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【第十章:過去の残響】

 月ヶ瀬市の夕暮れはどこか重苦しい空気に満ちていた。

 渚は学校帰りに駅前の書店に寄る。

 瀬野聖月の名前で検索して知った数作品はすべてが絶版で、書店の棚には一冊もないのはわかっていた。店員に尋ねても、「そんな作家、聞いたことないですね」と首を捻られただけだ。

 家に帰ると、渚はリビングのソファに座り祠の裏で見つけた日記の断片を広げた。繊細な手書きの文字は、まるで瀬野の息遣いを映したかのようだ。

 彼女はスマートフォンを手に取り、大地にメッセージを送った。

《大地くん。今日の日記を読み直したんだけど、やっぱり火事のことが気になって。図書館の司書さんに聞いてみようかな?》

 すぐに彼から返信が来る。

《いいね。司書さんなら、瀬野さんのこと知ってるかもしれない。明日は図書館行こうか?》

 渚は頷くように画面に触れ、微笑んだ。

 大地の言葉にはいつも嘘がない。彼女の心を軽くしてくれる存在。一昨日に彼が「過去視」の力を打ち明けてくれたことで、大地と同じく渚の方も「一人じゃない」と思えた。家族以外で初めて会った同胞。

 同時に、当然の如く大地の孤独も感じていた。大地の家族が彼の力を気味悪がったこと。渚には海や母に祖父という「仲間」がいるのに、大地にはそれがない。

 彼女は日記の断片を手に、また書かれた文字に目を走らせた。瀬野の言葉が胸に突き刺さるようだ。

「彼は私の物語を奪った。月ヶ瀬の真実を、誰も知ってはいけないと言った」

 渚の力は、嘘のない恐怖を捉える。

 瀬野は、本当に命の危険を感じていたのだ。渚はペンダントを手に取り、琥珀の表面に触れる。本当のところは専門家でないとわからないのだろうが、渚たちにとってこのペンダントは「琥珀」で結論付けられていた。渚が触れると、温かみが伝わってくる気がするのだ。きっと「琥珀」にも意味がある。化石、……つまり「時間を閉じ込めた」小さな欠片。

 祠で見つけたこの日記の一部が、物語の鍵を握っているのは間違いないと思われた。

 だが、なぜ海はあのとき動揺していたのか。

 その夜、大地が家を訪ねてきた。渚がコーヒーを淹れて、リビングのテーブルに日記を広げ二人で読み直す。大地の穏やかな笑顔に、渚は安心を覚えた。

「大地くん。この日記、なんか重いよね。瀬野先生の感じた怖さが伝わってくるみたいで──」

 大地は頷き、日記の紙を指で撫でた。瞳が一瞬揺れ、額に汗が滲む。

「うん。……今ちょっと視えた。瀬野さんがこの日記を持ってる映像。図書館の資料室で夜だった。彼女は誰かと話してたみたいだ。声の調子は強くて怒ってるみたいだけど、本当は怖がってる感じ」

 渚は目を丸くした。大地の力は、瀬野の最期に至る時間を少しずつ明らかにしている。彼女は大地の手を握り、勇気を振り絞った。

「大地くん、ありがとう。私、……この物語、絶対完成させたい。瀬野先生の真実を、みんなに知ってほしいの」

 大地は微笑み、渚の手を軽く握り返した。

「僕もだよ。渚ちゃんとならきっとできる。海も、きっと協力してくれるよ」

 渚は一瞬、海の顔を思い出した。

 兄の嘘。妹を遠ざけようとする態度。なぜ、彼は隠そうとするのか。彼女は大地を見た。渚は自分の力を初めて打ち明けたときの彼の言葉を思い出す。

「僕たちは仲間だ。きっと、海も、だね。」

 そのとき、玄関のドアが開く音がした。海が帰って来たのだ。リビングに入ってきた彼は、渚と大地を見て軽く手を挙げた。

「よお、二人で何やってんだ? またその変な紙?」

 渚は日記の破られた部分を手に海を見た。彼女の力は兄の軽い口調に嘘がないことを告げる。だが彼女の心から、昨日の祠での海の動揺が消せなかった。

「お兄ちゃん。祠で見つけた日記を読んでみて。瀬野先生は火事の前に誰かに裏切られたみたいなんだ」

 海はソファに腰を下ろし、渡された紙束を手に取った。彼の手が止まる。渚は、兄の瞳に一瞬の暗い光を見た気がした。

「へえ、……裏切りか。まあ、作家なんてそんなもんだろ。誰かに妬まれたり、邪魔されたり」

 海の言葉に嘘はない。だが、その声にはどこか遠い響きがあった。まるで彼自身が裏切りの痛みを知っているかのように。

「お兄ちゃん、なんでそんなこと言うの?」

 海は紙束を揃えて笑顔を浮かべた。だが、その笑みはどこか強張っている。

「だから知らないって。お前ほんと疑り深いな。ほら、大地も何か言ってやれよ」

 大地は静かに海を見た。眼鏡の奥の瞳が、探るように光る。

「海、君こそなんか変だよ。いつもならもっとノリノリで謎解きに食いつくのに。……何かあった?」

 海は一瞬黙り、肩を竦めた。

「何もねえよ。疲れてんだ、たぶん。俺、課題あるからもう行くわ」

 海は立ち上がり、自分の部屋に向かった。渚はその背中を見つめる。兄が、遠い。

 大地がそっと渚の肩に手を置いた。

「渚ちゃん、海は何か怖いものと戦ってるんだと思う。僕も昔、力のことで親に気味悪がられて、隠したかったときがあった。海も、きっと似たような気持ちなんじゃないかな」

 渚は頷いたが、心の中では疑念が渦巻いていた。

 海が隠しているもの。それは、瀬野の火事と関係があるのか。それとも、もっと個人的な何か?

 彼女は紙束を手に、何度目かに読み直してみた。

 ──月ヶ瀬の嘘は、川の底に沈んでいる。私の物語を、取り戻して。

 頭に浮かんでは消える文字。

 いつもの光とは違う、嘘のない強い意志。渚は目を閉じ、浮かんだ文字を心で反芻した。本当に彼女の言葉なのだろうか。

 渚はバッグから取り出したペンダントを握って窓の外を見る。


 ──夜空の星の輝きが、こちらを窺っているかのように感じた。




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