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第49話 特訓

「ほらほら、しっかりガードを上げなさい。また顔面ぶん殴っちゃうわよ?」

「ハ、ハイ!」


 声は優しげだったが、その動きには容赦がなかった。鞭のように素早い左ジャブが琴美の防御を貫き、風切り音と共に頬を掠める。

 琴美は声を震わせながらも、必死にグローブを顔の前に構え直し、猛攻に耐え続けている。


「顔ばっかり守ってちゃだめでしょ。ボディががら明きよ」

「お、おえ!」


 言葉が終わる前に、鈍い音が響いた。琴美の腹部に放たれた右フックが見事に決まる。息が詰まったような悲鳴と共に、琴美が膝をつきかけるが、それでもリングに倒れ込もうとはしなかった。


 俺の目の前で繰り広げられているのは、ボクシングのスパーリング。いや、スパーリングという生易しいものではない。


 その激しさは、本職顔負け。

 グローブが当たるたびに琴美の体は小さく震え、その衝撃が俺の心臓にまで伝わってくるようだ。


「……お、大友君、ごめんなさい。まさかこんな事になるなんて」

「いや、別に気にする必要は無いよ。琴美自身が望んだことだ」


 隣で黒田さんが囁く。その顔色は青ざめ、あまりのハードさに特訓相手を紹介したことを後悔しているようだ。俺はなるべく平静を装いながら、黒田さんにそう返した。


 目を離したすきに、ドンっという大きな音がリング上から響いた。重い物体が床に落ちたような、身体の芯まで震えるような音。


「あらあら、顔面にまともに入っちゃたわね。一旦休憩して傷を治すわよ」

「ふぁ、ふぁい」


 見れば、琴美は鼻を抑えて屈みこんでいた。一滴、また一滴と、キャンバスに点々と赤い血が垂れ、リングを朱に染めていく。


「うん。折れてはいないわね。これならすぐ直せるわ」


 そう言って、琴美をぶん殴った張本人である彼女は、グローブを外すと、その長い指を琴美の鼻に添える。すると、指先から淡い緑色の光が滲み出し、傷を包み込んでいく。


「これで大丈夫よ。傷はいくらでも直してあげるからね。地上じゃ限界があるけど、骨が折れるくらいの怪我でも迷宮に行けばすぐ直せるわ」


 不気味なほどの笑顔を見せながら、そう言い放つと、彼女の指先を離れた光がゆっくりと消え、琴美の鼻からの出血も止まっていた。


「ゆり子……。いくら何でも骨を折るのは勘弁してやれ。少しは手加減しろ」

「あら、ケイちゃん。甘いこと言うのね。実際に痛みを経験しておかないと、いざって時に動けないのよ」


 黒田さんが連絡を取ったのは、以前渋谷事件で知り合った、ケイ子さんとゆり子さんだ。二人に特訓について相談すると、快く引き受けてくれた。


 ちょうど非番だったらしく、指定された新宿の某所を訪れると、そこは本格的なリングを備えたフィットネスクラブ、いやボクシングジムと言っていい場所だった。


「精神力を鍛えるのはこれが一番よ。いくら剣を振っても、殴られる経験を積まないと、タフネスは身につかないわ」


 相変わらず優し気な顔をしたゆり子さんが、そう言ってスパーリングパートナーを買って出てくれた。


 彼女のクラスは、コンバットヒーラーとも呼ばれる回復魔法と身体強化を会得した上級職だ。本職はヒーラーの為、強力な回復魔法が使用でき、地上でもちょっとした怪我くらいならすぐに回復できる。


 その為、琴美はひたすらゆり子さんに殴られ、怪我をするたびに魔法で治癒してもらっている。一応、ヘッドギアとグローブをつけてはいるが、凄惨な光景と言っていい。ゆり子さんの拳が琴美のボディを打つ音が、規則的にジムに響き続ける。


「……姐さん。あの二人、元有名配信者のデストロイドエンジェルズですよね。あんな人たちと知り合いだったんですか」

「う、うん。色々あって懇意にさせてもらってるの」


 黙りこくっていたモモが、恐る恐るそう言う。

 俺は知らなかったが、どうやらあの二人は有名人らしい。


 琴美は本番の試合さながらに、コーナーでケイ子さんから水分などを貰って休んでいる。始めは俺がセコンドにつこうかと思ったが、甘えに繋がるからとゆり子さんに止められてしまった。


 俺たちは部屋の隅で見学している事しかできない。ただただ、肉体の限界を超えようとする琴美の姿を、息を潜めて見守るしかなかった。


 昼過ぎから始まったスパーリングも、既に1時間が経とうとしている。ボクシングについては良く分からないが、こんなに長くやるモノなのだろうか?

 小休止自体は挟んでるいるが、琴美の体力は限界に見えた。


「さて、そろそろ休憩を入れましょうか」


 そうゆり子さんが言った時は心底ほっとした。だが、あくまで休憩なので、これで特訓が終わったわけではない。


「アキラ君だっけかな。スマンが君はジムの外に行っててくれないか? 汗の手入れや傷の確認を本格的にしたいから、男子は遠慮してほしい」

「あ、はい。分かりました」

「悪いね。すぐ近くに公園があるからそこにでも行っててくれ」


 ジムはそう広い部屋ではなく、休憩室も無いようだった。更衣室はあるが、俺がいなければここで対処できるので、男は邪魔のようだ。


「琴美、よく頑張ったな。しっかり休むんだぞ」

「……うん、ありがとう、お兄ちゃん」


 琴美は力なくそう言ったが、以前とは違い、気持ちの落ち込み云々というより、疲れてへとへとのせいだろう。

 声に勢いはないが、その表情にはどこか晴れ晴れしさがある。


 見ている分にはしんどくて仕方なかったが、効果はあったようだ。

 ともかく、俺は追い出されるようにジムを後にした。


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