《大地くん。あのペンダントのことなんだけど。もう一度じっくり見たら、石の土台の裏に文字みたいなのが刻んであるのを見つけたの。拾った日に拭いたときにも隅々まで確かめたけど最初はなかったわ、絶対に。アルファベットだけど全然読めないの。何か私の知らない外国語なのかな?》
その夜、渚が送ったメッセージにはすぐに既読が付き、返信が浮かんだ。
《それ見たいな。明日の放課後は会える?》
《大丈夫。いつも暇だから。》
学校帰りに待ち合わせた月ヶ瀬川の河岸で、渚はスクールバッグからペンダントを取り出した。鈍く光る黄ばんだガラスらしきトップの表面を指でなぞり、大地に渡す。
「うん。確かに文字の刻印があるね。暗号、みたいだけど──」
『SGD NQHFHM GZR SQTSG』
スマートフォンを取り出した大地が、文字をメモに打ち込んで行く。
そして、その下にも何やらアルファベットを書き始めた。
「もしかしたらと思ったら、やっぱりそうみたいだね」
新たに書かれた文字は『THE ORIGIN HAS TRUTH』だった。
「英語だ! すごい、なんでわかったの?」
「『一文字ずらす』っていうのはなにか隠す時によくある例で、『シーザー暗号』っていうんだ。実は最初の『The』を『SGD』にするっていうのをミステリ小説で見たのを覚えてて、もしかして、と思っただけ」
このくらいの英語なら翻訳に掛けるまでもない。
『起源には真実がある』だ。
『起源』とは一体なんだろう。
月ヶ瀬川の源流にほど近い神社は、街の喧騒から切り離された静寂の中に佇んでいた。古びた鳥居の朱塗りが剥げ、苔むした石段が森の奥へと続いている。
「暗号」を解いてすぐ、彼がここに来ることを提案したのだ。『川の底』の『起源』ならここだ、と。
あともう一つ。
「これ、もしかしたら琥珀じゃないかな。古そうだしどれほど価値があるものかはわからないけど、ただのガラスじゃない気がする」
「琥珀、ってあれよね。樹液の化石だっけ?」
渚の言葉に大地が頷いた。ずっと手にして見ていたのにまるで気づかなかった。汚れて黄ばんだガラス玉だとばかり思っていたのだ。
「『川の底に隠された』って、やっぱりこのペンダントのことだったのかな。『起源には真実がある』って、……ここが川の始まりの場所だもんね」
「うん。この神社は地元でも忘れられがちだけど、昔は川の神様を祀ってたって話だ。ペンダントが川にあったのも、ただの偶然じゃない気がする」
二人の後ろで、海が軽く舌打ちした。
彼は大地と渚の誘いを断りきれず、渋々途中から河岸で合流して来たのだ。長身のシルエットが靄の中にぼんやりと浮かんでいる。
ざっくりと「暗号」について説明した妹に、彼は不機嫌そうな様子を隠さなかった。
「ったく、こんな山の奥まで何だよ。川の神様って、お前ら本気でそんな話信じてんの?」
渚は振り返り、兄の顔を見た。
いつもなら軽い冗談で場を和ませる彼が今日は妙に刺々しい。海の言葉に嘘はなかった。だがその裏に隠された苛立ちが、渚の胸を締め付ける。
「お兄ちゃん、嫌なら帰ってもいいよ。私と大地くんで調べるから」
海の眉がピクリと動いた。一瞬怒ったような表情が浮かぶが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「冗談だって。ほら、行くぞ。さっさと終わらせて帰りたいし」
渚は小さく息を吐き、足を進めた。海の笑顔はまるで偽りの仮面のようだ。
昨日川辺でペンダントを「ガラクタ」と切り捨てた態度も、普段の兄らしくなかった。
石段を登りきると、森の奥に小さな祠が現れる。苔に覆われた石造りの祠は、まるで時間が止まったかのように静かだ。祠の前には小さな水場があり、岩の隙間から細い水流が湧き出ている。これが月ヶ瀬川の源流だ。
「ここだね。渚ちゃん、見せて」
大地が手を差し出し、渚はそこにペンダントを載せた。彼の指先がトップの琥珀らしい石の表面をなぞると、一瞬瞳が遠くを見るように揺れる。渚は息を呑んだ。
大地の「過去視」の力。昨日彼が自分の能力を打ち明けてくれたとき、渚は初めて「仲間」がいる安心感を覚えた。だが、同時に、大地の孤独も垣間見たのだ。
「何か視えた?」
大地は首を振ったが、指先が微かに震えているのがわかった。
「まだ何も。……でも、このペンダント、誰かが大事に持ってた気がする。川に沈めたのも、隠すためじゃなくて守るためだったのかも」
渚は頷き、祠の周りを調べ始めた。石の表面には風化した文字が刻まれているが、判読は難しい。彼女はバッグから古書を取り出し、破られたページの端をなぞった。革の装丁が冷たく、指先に重みが伝わる。
「瀬野先生、この祠に何を隠したの? 教えてよ……」
頭の中に、薄っすらと文字が浮かぶ。
──私の物語を、取り戻して。
いつもの光とは違う、嘘のない強い意志に渚の胸が熱くなる。瀬野 聖月の声が彼女を導いているのだ。
その時、祠の裏手に回っていた大地が地面に膝をついた。
「ここになにか──」
彼が土を指で軽く払うようにすると、錆びた金属の箱が現れる。小さな鍵穴がついた、古い缶のようなものだ。
「これ、……何か入ってる」
渚がペンダントを手に取ると、ペンダントのトップと土台の間から小さな金属の鍵が滑り落ち淡く光を放つ。渚の頭に光は走らず、嘘のない意図を捉えた。
この鍵は本物だ。
「すごい! 大地くん、よく見つけたね!」
「一部だけ掘り返したあとみたいになってたから。埋めたってほどでもない、ギリギリの深さだけ掘って土を被せただけだね」
大地は照れ笑いを浮かべ、眼鏡を指で押し上げた。海が二人の横に立ち、箱をじっと見つめる。渚は兄の視線に気づき、鍵を握りしめた。
「お兄ちゃん、開けてみるよ。いいよね?」
海は一瞬黙り、軽く頷いた。だがその瞳はどこか虚ろな気がした。
海の態度に嘘はない。だが、何か隠された感情が渦巻いている気がした。「能力」ではなく、「家族」だからこそ伝わる気持ちのようなもの。
大地が渚から受け取った鍵を差し込んで回し、箱を開けた。
中には黄ばんだ紙の束が収められている。手書きの文字がインクの滲みとともに並んでいた。
少し読んでみると、破り取られた瀬野聖月の日記の断片だとわかる。
「彼は私の物語を奪った。月ヶ瀬の嘘を守るために。川の源に、真実の欠片を隠す」
最初のページには、震えてもなお美しく読みやすい筆跡でそう書かれていた。
この「彼」は、海が言ったように瀬野の近しい誰かなのだろう。
日記の言葉には嘘がない。瀬野の恐怖と決意が紙の向こうから伝わってくるようだった。彼女はページを捲って読み進め、思わず声を上げた。
「これ、図書館の火事の前日の日記よ! 『彼は私の原稿を燃やすと言った』って書いてある!」
大地が日記を手に取り、指先で紙の端をなぞった。瞳が一瞬揺れ、額に汗が滲む。
「大地くん、大丈夫?」
「うん、……ちょっと視えた。炎の映像。図書館の資料室、瀬野さんが壁を背にして立ってる。誰かに追い詰められたみたいだ」
渚は息を呑んだ。大地の力は、おそらく瀬野の最期の直前の姿を捉えたのだ。海を見ると、兄は日記を手に取りページを捲っていた。その手が僅かに震えている。
「お兄ちゃん、なんか知ってるよね? この日記のこと、火事のこと。教えてよ!」
海は日記を閉じ、渚を見た。作られた笑顔が硬い。
「知らないって。渚、考えすぎだよ。ほら、もう暗くなるぞ。帰るか」
渚の頭に閃光が走り、無意識に拳を握り締めていた。
嘘だ。また兄は嘘を吐いた。なぜ海は自分を信じてくれないのか。家族なのに。仲間なのに……。
「待ってよ! 私、瀬野先生の物語を完成させたいの! お兄ちゃんも一緒に調べてくれるって言ったよね?」
海は一瞬言葉に詰まり、軽く息を吐いた。
「……わかった。けど深入りしすぎんなよ」
渚は頷いたが、心の中では疑念が渦巻いていた。海の態度は、まるで妹を真実から遠ざけようとしているようだ。
大地がそっと渚の肩に手を置いて囁く。
「海もきっと何か怖いものと戦ってるんだよ。渚ちゃん、僕たちで一緒に真相を探そう」
渚は大地の言葉に頷き、日記の断片をバッグにしまった。
祠の周りの靄が濃くなり、木々の間から冷たい風が吹き抜ける。ペンダントを握り締めたまま、渚は日の暮れた空を見上げた。
──相変わらず鋭いほどの光を放つ星が一つ、薄闇に輝いていた。