意識が浮上する。最初に感じたのは、硬く冷たい石の感触と申し訳程度に敷かれた敷き布のカビの臭いだった。
次いで、古びた書物、そして微かに薬草のような臭いが鼻についた。
重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは高い天井。豪奢だったであろう彫刻の痕跡が残るものの、今は所々が崩れ、蜘蛛の巣がアートのように張り巡らされている。
――生きている
その事実に、カイウスは絶望にも似た感情を覚えた。
身体を起こそうとして、軽い眩暈と、全身を覆う倦怠感に気づく。目立つような怪我はないが、緊張の糸が切れて疲れが押し寄せたようだった。
辺りを見回せば、古い貴族の館の一室のように見える。 壁には色褪せたタペストリーがかかり、かつては豪奢であったことだろう。
まるで廃墟のようだったが、一角には簡素な長椅子と、薬品や器具が雑然と置かれた小さな机があり、ここが誰かの生活空間であることを示していた。
そして、その机の傍らの椅子に、彼がいた。
昨夜の森で会った吸血鬼――ノア・アレクサンドル・ヴァランテ。
彼は古風だが仕立ての良い、しかし所々が擦り切れた貴族服を身に纏い、ゆったりと、だが優雅に本のページを追っていた。
カイウスが目覚めたことに気づくと、ゆっくりと本を閉じ、立ち上がった。
「目が覚めたか」
その声は、やはり氷のように冷ややかに響く。
「……ここはどこだ。なぜ俺を助けた?」
カイウスは掠れた声で問い詰めた。身体の自由は奪われていないが、蛇に睨みつけられたようにその場から動けなかった。
「ここは、かつて私の家――ヴァランテ侯爵家が所有した城の廃墟だ。今は私以外、訪れる者もない」
ノアは淡々と答える。その表情からは感情が読み取れないが、少し考えるような素振りをして、再び口を開いた。
「なぜ助けたか、か。……気まぐれだ。死に魅入られた人間が、私の静寂を乱すのが不快だった。それだけだ」
「気まぐれだと?!」
カイウスは思わず声を荒らげた。人の命を、死への渇望を、気まぐれの一言で済まされたことが許せなかった。
「ふざけるな! 俺は死に場所を求めていたんだ。お前が、お前さえ邪魔さえしなければ……!」
「死は、貴様が考えるような安らかな逃避先ではない」
ノアはカイウスの言葉を遮った。紅い瞳に、初めて明確な色が宿る。憐れむような、悲しむような、深い侮蔑の色だった。
「貴様は死を美化している。生から逃れるための安易な口実として。正しく死を知らぬ者が、死を語るな」
「お前に何がわかる! 永遠を生きる化け物が!」
カイウスは感情のままに叫んだ。そうだ、こいつは吸血鬼だ。人の苦悩など理解できるはずがない。永遠という退屈な時間を持て余し、人間の命を弄んでいるだけだ。
「お前ら吸血鬼は、血をすすりながら永遠に生きるんだろ?! だったら何故俺の血を吸わないんだ、獲物が目の前にいるって言うのに!」
挑発的な言葉にも、ノアは眉一つ動かさない。ただ、その瞳の奥の冷たさが一層深まったように見えた。
「……残念だが、私は人間の血を飲まない」
「何?」
予想外の言葉に、カイウスは虚を突かれた。吸血鬼が、血を飲まない?
「では、どうやって……」
ノアは無言で指をさした。机の上に並んだ薬品瓶や、壁に描かれた複雑な魔法陣らしきものが、彼の言葉を代弁していた。
「血への渇望は、確かに私を苛む。だが、それに屈するつもりはない。……私は、貴様が考えているような『化け物』とは違う」
その言葉には、確かな矜持と、そして、生きることの苦しみが滲んでいた。
カイウスは言葉を失う。目の前の存在は、単なる吸血鬼ではないのかもしれない。彼もまた、何かと戦い、苦悩しているように見える。
「……くだらん」
だが、カイウスはすぐにその考えを打ち消した。同情など不要だ。自分の絶望は、誰にも理解される必要はない。
「お前の事情など、俺には関係ない。俺はただ、終わりが欲しいだけだ。生きる意味など、とうに見失った」
カイウスは自嘲を込めて言った。
そして、吐き出すように言葉を続ける。
「仲間を守れず、生き残った俺に、生きる資格などない。親友は俺のせいで死んだも同然だ。この命は、皆の不要な犠牲の上で生きながらえている」
カイウスは唇を噛み締めながら、ノアの反応を窺った。嘲笑うか、あるいは無関心か。だが、ノアの反応は、またしても予想外のものだった。
「生きる意味、か……」
ノアは呟き、その紅い瞳を窓の外の闇に向けた。まるで、遠い過去を追憶するかのように。
「それを探し続けること自体が、生きるということなのかもしれん。……たとえ、それが永遠に見つからぬとしても」
その声には、諦観と、しかし微かな、執念のような響きがあった。
「お前は……なぜ生き続けている?」
カイウスは、思わず問いかけていた。この吸血鬼は、なぜ血を拒み、魔術と薬で苦しみながら生き永らえようとするのか。
永遠の生が苦痛であるならば、なぜ自ら終わりを選ばないのか。
ノアはゆっくりとカイウスに向き直った。その瞳は、まるで深淵を覗き込むように、カイウスの魂の奥底を見透かそうとしているかのようだ。
「……生きたいから、と言うよりも、死ねないから生きている。それだけだ」
「死ねない……?」
「そうだ。私には、死ぬことすら許されていない。この呪われた運命から、逃れる術は限られている」
彼の声には、抑えきれない苦悩と、深い絶望が滲んでいた。それは、カイウスが抱える死への渇望とは、また違う種類の、しかし同じくらい重く、暗い絶望だった。
「貴様が羨ましい」
ノアは続けた。
「まだ先も終わりも選ぶことができる。自由がある。……だが、その自由を、安易に……癇癪でも起こしたかのように、手放そうとしている。愚かだとは思わないか?」
カイウスは反論できなかった。ノアの言葉は、彼の心の最も痛い部分を抉った。死ねない苦しみ。痛みを抱えてなお、願うことすら許されぬ苦しみだ。
「俺は……」
何かを言い返そうとしたが、言葉にならなかった。
ノアの紅い瞳に見つめられると、自分の抱える絶望が、ひどく矮小なものに思えてくる。
「……また少し休むがいい。お前が死ぬのは、ここではない。そして、今でもない」
ノアはそれだけ言うと、再び背を向け、机の上を整え始めた。その背中は、拒絶しているようでもあり、同時に、奇妙な共感を寄せているようにも見えた。
カイウスは、反論する気力も失せ、再び硬い石の床に身を横たえた。
皮肉なものだ。死にたくてたまらない自分が、死ねずに苦しむ吸血鬼に生かされている。
生きる意味。
ノアはそう言った。自分はそれを見失った。だが、この吸血鬼は、死ねないという運命の中で、あるいはそれを探し続けているのだろうか。
答えの出ない問いが、頭の中を巡る。割れた窓の外では、相変わらず深い闇が広がっていた。だが、その闇の向こうに、ほんのわずかな、今まで感じたことのない種類の感情が芽生え始めているのを、カイウスは自覚していた。
好奇心、あるいは、この奇妙な吸血鬼に対する、理解しがたい共感のようなものだったのかもしれない。
鼻の奥がツンとしたような気がしたが、カイウスは重くなってきた瞼に抗うこともなく、再び眠りについたのだった。