤さんのこと知ってるんでしょ? なんで私にまで隠すの? 家族なのに!」
海の視線が泳いだ。彼はペットボトルをテーブルに置き渚を見る。いつもなら軽い笑顔でごまかす彼が、今日は黙っているのがたまらなく不安だった。兄の沈黙には、深い葛藤が宿っている気がする。
「渚、……深入りするな。頼むから」
海の声は普段の軽さとは違う、切実な響きを帯びていた。渚は一歩彼に近づき、涙をこらえて叫んだ。
「なんで話してくれないの? 私は瀬野先生の真実を知りたいだけなのに! お兄ちゃんは家族なのに、仲間なのに、どうして!?」
海は息を呑み目を閉じた。彼の手が震えている。
「俺は、……ただお前が傷つくのを見たくないんだ」
海はそれだけ言うと、背を向けて階段を登っで行った。彼の私室のドアが閉まる音がリビングに重く響く。渚はソファに崩れ落ち、琥珀のペンダントをぎゅっと握った。涙が頬を伝う。
家族なのに、なぜこれほど遠いのか。
スマートフォンが振動し、大地からのメッセージが届いた。
《渚ちゃん、明日佐藤さんの住所に行ってみよう。》
渚は涙を拭い画面に触れた。そう、少なくとも彼は仲間だ。
日記の断片を手に、渚はページをめくった。
「月ヶ瀬の真実を、誰も知ってはいけないと言った」
瀬野の言葉。
彼女が窓の外を見ると、夜空の星が今日も明るく輝いている。
──まるで、天から地上の人々を見下ろしているかのように。