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第6話、月下の渇望


 満ちきった月は、血と本能を呼び覚ます。


 廃城の西方、黒樫の森の最奥に取り残された放棄された村。かつて人々の営みがあったことを示す石組みの井戸は崩れ落ち、納屋の屋根は遥か昔に朽ち、家々の梁は風雨に晒され白骨のように軋んでいる。そんな瓦礫の中で、カイウスは乾燥した古い梁材の束を背に担ぎ上げた。ずしりとした重みが肩に食い込む。城の天井の雨漏りは日を追うごとに酷くなっており、特にカイウスが自らの寝床と定めた一角の真上が酷かった。


 数日前、彼はこの城の奇妙な主、古文書の山に埋もれる吸血鬼へ、何気ない問いを投げかけた。


『なぁ、ノア。城の奥の書庫脇を寝所にしても構わないか? あそこは壁も厚いし、暖炉も残ってるみたいだが』


 絹糸のような金の髪をほどきもせず頁を繰っていたノアは、視線すら手元の書物から上げずに淡々と答えた。


『好きにしろ』


 以前と一字一句違わぬ返答。だが、あの時よりもはるかに柔らかな口調だった。

    互いの過去には干渉しない。しかし、確実に「共に在る」ための距離感が、二人の間に漂っていた。

    ノアは錬金術の研究や魔術、吸血鬼の歴史を辿る古文書の読解に時間を費やす。

    カイウスは外に出て食料を確保し、城の崩壊を防ぐための簡単な修繕を行い、魔獣の襲撃に備える。

    言葉少なに過ぎる日々だったが、孤独を知る二人だけが分かり合える、安堵にも似た静けさがある。カイウスは城の修繕を請け負い、ノアは魔術によって城の防衛を引き受ける。

    嵐が過ぎ去った後の凪のような、脆くも穏やかな時間だった。


 広場の井戸でノアが描く魔術陣は淡い銀色の灯火を散らし、底に沈む腐泥を瞬く間に凍らせた。腐臭も瘴気もノアによって封じられ、周囲の空気が澄むのを感じる。

    月光のような魔力はノアの金色の髪を幻想的に照らし出し、息を呑むほど美しかったが、その代償としてノアの喉を焼き、より激しい渇きを強める。


「これで終わりだ。戻ろう」


 ノアは淡々と告げ、袖口で口元を隠した。魔力を行使したとき――特に満月の夜は牙が疼いた。それに抗うようにノアは城へと足を向ける。


 森道へ踏み込んで程なく、低い唸りが二人の耳に届いた。湿った土と枯葉の匂いに混じり、獣の臭いが風下から漂ってくる。

    背の低い薮の影に潜んでいたのは、魔獣〈グレイ・ハウンド〉。灰色の巨躯に、闇に浮かぶ金の瞳。地獄の猟犬と名高い厄災である。


 一体だけではない。複数の気配が蠢いていた。小さな葉ずれの音を立てながら、こちらに狙いを定めているようだった。

    一匹が低い唸り声と共に、より近くにいたカイウスへ躍りかかった。鋭い爪が剥き出しになり、乾いた音と共にカイウスの左肩が裂け、血が跳ねる。鋭い痛みが走り、鉄の匂いが強烈に鼻腔を衝いた。


「下がれ──ノア!」


 叫びと同時に長剣が閃き、体勢を崩した獣の喉笛を正確に貫いた。ぶつり、と硬い肉を断つ手応え。だが倒れ伏した獣の血臭が、カイウスの傷口から流れ出る血の匂いと混ざり合い、残った獣の飢えを煽った。


「ここは食い止めよう」


 抑えた声でノアが囁く。ほとんど同時に、彼の両掌から溢れた魔力が霧のように拡散し、獣を取り囲んだ。ノアが得意とする結界術だ。

     獣は耐えきれない悲鳴を上げて後退したものの、背後まで回った結界に触れ、焼け爛れた。


 この結界は、かつてノアが自らを吸血鬼に変えた存在を退けるために編み出した、闇に住む者たちにとって禁忌とも呼べる魔術だった。

 代償は、ノア自身の喉を刺す灼熱。結界を行使するたび、血を拒み続けた身体は「渇き」を報酬に突き返す。白い頬に微かな紅が差し、その瞳の赤が濃くなる。そして、わずかに速くなった呼吸音がカイウスの耳に届いた。


 獣は散った。悲鳴は森の奥へ遠ざかる。だが森に残るのは血と土の匂い。カイウスの肩口から滴る血が土へ落ち、その匂いがノアの理性を容赦なく揺さぶる。脳裏に直接、血を求める本能の叫びが響き渡る。全身が燃えるように熱く、喉が張り付いた。


「ノア……」


 カイウスが背負っていた木材を捨て、傷口を片手で押さえながらノアに近づく。ノアは背後の樹にぶつかるまで後退した。

    金色の髪が乱れ、紅い瞳は苦悶に濡れている。吸血鬼の本能が、目の前の獲物へ襲いかかろうと全身を駆り立てていた。


「カイウス、離れろ……」


 絞り出された声は、助けを求めるというよりは、必死の懇願だった。カイウスは躊躇わず自らの傷へ指を差し込み、そこから溢れた、温かい血を掬ってノアの唇へ押し当てる。


「俺の血で落ち着くなら、飲め。お前が苦しむくらいなら」


 鉄と塩と、堪え難いほど甘い――命の芳香がノアの喉を焼き尽くす。熱い血液が皮膚を通じてノアの冷たい指先へ伝わり、全身を痺れさせる。だが彼は顔を横に振り、顔を背けながら、涙混じりの嗚咽を漏らした。


「貴様、どう言うことかわかっているだろう?!」


 ノアにとって、人間の血を飲むことは、彼が自ら牙を立てて吸血鬼に変えた存在と同じになることだった。母への贖罪を捨てること。そして、何よりも、カイウスという人間と共に、この廃城で、人間としての感情を手放さずに生きることを諦めることだった。それは、ノアが死ねない運命の中で見出した、唯一の「生きていく意味」のはずだ。


「失わせない」


 カイウスの声はいつもより静かだった。血濡れの指先で、ノアの唇に残った血の軌跡をなぞる。


「俺の命は、あの夜お前に預けた。死場所を求めていた俺を、お前は生かした。俺はお前に囚われているんだ、ノア。死ねないお前という存在に、お前が背負う苦しみに、そして、お前と過ごすこの日々に……囚われている。だから、お前も、俺に囚われればいい。お前が、俺を手放せなくなるくらいに強く」


 囚われ――その響きが、ノアの胸の奥に張り詰めていた最後の鎖を軋ませた。血への渇きよりも、はるかに濃く、支配的な執着が、心臓の奥底で芽吹く音がした。

    カイウスという人間を決して手放したくないという、独占的で、しかし同時に、彼の孤独な永生にとって、何より強い救済となりうる、新たな渇望だった。


 頭の中で、忌まわしい吸血衝動が叫ぶ。しかし、それを押し留めるもう一つの声が、それ以上に強く響いた。《手放すな。お前を独りにしないと誓ったその手を。お前を愚かだと笑い、それでも隣にいようとするその人間を。彼との、あの城での、あの静かな日々を》

 ノアは、嗚咽を漏らした。震える手で、カイウスの血に汚れた頬を拭う。血はさらに広がるが、構わない。

    いつの間にか噛み切ってしまっていた唇を、カイウスの頬にそっと重ねた。血が交わるわけではない。ただ、痛みと、その場を、そして感情を共有するための、哀しい、痛ましくも強い口付け。


「私は……私のままで、隣に在りたい……」


 それが、血を拒み続けるノアの、唯一にして切実な願いだった。カイウスという人間と共に在ること。それが、彼が人間性を手放さないための、何より強い理由だった。


「俺が支える。お前が化け物になりそうになったら、俺が引き止める。どれだけ堕ちようとしても、俺がお前の魂を縫い留める」


 カイウスの言葉に、ノアは嗤うような、泣くような、判別のつかない乾いた声を出した。渇きは消えない。今も喉を刺し続ける。全身を掻き毟りたい衝動に駆られる。

    だが、牙はカイウスの首に喰らいつくことはなかった。代わりに、温かい胸に額を押し当て、の力強い鼓動を聞きながら、震える指でカイウスの外套を強く、強く握りしめた。

    この温かさだけが、今のノアにとって魂を繋ぎ止める唯一の鎖だった。それが、彼の新しい「意味」になろうとしていた。


 カイウスは剣を地面に落とし、血が滲む痛む左肩とは逆の腕で、ノアを抱え込む。傷口から血が尚も滲むが、不思議と痛みは遠くなった。

抱きしめたノアの身体の冷たさが、彼の体温との対比で鮮烈に、そして温かく感じられた。


「戻ろう。止血しなければ」


 ノアは小さく頷き、離れようとするが、全身の震えと脱力感で膝が震えて倒れかける。カイウスは咄嗟に肩にノアの体重を受け止め、ゆっくりと、慎重に歩を進めた。彼の傷口は、ノアを支える重みでさらに痛んだが、気にならなかった。ノアの存在が、彼の心を占めていた。

    失われた仲間たちへの罪悪感や、死への渇望は、すぐ傍にあるこの冷たい身体への、新しい「執着」へと確かに変容しているのだ。


 森を抜ければ、途切れ途切れな古い道が廃城へと伸びる。満月は雲の切れ間から時折顔を出し、二人の背中を追いかけるように白光を落としては隠れた。まるで、二人の行く末を、見守っているかのようだった。


 廃城の門を潜り、冷たい石の空気が二人を包んだ。崩れた階段をゆっくりと上がり、彼らの過ごす一室の扉を背中で押して閉めたところで、張り詰めていた緊張がようやく緩む。

ここは彼らの領域。彼らが共に在ることを選び、小さな生活を築き始めた場所だ。まるで布団の中に潜り込んだ子供のように、安心できる場所だ。


    カイウスが壁にもたれて椅子に腰を下ろし、血濡れの指先で傷口を押さえる。ノアが治療具を取ろうとするが、まだ身体の震えが止まらず、金属器具を床に取り落とした。乾いた音が部屋に響く。ノアの指先は、精密な錬金術の作業はできても、今は小さな器具一つまともに掴めないほど消耗していた。

 カイウスはそれを見て、小さく笑った。無理もない。ノアが耐え忍んだ苦痛は、想像を絶するものだっただろう。


「ノア。動かなくていい」


 そして、ノアの隣に座り込み、痛む左肩を自らの右手で器用に縫合し始めた。慣れた、しかし痛みを伴う手つきだった。


「ノア。お前といるこの場所が、俺の求める安息の地だ。望んで囚われているんだ。お前もまた、独りではない」


 孤独な永生を送る自分にとって、これが甘美なものであると、ノアは理解してしまった。

    血への渇きとは違う、しかしそれと同じくらい凶悪で、逃れがたい執着が、胸の奥で確かに芽吹いた音がした。

    カイウスという人間を、決して手放したくないという、独占的で、しかし同時に、何より強い救済となりうる、新たな渇望だった。

    この人間が、自分と共にこの場所を選び、自分に囚われることを望む。その事実に、ノアは抗いがたい安堵と喜びを感じていた。


 止血が済み、炎の絶えて冷え切っていた暖炉に薪を足す。火打ち石で火花を飛ばすと、炎が燃え上がり、赤く揺れ、壁に映し出された二人の影は、ゆるやかに寄り添い、やがて一つに重なった。その影を見ながら、ノアは静かに言った。


「私を信じるな、カイウス。この渇きは消えない。いつか、理性を失って牙を向けるかもしれない。血を求める獣に堕ちるかもしれない」


「いいや、信じるさ。お前が、牙を向けようと俺が受け止める。諦めろ、ノア。俺はしつこいんだ」


 カイウスの言葉に、ノアは嗤うような、泣くような、判別のつかない乾いた声を出した。渇きは消えない。今も喉を刺し続ける。しかし、それ以上に強く、すぐ傍にあるこの人間の存在が、ノアを彼自身に縫い留めていた。


 夜更け。魔獣の唸りは遥か遠くへ去り、砦の石壁は冷たく静まる。

窓の外、満月は再び分厚い雲に隠れ、漆黒の空が戻る。深い闇はかつて、カイウスに死を囁いた。


しかし今は違う。闇の中にもう一つの、温かい鼓動がある。ノアの冷たい身体が、僅かに熱を帯びてカイウスの体温を求めているのを感じた。


ノアは眠れず、渇きに抗う眉間の皺を隠すように、カイウスの胸に額を押し当てる。痛む喉と、脳裏に焼き付く血の匂い。しかし、それ以上に強く、すぐ傍にあるカイウスの存在を感じていた。


カイウスは目を閉じ、傷の疼きを数えながら、その冷えた額にそっと唇を置いた。痛みと、目の前の存在だけが、彼の現実だった。


 ――執着


それは愛を歪め、危険な形へと変質させる。同時に孤独な魂を深く結びつけ、救済をもたらす両刃の剣。

    失われた過去でもなく、呪われた現在でもない、二人で掴み取る未来への、確かな希望でもあった。


 その刃は二人を切り裂きもし、しかし、より強固に縫い合わせもしながら、同じ夜へと、運命へと導いていく。

 廃城の割れた窓を風が打つ。運命はまだ二人を試す気でいるのだろう。次に来る試練は、今夜よりも遥かに過酷なものかもしれない。

    だが今この瞬間、ノアの牙は引かれ、カイウスの血は、すぐ傍にある体温の中で静かに脈打つ。彼らの間に生まれた執着は、血の渇きよりも強く、そして、甘かった。


 月下の渇望――それは吸血鬼の本能であり、抗うべき呪い。

    だが、それは同時に、死場所を求めた人間と、死ねない吸血鬼が「共に生きる」意味を掴み取った証である。

    互いに囚われることを選び、彼らがこの廃城で、二人で生きていくという選択をより強く、揺るぎないものに変えた夜明けだった。

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