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【第十一章:図書館の囁き】

 月ヶ瀬中央図書館は、街の中心にひっそりと佇んでいる。

 古びたコンクリートの外壁には靄がまとわりつくように湿気が滲み、入口のガラス扉は曇りがちだ。

 渚はスクールバッグを肩に掛け重いドアを開けて中に足を踏み入れた。冷房の効いたロビーは、紙とインクの匂いがほのかに漂い、静寂が耳に心地よい。カウンターの奥には、郷土資料の棚がずらりと並び、その向こうに資料室への扉が見える。

 隣を歩く大地が、眼鏡を指で押し上げながら呟いた。

「この図書館、この前も思ったけど重い雰囲気だね。瀬野さんのことを司書さんが本当に知ってるといいんだけどな。もちろんリアルタイムでは無理だろうけど、記録や口伝えとかで」

 渚は頷き、トートバッグからペンダントを取り出した。蜂蜜色のトップが、蛍光灯の光を鈍く反射する。祠で見つけた日記の断片が、彼女の心に重くのしかかっていた。

「彼は私の物語を奪った。月ヶ瀬の真実を、誰も知ってはいけないと言った。」

 ──瀬野の言葉には嘘のない恐怖が宿っていた。渚の力はその恐怖を鮮明に捉え、彼女をこの図書館に導いたのだ。

「うん。司書さんなら瀬野先生のことを知ってるはず。ケースの展示について専門家が知らないなんて逆にあり得ないでしょ。……火事のことも何か知ってるかもしれない」

 二人はカウンターに近づく。そこには、白髪交じりの髪を後ろできっちりと束ねた女性が立っていた。五十代半ばだろうか。瀬野より少し下の年代かもしれない。

 エプロンの胸元の名札には「山脇やまわき」と書かれていた。

「いらっしゃい。何か御用?」

 渚は一呼吸置き、勇気を振り絞って口を開いた。

「すみません。瀬野 聖月さんについて、知ってることを教えてください。……この図書館の火事で亡くなった作家さんです」

 山脇の瞳が微かに揺れる。

 彼女は返却本を整理する手を止め、眼鏡越しに渚と大地を見た。目尻の皺に、懐かしさと警戒が交錯しているようだ。まるで過去の記憶を掘り起こすように。

 渚の力は、山脇の沈黙に嘘がないことを捉える。だが、その沈黙には深い重みが宿っていた。

「瀬野さん、ね……。私は彼女の小説が好きだったのよ。『川の靄』っていう作品が一番好きで何度も読んだ。あの人の文章には月ヶ瀬の魂が詰まってたんだと今は思うわ。火事で亡くなったのが今でも信じられない」

 渚の胸がざわめいた。山脇の声には嘘のない哀しみが滲んでいる。メモ帳を取り出し、ペンを握った。

「瀬野さんはよくこの図書館に来てましたか? 火事の前、どんな様子だったか覚えてます?」

 山脇はカウンターの奥を見た。まるで誰かに聞かれていないか確かめるように。彼女は声を潜め、ゆっくりと話し始めた。

「当時市立の図書館はここだけで、その頃から残ってるのも私くらいね。館長は図書館の専門家とは限らなくて、異動であちこちから来ては変わっていくから。司書も、あの頃いた人はもうみんな定年や何かで辞めちゃったわねえ。私はまだ新人に毛が生えた頃で最年少だったわ」

 山脇という司書が懐かしそうに話してくれる。

「瀬野さんは火事の数ヶ月前からよく資料室で調べ物をしてた。郷土史や月ヶ瀬川の開発の資料を熱心に読んでたわ。親友の佐藤さとうさんと一緒に来ることが多かった。二人で閉館ぎりぎりまで話してる姿をよく見たわね」

 渚の力は山脇の言葉に嘘がないことを確認した。彼女は急いでメモに「佐藤」と書き込み、尋ねた。

「佐藤さんってどんな人ですか? 瀬野さんの死と何か関係があるんでしょうか?」

 山脇の表情が一瞬固まった。彼女は唇を軽く噛み、内心の動揺を抑えるようにカウンターの端を指で叩いている。

 彼女の言動に嘘はない。だが、恐怖が混じっている気がした。

「佐藤 礼子れいこさん。小説誌の編集者だったそうよ。瀬野さんの作品を一緒に作ってた。あの二人は本当に仲が良かったわ。でも……、火事の後は佐藤さんもぱったり姿を見せなくなってね。噂じゃ街を出たって言うけど、誰も本当のことは知らないのよ」

 大地が身を乗り出し、静かに尋ねた。

「佐藤さんが瀬野さんの原稿に関わってたなら、火事の原因について何か知ってるかもしれないですよね? 資料室で、どんな資料を見てたんですか?」

 山脇は小さく息を吐き、棚の奥をちらりと見た。彼女の声は、さらに低くなった。

「開発の資料よ。月ヶ瀬川のダム計画、三十年以上前に中止になったもの。あの計画にはいろんな問題があった。事故も起きたし……。瀬野さんはそれを小説にしようとしてたんじゃないかって私は思ってる。──こういうの、本当は話しちゃいけないのよ。図書の貸し出し記録って重要な個人情報なの」

 それを敢えて教えてくれたのは、おそらく山脇自身に瀬野の死への疑惑なりがあるのではないか。立場上、公にはできない、何か。

 彼女は渚たちに口止めをしなかったが、それは信用されているからだ、と思っておこう。決して外には漏らすまい。

 日記の言葉、──「月ヶ瀬の真実を、誰も知ってはいけない」が渚の頭の中で響く。

 山脇の言葉には嘘がないが、その真実には危険な影が潜んでいるのだろう。

「事故ってどんな事故ですか?」

 山脇は一瞬黙り、眼鏡を外して目を擦った。

「作業員が死んだの。ダムの基礎工事中に崩落事故が起きて……。公式には自然災害ってことになってたけど、噂じゃ誰かが隠蔽したとか。瀬野さんはその話を知って調べ始めたみたいよ」

 大地の瞳が鋭く光った。

 彼はスマートフォンのメモに「ダム事故」と書き込み、渚を見た。渚はペンダントを握り締めて勇気を振り絞る。

「山脇さん。あの、資料室で瀬野さんが最後にいた場所ってわかりますか? 何か残ってるものがあるかもしれない」

 ベテラン司書の顔が青褪めた。彼女はまるで支えがないと立っていられないとでも言いた気にカウンターに手を置き、声を震わせる。

「資料室の奥に封鎖された一角があるの。火事で焼け残った部屋。今入れるのは全部修復された部分よ。鍵が掛かかってて誰も入れないの。そこが瀬野さんが最後にいた場所かもしれないけど。……あなたたち、なぜそんなことを?」

 渚は一瞬言葉に詰まった。山脇の警告に嘘がないことを捉えてはいたが、その警告には深い恐怖が宿っていた。改めてペンダントを握り締め、渚は静かに答えた。

「瀬野さんの物語を完成させたいんです。彼女の真実を知りたい」

 山脇はしばし沈黙し、小さく頷いてカウンターの引き出しから古い名刺を取り出した。そこには「佐藤 礼子」と書かれ、月ヶ瀬市郊外の住所が記されている。

「佐藤さんは瀬野さんの親友で編集者だったわ。よく一緒に資料室でダム計画の記録を調べてた。他にも仲間がいたみたいだけど私は見てないわ。あの頃はダム反対の動きがあって、瀬野さんがそれを小説にしようとしたんじゃないかって噂だった。火事の後、佐藤さんは姿を消したのよ。街を出たって話だけど、真相は誰も知らないわ」

「ダム計画に何か問題が?」

 渚の問いに山脇が目を伏せる。

「事故が隠されたって噂もあったわ。……大きな力が動いてたのかも。気をつけなさい」

 山脇が名刺を差し出して言う。

「ここにはもういないと思うけど、一応ね」

 渚は彼女から名刺を受け取り、深く頭を下げた。


 ──とりあえず行ってみよう。

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