月も星も見えぬ、闇夜だった。
生命の息吹を拒むかのような深い森の奥、瘴気にも似た冷たい空気がカイウス・フォン・レーヴェンハルトの頬を撫でる。
名門貴族レーヴェンハルト家の名を冠する彼だが、その青い瞳には、家名の輝きとは裏腹の、底なしの虚無が揺らめいていた。
手にした長剣の柄を握る指先は白く、吐く息だけが、彼がまだ生きていることを証明するかのように白く濁っては消えた。
(また死ねなかった)
その一念が、カイウスをこの『吸血鬼の森』と呼ばれる禁忌の地へと駆り立てていた。
かつては名の知れた冒険者でもあり、卓越した剣技で仲間たちからも頼りにされていた。
しかし、彼は守れなかった。
仲間たちの最期の顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
生き残ってしまった罪悪感と喪失感が、彼から生きる意味を奪い去っていた。
いつか誰かが嘲るように言った言葉が、頭の中で木霊する。
吸血鬼――夜の眷属が支配するというこの森は、生者が踏み入れば二度と戻れぬと言われる場所。死を望む者にとって、これほど相応しい舞台はないはずだった。
黒髪が冷たい汗で額に張り付く。
端麗と評される彼の顔立ちは、今はただ冷たく、硬質な彫像のように感情を殺している。
澱んだ碧眼が、彼の絶望を語っているようだった。
茨が彼の外套を裂き、木の根が足を取ろうとする。
しかしカイウスは意にも介さず、森のさらに奥深くへと進んでいく。
目的は一つ。この森の主たる吸血鬼に見つかり、その牙によって永遠の安息を得ること。
自ら命を絶つ勇気はない。それが、カイウスを孤独へと誘った。
だが、戦いの中で、抗う術なく蹂躙される中でなら、恐れる暇もなく仲間の元へ許しを乞いに行けるような気がした。
獣の気配も、鳥の声すらしない。ただ、不気味な静寂と、時折吹き抜ける風の音だけが支配する世界。
死が満ちている。
それはカイウスにとって、ある種の安らぎですらあった。自らが死に近づいているという実感だけが、彼を突き動かす最後の燃料だった。
不意に、空気が変わった。
それまでの冷気とは質の違う、肌を刺すような濃密な気配。死そのものの気配だ。
カイウスは足を止め、剣の柄を握り直した。全身の神経が研ぎ澄まされ、冒険者としての本能が警鐘を鳴らす。
――来たか
心臓がわずかに高鳴る。それは恐怖ではない。むしろ、待ち望んだ瞬間への期待に近い。
闇の中から、ゆらり、と人影が現れた。
月明かりがないにも関わらず、その姿は奇妙なほど鮮明に闇に浮かび上がっていた。
絹のような、月光を溶かし込んだかのような金色の髪。
闇夜にあってもなお輝きを失わないその髪は、まるで後光のように見えた。
対照的に、瞳は血のように深い紅。覗き込めば魂を吸い取られそうな、妖しい光を湛えている。 陶器のように白い肌をして、華奢でありながら、どこか侵しがたい気品を漂わせる立ち姿。
人間とは明らかに違う、異質な存在だった。
「……迷い人か? それとも、死を急ぐ愚か者か?」
声は、低く響き渡り美しかったが、その響きには人間的な温かみが欠けていた。まるで磨き上げられた氷のように思える。
カイウスは答えない。ただ、目の前の存在――吸血鬼であろう青年を睨み据えている。
期待していた、もっと醜悪で、獣のような存在ではなかった。あまりにも美しく、そして、どこか物悲しい雰囲気を纏っている。
「答えぬか。まあ、良い。貴様が何者であろうと、ここは生者の領域ではない。早々に立ち去るがいい」
吸血鬼の青年は、静かに告げた。
瞳はカイウスを値踏みするように細められている。
はっきりとした拒絶。
しかし、そこには敵意よりも、むしろ深い倦怠のようなものが感じられた。
カイウスは自嘲気味に口の端を歪めた。
「立ち去るつもりはない。俺は……死ぬために来た」
「死ぬため?」
青年はわずかに眉を顰めた。その表情に、初めて人間らしい感情――困惑、あるいは不快感のようなものが浮かんだ。
「馬鹿なことを。死など、望んで得るものではない」
「不死の存在に、何がわかる」
カイウスは吐き捨てるように言った。永遠を生きるとされる吸血鬼に、死を渇望する人間の気持ちなど理解できるはずがない。
「……死は、終わりではない。時には、始まりですらある。だが、貴様のそれは、ただの逃避だ。虚しいだけだぞ」
青年の言葉は、静かだが妙な説得力を持っていた。まるで、彼自身がその虚しさを嫌というほど味わってきたかのように。
カイウスの苛立ちは募る。なぜ、この吸血鬼は自分を殺そうとしない? なぜ、問答などしている?
「黙れ! お前に説教される筋合いはない!」
カイウスは剣を抜き放った。切っ先が、闇の中で鈍い光を反射した。
「俺を殺せ。それができないなら、道を空けろ。この森には、お前以外の化け物もいるだろう」
青年は、カイウスの剣を見ても動じなかった。ただ、その紅い瞳に、憐れみとも諦めともつかない複雑な色が宿る。
「……愚か者め、ここは貴様の死に場所ではない」
「何だと……?」
その瞬間、カイウスの背後で、複数の気配が急速に近づいてきた。青年とは比較にならないほど、原始的で、飢えた獣のような気配。
――好都合だ
カイウスは振り返らず、そのまま背後の敵を迎え撃とうとした。どうせ死ぬなら、華々しく散りたい。剣士としての矜持が、わずかに頭をもたげる。
しかし、彼が動くよりも早く、目の前の青年が動いた。
まるで影が伸びるように、青年はカイウスのすぐそばに移動していた。そして、その細い腕が、力強くカイウスの腕を掴んだ。
「!?」
「言ったはずだ。ここは貴様の死に場所ではない、と」
冷たい指先が、カイウスの肌に食い込む。抗おうとするが、見た目の華奢さからは想像もつかない力で押さえつけられた。
背後から迫っていた複数の気配が、青年の発する威圧感に怯んだように一瞬動きを止めた。
「なぜ死なせてくれない……」
「死にたければ、他所で死ね。私は
青年の紅い瞳が、間近でカイウスを射抜く。その瞳の奥に、カイウスは一瞬、自分と同じような、深い孤独と苦悩の色を見た気がした。
抵抗する気力も、意志も、急速に萎えていく。青年の言葉が、その瞳が、カイウスの心の奥底にある何か、忘れかけていたものに触れたのかもしれない。
「……我が名はノア。ノア・アレクサンドル・ヴァランテ。名を聞こうか、愚かなる騎士殿」
「……カイウス・フォン・レーヴェンハルトだ」
互いに、名を告げた。
彼が名乗ったのは、かつて栄華を誇った貴族の名。はるか昔に断絶した、王国の重鎮の家名だった。
「貴様は死と言うものを理解していないな。その目を見ていると、
ノアはそう言うと、掴んだ腕を引いた。カイウスの身体は、まるで枯れ葉のように、なすすべなく引き寄せられる。不眠不休で歩き続けた代償か、限界まですり減っていた精神のせいか、意識が急速に遠のいていく。
最後に見たのは、闇の中でもなお気高く輝く金色の髪と、血のように赤い瞳。そして、その瞳の奥に揺らめく、不可解なほどの強い『生』への執着だった。
死を求めて踏み入ったはずの闇の中で、カイウスは皮肉にも、死とは対極にいるはずの存在によって、強引に生かされようとしていた。望まぬ生を与えられ、意識は深い闇へと沈んでいく。
闇夜の森に、ただ風の音だけが残響していた。