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第3話 、血への嫌悪




  重苦しい沈黙が、廃墟となった城の一室に満ちていた。カイウスは石の床に座したまま、黙ってノアの姿を目で追っている。

     カイウスが目覚めた後、二人の間に交わされる言葉はなかった。ノアは机に向かい、ガラス器具や薬品を扱うことに没頭している。

    その指先は驚くほど繊細で、集中している横顔はまるで錬金術師のようだ。

    しかし、彼の喉が微かに動き、紅い瞳に一瞬、抑えきれない渇望の色がよぎるのをカイウスは見逃さなかった。

    その度にノアは顔を顰め、深く息をつき、再び作業に戻る。その姿は、彼が語った「血への渇望」が生易しいものではないことを物語っていた。


(なぜ、そこまでして……)


 カイウスの疑問は、もはや単純な好奇心だけではなかった。死を願う自分とは対照的に、苦痛に耐えながらも「生きている」吸血鬼。

    全てが正反対でありながら、自分と同じく命に縛られている者だ。


 先に沈黙が耐えきれなくなったのは、カイウスの方だった。


「なぜ、そこまでして血を拒む?    お前の本質だろう」


 言葉を選びながら、それでも問いかけずにはいられなかった。


 ノアの手が止まる。彼はゆっくりと振り返り、その紅い瞳でカイウスを捉えた。表情は読み取れない。だが、その奥には深い悲しみと、拭い去れない過去の影が揺らめいていた。


「……知りたいか? 」


 その声は静かだったが、拒絶の色はなかった。むしろ、誰かに話す機会を、心のどこかで求めていたのかもしれない。


 カイウスは黙って頷いた。ノアはふっと息を吐き、視線を窓の外、見えない夜空へと向けた。


「我がヴァランテ家は、かつて芸術と魔道の庇護者として名を馳せた。私の父も、祖父も、優れた当主だった。……少なくとも、表向きは」


 語り始めたノアの声は、遠い昔を懐かしむ響きと、避けられぬ運命への諦観が混じり合っていた。


「だが、栄華の影には常に没落の種が蒔かれていた。贅沢な暮らし、政敵の陰謀、そして……魔道への深入りが招いた禁忌への接触。私が物心つく頃には、ヴァランテ家は見た目とは裏腹に、崩壊寸前の状態だった」


 彼は言葉を切り、当時の情景を思い出すかのように目を伏せた。


「私は一人息子として、その全てを継ぐ運命にあった。傾いた家名を再興し、失われた栄光を取り戻すこと。それが、私に課せられた責務。若く、傲慢だった私は、それを成し遂げられると信じて疑わなかった」


 燭台の炎が揺らめき、ノアの白い顔に影を落とす。


「だが、現実は甘くなかった。次々と襲い来る困難、裏切り、そして……決定的な破滅が訪れたのだ」


 彼の声が、わずかに震えた。


「政敵の罠にはまり、父は失脚。母は心労で病に倒れ、莫大な借財だけが残された。家宝は散逸し、忠誠を誓っていたはずの家臣たちも、蜘蛛の子を散らすように去っていった。ヴァランテ家は全てを失ったのだ」


 カイウスは息を詰めて聞いていた。

    盛者必衰。

    それは、彼自身も目にしてきたものであった。


「私は……無力だった」


 ノアの声には、今もなお消えぬ痛みが滲む。


「崩れ落ちる家を前に、ただ立ち尽くすことしかできず……そんな私の絶望に……奴は目をつけたのだ」


「奴?」


「私を、この身体に変えた吸血鬼だ」


 ノアの紅い瞳に、憎悪とも恐怖ともつかない激しい光が宿った。


「彼は、力ある吸血鬼だった。人間の不幸を弄び、歪んだ悦びを見出すような男だ」


 当時のノアにとって、それは悪魔の誘惑であり、同時に唯一の蜘蛛の糸だったのかもしれない。


「私は……愚かにも、その手を取ってしまった。力を得て、ヴァランテ家を再興できるならば、人間でなくなっても構わないと……おろかにも、そう、考えてしまった」


 ノアの声は、苦痛に満ちていた。


「奴は、私の目の前で……老僕を襲い、その血を啜った。そして、私に牙を立てた。身体を焼くような激痛と、魂が書き換えられるような感覚の後……気がついた時には、私はもはや人間ではなく、奴と同じ、血を渇望する化け物へと成り果てていた」


 彼は両手で顔を覆った。華奢な肩が、微かに震えている。


「そして、奴は私に強要した。最初の糧として……病床の母の血を啜ることを」


「……!」


 カイウスは絶句した。それは、あまりにも惨い仕打ちだった。


「私は……できなかった。母のやつれた顔を見た瞬間、私の中で何かが壊れ、同時に、最後の人間としての理性が叫んだのだ。『これ以上、化け物になってはならない』と」


 ノアは顔を上げ、その瞳は涙の代わりに、乾いた絶望に濡れていた。


「私は、母の前から逃げ出した。そして、力の限り抵抗した。魔術の素養があったのが幸いしたのだろう。どうにか精神支配から逃れ、奴の心臓をえぐり出した」


 彼は自分の胸に手を当てた。


「だが、代償は大きかった。奴は私に呪いをかけた。『永遠に生き、血への渇望に苦しみ続けろ。決して安らかな死は訪れない』と。……そして、私は知った。人間の血を啜れば、確かに力は増す。だが同時に、心も、魂も、より深く闇に染まっていく。あの吸血鬼のように、ただの血を求める獣へと堕ちていくのだ」


 そこで、ノアはカイウスを真っ直ぐに見据えた。


「だから、私は血を飲まない。どんなに渇きに苦しもうとも、決して。人間の血を飲むことは、奴と同じ存在になることだ。この苦しみが、愚かにも力を欲した自分への罰。そして、見捨てた母への、贖罪なのだ」


 彼の言葉は、カイウスの胸に重く響いた。血への嫌悪。それは単なる好き嫌いではない。それはノア・アレクサンドル・ヴァランテという存在が、失われた過去と、呪われた現在、そして見えない未来に対して行う、壮絶な戦いの証だった。


「……そうか」


 カイウスは、それだけ言うのが精一杯だった。同情ではない。だが、目の前の吸血鬼が背負う運命の過酷さを、彼は痛いほど理解した。

    失われたものへの執着、抗えない運命への反抗、そして、消せない罪悪感。形は違えど、それはカイウス自身が抱える苦悩と、どこかで通じ合っていた。


 ノアは疲れたように息をつき、再び背を向けた。痛ましい告白の後、彼は再び自分の殻に閉じこもろうとしているようだった。


「これで分かっただろう。私が貴様を殺せない理由も、貴様の死への願望を愚かと断じる理由も」


 沈黙が再び部屋を支配する。しかし、それは以前の沈黙とは質が違っていた。互いの傷の深さを垣間見たことで、二人の間には、言葉にならない奇妙な絆のようなものが生まれ始めていた。


 カイウスは、もはや軽々しく「死にたい」とは言えなくなっていた。目の前にいる、死ぬことすら許されず、それでも人間としての尊厳を守ろうと戦い続ける存在を前にして、自分の絶望がいかに自己中心的であったかを思い知らされていた。


(生きる意味……か)


 ノアが以前口にした言葉が、再びカイウスの脳裏に蘇る。意味などないと思っていた。だが、この吸血鬼は、苦しみの中にも、血を拒むという「意味」を見出し、それに殉じようとしている。


 カイウスは、まだ答えを見つけられない。だが、この闇の中で、死とは違う何かを探し始める予感を、確かに感じていた。

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