廃城の朝は、希望なき夜の延長だった。分厚い雲が空を覆い、割れた窓ガラスを通って僅かな光が瞳孔に届く。城の奥深くから染み出すような湿気と朽ちたものの匂いが混ざり合っていた。
カイウスは、硬い石床の上でゆっくりと身を起こした。昨夜、ノアが語った過去がまだ耳の奥に張り付いているかのようだった。
彼は自身の身体が、冷えと固さで軋むのを感じながら、視線を室内へと巡らせた。視界に入るのは、かつての栄華の残骸。そして、ただ黙々と作業に没頭するノアの後ろ姿だ。
時折、彼は微かに肩を震わせ、表情を歪める。表には出さないが、常に渇望が彼を苛んでいる証拠だった。
(この男は……本当に、全てを拒みながら、それでも生きている)
死ぬことを赦されない、しかし生きているとも言いきれない。絶望的な呪縛。
自らの存在そのものが罰であり、救済は訪れない。それがどれほど苛烈な苦しみか、想像すらできぬほどの痛みをノアの中に見て、少しだけ深淵に触れた気がした。
沈黙の中、薬草を扱う微かな音だけが響く。やがて、ノアが小さく、ほとんど聞き取れないような吐息を漏らし、手にしていた薬草の束を静かに机の上に置いた。その仕草は、何か区切りをつけたようでもあり、あるいは諦念のようでもあった。
「……出ていくのかと思っていた」
唐突なノアの声に、カイウスは目を見開いた。顔はこちらへ向けないままのその声には、感情がほとんど含まれていないように聞こえるのに、確かに問いの響きがあった。
「俺も、そう思っていた」
カイウスはゆっくりと立ち上がった。まだふらつく体の支えに、愛剣で床をついた。石床に響く自身の足音が、やけに大きく聞こえる。
重い体を引きずるようにして、ノアの机へと歩み寄り、長椅子に座り込む。
「だが、足が動かなかった」
理屈ではない。まるで、何かに縫い付けられたように、この場所から離れることができなかった。
「貴様は馬鹿なのか?」
ノアの声に、嘲りの色が宿る。
「違、いや……そうかもな」
カイウスが自嘲するかのように笑った。
「正気ではないぞ」
ノアは淡々と言い放つ。
「それでもいい」
カイウスはノアの背中に向かって言った。
「お前がなぜ、そんな枷を負ってまで生きているのか、知りたいと思った」
「好奇心か?」
「……さあ? 執着、かもしれない」
無意識のうちに、その言葉が口を衝いて出た。執着。この得体の知れない感情を名付けるには、あまりにも重い言葉だ。
だが、他に適切な言葉が見つからなかった。自分自身の何かと強く結びついているような気がしてならないのだ。
その言葉を聞いて、初めてノアの動きが止まった。僅かに肩が強張り、そして、机上の器具を掴む指先に、力が籠もるのが見えた。振り返らない彼の、紅い瞳が微かに揺れたのが、カイウスには分かった気がした。
「ここに置いてくれないか?」
問いかけの形をとりながらも、その声には迷いはなかった。ノアの拒絶を受け入れる覚悟はできていたが、それでも、繋がりを求めてしまう。
ノアはすぐには答えなかった。ただ黙って、机の上をゆっくりと片付け始める。薬草を種類ごとにまとめ、器具を整然と並べる。その一つ一つの動きに、内面の動揺を隠そうとするかのような、微かなぎこちなさがあった。やがて、作業を終えると一つだけ呟く。
「好きにしろ」
明確な許可ではなかった。歓迎でも、諦めでもない。突き放すようでいて、しかし明確な拒絶とも言えない。
足枷のように彼をこの場所に留めた感情が、少しだけ形を得た瞬間だった。
その夜、カイウスは夢を見た。鮮烈な、過去の悪夢だ。血の匂い。絶叫。砕け散る仲間の剣。地面に散らばる亡骸の冷たさ。そして、その光景の中心で、まだ幼かったころの自分が、一人泣いている。
夢はいつも同じだった。助けられなかった無力感と、見捨ててしまった罪悪感。それは彼の存在の核を蝕む、癒えない傷だった。
激しい心臓の音と、全身を覆う汗で、カイウスは飛び起きた。呼吸が乱れ、まだ夢の残滓がまとわりつく。暗闇の中で、誰かの気配を感じた。
視線を巡らせると、自分のすぐそばに、ノアがいた。いつからそこにいたのか、全く気付かないほど、眠りこけていたらしい。月の光が僅かに差し込み、彼の輪郭をぼんやりと照らしている。
「……うなされていた」
ノアの声は静かで、感情を読ませない。
「ずっと見ていたのか?」
カイウスは僅かに狼狽した。自分の中にある最も弱い部分を、意識の外から見られていたのだ。
「耳が良いだけだ」
ノアはそう答えるが、彼の手に、小さなガラス瓶が握られているのが見えた。月の光に反射して、瓶の中の液体が鈍く光る。
「熱があるな。呼吸が詰まる音がしている」
彼はカイウスの額に触れようとはしなかったが、その声には確信があった。
「夢は、時に現実を蝕む」
この男もまた、毎夜、過去の悪夢に苛まれているのだろうか。言葉のひとつひとつが、酷く重たく感じる。
「お前も、そうなのか?」
問わずにはいられなかった。少しだけ奇妙な共感の理由が理解できた気がした。
「……そうだ」
ノアの返答は簡潔であったが、そのたった三文字に孤独と痛みが積み重なっているような気がした。
ノア。
その名を呼んだ時、カイウスの声は掠れていたかもしれない。もしかしたら、声にもならないような囁きだったかもしれない。
「……なんだ」
ノアが応じる声も、いつもより幾分か小さく聞こえた。
「なぜだかお前を、独りにしたくない」
衝動的に、だが真摯に、その言葉は口から漏れ出た。それは昨日の「執着」が形を得たものだった。カイウスの中で生まれた執着が、形を得てすとんと胸の内に落ちてきた。
ノアが一人で抱えるにはあまりにも重すぎる痛みを、孤独を、理解できずとも共有したかった。
ノアが息を詰めた。瞳が、暗闇の中で大きく揺れるのが見える。感情の波が、彼の氷のような平静さを乱しているのが分かった。
「お前は愚かだな、カイウス・フォン・レーヴェンハルト」
その言葉は、非難というよりは、困惑や、あるいは自分自身への戒めのように聞こえた。愚かだと分かっていても、ノアは自分の感情をよく理解していた。
「愚かでいい」
カイウスは真っ直ぐにノアを見つめ、言葉にした。
「愚かだとしても、俺はここにいたい」
廃城の深い闇の中、それぞれが抱える重い孤独が、静かに触れあい始めていた。それはまだ脆く、儚い繋がりだったが、確かな温かさを持って、二人の間に生まれつつあった。