幾度も日が沈み、登り、今日もまた地平線に名残を残して消えていくころ。
廃城の石壁には、昼間とは異なる影が色濃く落ち始める。
城の正門に据えられた錆びついた分厚い鉄扉が、突如として重く、そして、乾いた打音を響かせた。
カイウスは、反射的に腰の剣に手をやった。刃を鞘に収めたまま、廊下を駆け、音のする方角へと向かう。
彼の背後、壁際の深い陰影に、ノアがすっと身を溶かすように立つのを感じた。その薄い唇が、渇きとは異なる、鋭い警戒の色を滲ませて引き絞られるのが、暗がりの中でも見て取れた。
軋む音を立てて鉄扉を開くと、そこに立っていたのは、ランタンを掲げた一人の男だった。
深い焦げ茶の外套を纏い、その下には金の装飾が施された法衣が見える。胸元には、真鍮だろうか、太陽を象ったメダリオンが下げられていた。——厳しい修練を経て特定の使命を帯びた〈放浪司祭〉だけに許される証だ。
「夜分遅くの無礼をお許しください」
男は恭しく頭を下げたが、その声は柔らかな響きを持つ一方で、淀みがなく、場慣れした響きがあった。
「わたくしは聖都より参りました巡礼者、フィリップ・クレインと申します。長き“呪縛”に囚われし魂へ、安寧の灯を携え参じるため旅をしております」
フィリップと名乗った司祭の瞳は鋭い琥珀色だった。その眼差しには、人の内面や、言葉の裏に隠された虚実を見抜くかのような、徹底した修練の跡が伺える。柔和な態度と、まるで獲物を定めるかのような研ぎ澄まされた気配との間に、気味の悪い乖離があった。
カイウスは剣の柄に手を置いたまま、刀身をランタンの光に晒さぬよう注意しながら問いかける。
警戒を隠そうともしなかった。
この城の存在を知り、“呪縛”に言及する時点で、彼はただの巡礼者や迷い人ではない。
「“呪縛”を解く術を知ると噂の司祭がいるとは聞いていたが……その“救済”が何を指すのか、確かめたい」
フィリップは静かに微笑みを湛えたまま、片手を自身の胸元に当てた。
「拙僧の拙き務めは、ただ穢れを赦し、魂を休める“処置”を施すこと。それ以上でも以下でもございません」
「処置」——その言い回しに、壁際に控えていたノアの眉が僅かに動いた。古くから聖職者たちが使う隠語だ。〈呪縛を解く〉とは、吸血鬼やそれに類する存在の魂を清め、肉体を地へと還すこと。すなわち殺害を意味する。密やかな符丁であった。
知らぬ者には「魂の救済」や「安寧を与える」としか伝わらぬよう、意図的に曖昧にされている。
フィリップの言葉は、彼がその符丁を知っている、あるいは行使する者であることを示唆していた。
「失せろ、聖都の犬め」
ノアが、いつの間にか扉の近くまで無音で寄ってきていた。声は低く、威圧的だった。
ノアの言葉に、フィリップの琥珀色の瞳が一瞬だけ、微かに揺れたように見えた。しかしすぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「光は影を導くために在るものです」
皮肉とも取れる、しかし表面上は礼儀正しい返答だった。フィリップは一礼し、カイウスへ視線を移す。
「もしや、あなたは冒険騎士様では? 聖都にも貴方の噂は届いております。帰らずの森で消息を断ったと」
カイウスは眉をひそめた。聖都という遠い場所から、自分の存在が監視されているかのような言葉に、警戒心が募る。
「目的を訊こう。なぜこの城へ来た?」
「“呪縛”を解き、この地に巣食う穢れを払い、静寂を取り戻すこと。そして、聖堂の威光を人々に示すこと。それが私の使命です」
使命——その言葉が、ノアの逆鱗に触れたようだった。ノアの表情がさらに険しくなる。
「私と、我が祖の地を塵に還すことで、貴様は自らの威光を得るというのか。正義の名の下に、殺戮を肯定するのか」
フィリップは肩を竦め、懐から取り出した聖典を開いてみせた。そこには、聖句と共に複雑な魔術紋が入り混じった図が描かれている。
「“処置”には儀式が必要です。そして、儀に必要なのは“贄”——魂。そして僧正猊下の許可印。それさえ揃えば、“呪縛”は断たれ、魂は解放されるのです。私の話を理解できないのは、魂が穢れ人ならざる者と成り下がったせいでしょう」
その言葉の真の意味を悟り、ノアの身体が微かに、しかし顕著に震えた。フィリップの言葉は、罪なき人間の命が犠牲となることを意味していた。自分の命を奪うために、さらに別の命が奪われる。その二重の殺意を、この司祭は一切の悪びれた様子なく、涼しい顔で語っているのだ。
「カイウス、聞く必要はない」
ノアが鋭い声で、カイウスにだけ聞こえるように告げる。今すぐここからカイウスを引き離したいという焦燥が滲んでいた。
「光の名を借りた、魂の冒涜だ」
フィリップは、二人の間の緊迫をよそに、笑みを絶やさぬまま、言葉を続けた。
「《処刑》と聞こえるかもしれませんが、“処置”は慈悲でもあります。苦悶と飢渇に苛まれるこの世の闇から、魂を永遠に解き放つ——それを我らは“赦し”と呼ぶのです」
カイウスはフィリップの言葉が孕むおぞましさを、理解した。苦しみからノアを解放する手段として、無垢な第三者の命を贄とするという発想そのものが、彼の逆鱗に触れた。、彼自身の過去、見捨ててしまった者たち、そして自分の罪悪感をも同時に抉る行為だった。
カイウスの表情から、先ほどまでの警戒心が消え、代わりに、硬質な怒りが沸き上がった。その瞳の色が、温度を失った鋼のように冷たくなる。
「……赦し、だと?」
カイウスは、司祭に一歩踏み寄り、その声は低く、しかし抑えきれない激しい感情を孕んでいた。
「他者の絶望を踏み台にして、命を贄に捧げることを、貴様らは赦しと呼ぶのか。それは赦しではない! それは冒涜だ! 魂への、生命への、神への冒涜だ!」
フィリップの顔から、穏やかな微笑みが消え失せた。カイウスの剥き出しの怒りに、わずかに不快の色が浮かぶ。
「あなたの信仰は歪んでいる、剣士殿。魔に魅入られたのか」
フィリップは、声を低くして言い返した。馬鹿にしたような声色だった。
「黙れ!」
カイウスは叫んだ。その声は廃城の廊下に響き渡り、埃を震わせた。ノアの腕無意識のうちに剣の柄が強く握られる。
「貴様のような偽善者が、神の名を騙るな!」
カイウスは、衝動的にフィリップに詰め寄り、法衣の襟元を乱暴に掴んだ。外套の生地が、力任せに掴まれたことで軋む。
「出ていけ! 二度とこの城に近づくな。りの光も、歪んだ救済も、この地には必要ない!」
フィリップはよろめき、地面に腰を打ち付けた。ランタンを取り落としそうになり、慌てて持ち直す。その琥珀色の瞳に、もはや穏やかさはなく、代わりに侮蔑と、隠しきれない敵意が宿っていた。
「まさか、このような冒涜を受けるとは……! 貴様らのような存在が、我らの清めを拒むとはな! 神の敵、教えに背く不浄なる者どもめ!」
カイウスはフィリップの抵抗を許さず、そのまま引きずるように進んだ。ノアはただ、その光景を、息を呑んで見守っている。
「貴様こそ、聖職者の名を汚す不浄なる者だ!」
カイウスは、森との境界線までフィリップを引きずり出すと、掴んでいた襟元を突き放した。
「失せろ」
フィリップはら森の中と転がり落ちるように放り出された。暗闇の中にランタンの光が小さく揺れる。
「この冒涜者どもが! 悔い改めようとも、神の怒りはお前たちに降り注ぐだろう! 呪われろ! 呪われろ! 永劫の苦痛に苛まれ、誰からも忘れ去られ、光なき闇の中で朽ち果てろ! 神の敵め! 聖堂の報復は必ず来る! ……覚えていろ」
吐き捨てるように呪いの言葉を残し、フィリップは足早に城門から立ち去った。カイウスは、荒い息を吐きながら、背中を見送った。その手はまだ怒りで震えている。ノアは、静かにカイウスの傍らに寄り添っていた。
フィリップの姿が見えなくなったことを確認し、重い鉄扉を乱暴に閉めようとした、その瞬間だった。
城門の外の闇の中で、微かな金属音と、フィリップのものらしき短い悲鳴が響いた。
カイウスとノアは、同時にその音に意識を向けた。外の闇は、相変わらず何も見えない。しかし、確かに人のものではない気配が一瞬だけ立ち昇ったような気がした。
そして、沈黙が戻る。
フィリップが呪詛と共に去っていった道は、再び静寂に包まれた。
カイウスは、息を詰めて外の気配を探ったが、何も感じ取れない。ただ、得体の知れない不安だけが胸に広がる。鉄扉を完全に閉め、重い閂を下ろした。物理的な隔たりができたことで、ほんのわずかに安堵する。
室内に戻ると、ノアが静かにカイウスを見上げていた。
「……大丈夫か」
ノアが掠れた声で呟いた。彼自身、激しい応酬と、カイウスの激昂に当てられて、消耗しているようだった。
カイウスは荒い呼吸を整えながら、首を振った。自分の手が、まだ震えているのに気づく。
ノアに対するフィリップの言葉、贄という発想、それらが彼の内にある最も忌まわしい過去の記憶を呼び覚まし、制御不能な怒りとなって爆発したのだ。
「……悪かった、取り乱した」
ノアは、何も言わずにカイウスの手元を見た。まだ震えが収まらないカイウスの指先。ノアは、ゆっくりと、まるで壊れ物に触れるように、その指を、自らの冷たい指で包み込んだ。
「……私のためか」
ノアが、探るような声で尋ねた。それは、彼の孤独な生において、ほとんど経験したことのない種類の感情だった。
カイウスは、ノアの冷たい手を握り返した。その細い指の震えが、彼の内にある不安と恐怖を物語っている。フィリップの言葉が、ノアの心の最も弱い部分を抉ったことを、カイウスは知っていた。彼が恐れているのは、死そのものではない。存在の消滅、記憶の消滅、愛する母の面影すら失われる「忘却」だ。そしてフィリップの言葉は、まさにそれを強制的に作り出そうとしていたのだ。
「それだけじゃない。……だが、お前の苦しみをあんな風に踏みにじる奴を、許せなかった」
単なる正義感ではない。大いに私情やトラウマが乗っている。どこまでも人間らしい、グズグズした感情だった。
カイウスは、ノアの手を握る力を少しだけ強くした。
「誓おう。俺は簡単に生きることを捨てない。だからお前も、
カイウスは、ノアの冷たい手を自分の両手で包み込み、その額にそっと自身の額を寄せた。騎士が、主君に忠誠を誓う時のような、あるいは、深い共感を示す時のように。
それは、彼自身の「死を望んだ剣士」としての過去との訣別でもあった。ノアと共に生きる。ノアのために生きる。それが、カイウスがこの廃城で、見つけたものだった。
ノアの身体が、微かに震えた。それは寒さや恐怖ではなく、張りつめていた糸が緩み、感情が溢れ出す寸前のような震えだった。カイウスの額の温度と、包み込む手の温もりが、ノアの孤独を溶かしていく。
「……苦しいぞ」
ノアは掠れた声で呟く。永劫にも思える贖罪の道は、決して楽なものではない。
「今さらだ」
沈黙が、二人の間に流れる。それは先ほどの緊迫とは違う、互いの存在を感じ合う、柔らかい沈黙だった。
やがて、ノアが再び微かに声を漏らした。
「……傍に、いてくれるか」
「命ある限り」
その言葉は、かつて己の死場所を探していた剣士が、初めて見つけた、生きる理由への応えだった。ノアの手を包むカイウスの手の上に、割れた天窓からこぼれる月の光が降り注いだ。
同じ頃、廃城から遠ざかったフィリップ・クレインは、荒い息を吐きながら、夜道を急いでいた。あの剣士の激昂は、予想外だった。そして、あの吸血鬼。聖堂の教えでは説明できない異質さ。フィリップは、あの二人の存在が、自らの信仰と使命を根底から揺るがしかねない危険性を孕んでいると感じていた。
「忌々しい……神の光を拒む愚か者どもめ……必ず、聖堂の裁きを受けさせてやる……」
フィリップが憎々しげに呟きながら角を曲がろうとした、その時だった。
道の脇に立つ、深い影が、ぬるりと動き出した。それは、人型でありながら、異常なほどに細く、その輪郭は夜の闇に溶け込んでいるかのようだった。気配は全く感じられず、フィリップは気づかない。
影が、無音でフィリップの背後に迫る。
フィリップが振り返る間もなく、影の腕がフィリップの首に巻き付いた。
「ギャ……!?」
短い呻き声。ランタンの光が揺れ、地面に転がる。影はフィリップの身体をずるずると闇の中へ引きずり込んでいく。
フィリップ・クレインという司祭が存在した痕跡は、ただ地面に転がるランタンの鈍い光のみとなった。