夜明けはまだ遥か東の靄の向こうに潜み、廃城の回廊を凍えさせる。
城の奥深くに位置する錬金室だけが、中央の暖炉に赤々と燃える残り火を抱き、橙色の温かい光で濃い薄闇を払い続けている。
薬草と古書の匂い、そして微かな煤の匂いが混じり合った、彼ら二人だけの空間。
カイウスは、昨日負った傷に意識をやりながらも、左肩を試すようにくるりと回した。縫い合わせたばかりの傷口には、じくじくと鈍い痛みが走る。
昨夜の魔獣との戦闘、そして、ノアとの間にあった時間。全てが現実だった証だ。
窓辺に凭れたノアは、まだ夜色を帯び明けきらぬ外の景色を見つめている。
その横顔には、満月の夜の激しい渇きと苦悶の余韻が刻まれているように見えた。
しばらくの沈黙の後、ノアが静かに問いかけた。
「肩は?」
カイウスは包帯の肩を軽く叩いた。
「痺れるだけだ。しばらくは剣を振るうのに不便するだろうが、命に別状はない。……それより、お前に話しておきたいことがある。聞いてくれるか」
カイウスは立ち上がり、薪火の上で温めていた薬湯を木椀にそそいだ。湯気と共に立ち上る薬草の匂いが、室内に満ちる。
隠し事をする必要はない。この男に、自分の全てを知られても構わないと、カイウスは思っていた。
ノアは小さく瞬き、窓から離れて静かに椅子を引いてカイウスと向き直り、じっとカイウスの瞳を見た。話せ、と言うことだろう。
カイウスが語り始めたのは、彼の人生を決定的に変えた、過去の出来事だった。
舞台は遥か北方に聳え立つ、凍てついた山脈。《ドラゴンの環》と呼ばれる、蒼鱗の飛竜・ヴァントラの縄張りだ。
その竜を討伐し、喉元に光る逆鱗を手に入れれば、一生遊んで暮らしても余るほどの財産が掴めるという。
その夢に魅せられ、王国中から集まった三十余名の精鋭たちによって結成された大所帯の冒険者チーム〈アイアンリリー〉。
戦士、魔術師、神官、斥候、射手……各々の分野で名を馳せた者たちが集まった、寄せ集めだった。当時十八歳だったカイウスは、剣の腕前と、血筋のよさ、それに伴う知識や教養で、そのチームの中心にいた。
「若かったんだ、ひどく。剣の腕に少し覚えがあり、酒場の武勇伝を鵜呑みにしたような連中をまとめるぐらい、容易いと思っていた。自分が他の誰よりも頭が切れると、人よりも優れているのだと……そう、思い込んでいた」
カイウスの声は淡々としていたが、その瞳の奥には深い自嘲と後悔の色が宿っていた。
彼が語る当時の自分は、ノアの知る、傷つき絶望したカイウスとは、まるで違う人間だった。傲慢で、自信過剰で、そして何よりも……生きることに飢えていた。名声に。富に。英雄になる物語に。
山脈へ分け入って第五夜、激しい吹雪が荒れ狂う中、突如として、空を裂いて竜が舞い降りた。
想像を絶する光景だった。蒼い鱗は狭まった視界の中でも輝き、巨大な翼は吹雪を操るかのように空気を切り裂く。雷鳴のような咆哮が山間に響き渡り、地を揺るがした。
初めて竜を間近に見た仲間の膝が、恐怖に震えるのが分かった。だがカイウスは、自分の中に湧き上がる恐れを振り払うため、そして仲間の動揺を鎮めるため、わざと大声で、不遜な命令を散らした。
『怯むな! 我々こそが竜を屠る英雄だ! 伝説になるんだ! 竜の宝は俺たちのものだぞ!』
魔術師が足場となる氷棚を築き、射手が巧みに竜を誘い込む。狭い谷へおびき寄せ、そこを袋小路にして集中攻撃をかける作戦だった。
若造が考えた、いかにも英雄譚らしい、詰めが甘い作戦。
吹雪に乗った竜の一撃は、そんな
巨大な氷塊が谷壁を直撃し、雪崩を引き起こす。退路は瞬く間に閉ざされた。
そこからは地獄だった。天を覆う竜の影、吹き荒れる吹雪、そして仲間たちの絶叫。
巨大な氷塊が降り注ぎ、人間の頭蓋を容易く砕く。竜炎が鎧を熔かし、肉を焦がす。白い雪原は、瞬く間に深紅に染まった。抵抗らしい抵抗もできず、ただ蹂躙されるだけの、一方的な殺戮だった。
「俺は、雪崩に巻き込まれて谷底に落ち、そこで意識をなくしたらしい。どれだけそうしていたのかは分からない……だが、目を覚ました時、吹雪は止み、竜は去っていた。奇跡的に片腕を折っただけで、生き延びたんだ」
カイウスは薬湯を一口飲み、その苦みが過去の痛みを和らげてくれるよう祈り、ぎゅっと眉間に皺を寄せながら目を閉じた。
「そして、仲間は……原形をとどめていなかった」
揺れる暖炉の炎に、谷底で見た、無残な仲間の姿が浮かぶ。顔の半分が砕け散った戦士と思われる者、焼け焦げて性別すら分からなくなった魔術師であろう人。かろうじて判別できた、額に花の刺青を入れた陽気な弓兵サーナ。他は誰が何なのか、
辺りを見回して絶望したカイウスの目に、最後に飛び込んだのは、幼なじみで、チームの副隊長格だったオズマ。
竜の習性なのか、復讐なのか、苦しみ抜いた表情のまま、見せしめのように氷柱で串刺しにされていた。
カイウスの脳裏には、彼ら一人ひとりの顔が、その光景と共に焼き付いている。
そして、暖炉の火には、もう一つの光景が重なった。
命からがら街に下り、僅かに回収できた遺品を抱えて帰った時のことだ。英雄譚を期待していた街の人々は、生き残ったただ一人の惨めな冒険者に、冷たい視線を向けた。
葬儀の列へ頭を垂れた時、向けられたのは悲しみだけではなかった。それを思い知ったのは、全員の家を回った時のこと。
「俺は遺品を抱えて街に下り、葬儀の列へ頭を垂れた。そして、その足で、チームの全員の家を回ったんだ。生き残った俺の義務だと思った」
親友だったオズマの家では、彼の若き妻、アマーリエが門前で待ち構えていた。冷たい雨が降りしきる中、カイウスの顔を見るなり、彼女はその場に崩れ落ち、石畳へ跪いて号泣した。その泣き声は、周囲の空気を震わせるほどの悲しみと、そして、激しい怒りに満ちていた。
やがて彼女は声を殺して唇を震わせ、立ち上がり、憎悪に燃える瞳でカイウスを睨みつけ、小さな拳で彼の頬を何度も打ち据えた。
『あなたが夫を殺したのよ! あなたが、英雄ごっこに彼を連れ出し、みんなを竜の餌にして……あなたさえ、あなたさえいなければ……!』
罵声は雨音にかき消されることもなく、カイウスの心に突き刺さった。彼女の絶望と怒りは収まらず、陶器の水差しが彼の頭上で割れ、冷たい水と鋭い破片が降り注いだ。
カイウスはただ、されるがまま、その全てを受け止めた。反論する言葉も、言い訳する気力もなかった。彼女の言葉が、あまりにも真実だったからだ。
別の仲間の家では、白髪の母親に泥水を浴びせられ、杖で追い払われた。幼い子供に石を投げつけられたこともあった。
「当然だ。あれは、俺の慢心と傲慢が招いた結果だ。仲間の安全を考えもせず、竜という存在を、英雄譚の敵役としか見ていなかった。自分が御伽噺の英雄になれると、そうなるべきだとしか思っていなかったんだ。俺が背負うべき、当然の罰なんだ。」
カイウスは視線を落とし、残った薬湯を飲み干す。そして、痛む左肩を庇うように、もう片方の拳を強く握り込んだ。包帯の白が、再び微かに血を滲ませた。
ノアは黙ってカイウスの話を聞いていた。彼の瞳は、暖炉の火を映して揺らめいていたが、その奥には深い共感の色が宿っているように見えた。ノアは立ち上がり、燃え残る薪を火掻きで崩して火を整える。パチパチと木が爆ぜる音が静かな室内に響く。金の髪が炎の橙色に染まり、ゆらゆらと影が形を変えた。
「――貴様の心は深く傷ついただろう。死ぬ場所を求めて、私の森へ来た。それまで、死ねなかったのか」
「……ああ。自ら死ぬ勇気も資格もなかったからな。楽に死ぬことは、俺の救済でしかない」
ノアは火から離れ、ゆっくりとカイウスへ振り返る。紅い瞳を細める。そこに宿るのは、カイウスの苦悩を、自分自身の苦悩と重ね合わせた、同情とも共感とも言えるような感情だった。
「私も、私自身の愚かさを……見捨ててしまった母の顔を思い出すたびに、灰になれる。何度でも。何度でもだ。だが死ねない。この呪いは、私に安息としての死を赦さない。だから、生き続けるしかない。……生きて贖うしかないのだ」
ノアの言葉が、カイウスの心の奥底に響いた。死ぬ資格がないから死ねない。生きる資格がなくとも、生きなければならない。
カイウスは唇を噛み、やがて息を吐いて、自嘲でもなく、諦念でもない、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだな。お前と同じだ。俺たちは、死に損なった分、生きて痛みを抱える。お前が血への渇きを抱えるように、俺は過去の罪の痛みを抱えればいい」
ノアはカイウスへ歩み寄り、膝を折って、彼の拳、そっと包んだ。そこから伝わる確かな温度と、微かな脈動を感じる。生ける者の熱だった。
「その痛みは、人である証。今も、心を失わず贖罪を続けている証だ。ならば私たちは、互いの痛みを、そして、互いの贖いを見届ける伴だ」
「伴……か」
カイウスは拳を解き、ノアの指を握り返す。細く冷たい指だが、そこにも確かに脈があった。
「お前と会えて、そして、お前にこの話をすることができて……少し、救われた気がする。仲間の墓前で、これからも生きていくと、ようやく言えそうだ」
「私もだ。カイウスの隣にいて初めて、この渇きよりも強いものを……」
言いかけて、ノアは言葉を濁した。血への渇望、母への想い、そして今、胸の奥で芽生えた、カイウスという人間に対する、まだ名を持つにはあまりにも脆く、しかし抗いがたい感情。執着であり、絆であり、あるいは、新しい希望と呼べる何か。
カイウスは微笑み、ノアの額にそっと自身の額を合わせた。
「いつか、お前のその『渇きより強いもの』の、名前を教えてくれ」
城のどこかにある柱時計が、重苦しい音で夜半を打った。ゴォン……ゴォン……と言う響きが、石壁に反響する。
窓の向こうで、分厚い雲が裂けて、満月が再び顔を覗かせた。蒼白い光は罅割れた硝子を通り、暖炉の橙色と混じり合い、二人の背中をそっと照らした。
壁に映る二つの影は、静かに寄り添い、やがて一つになった。
過去の痛みと現在の渇き、それぞれの贖罪を背負う二人の重さは、夜の冷気より重苦しい。だが、肩を寄せ合った刹那、影は闇に溶け合い、それぞれの孤独だった輪郭を失っていく。互いの存在が、魂を繋ぎ止める鎖となった。
満ちる月は今夜も高い。魅入られた魔物たちが、城の外で咆哮を上げているだろう。
死を望んだ剣士の過去は、死ねない吸血鬼の贖罪と重なり、一つの新しい『今』となる。
渇きと罪悪感。それは彼らを苛む呪いだが、同時に、互いを必要とする理由でもあった。
それは、安易な慰めではない。過去の傷は消えず、未来の試練は避けられない。だが、一人ではない。傍に、自分と同じように、痛みの中で生きることを選んだ者がいる。その事実だけが、凍てついた世界に微かな温もりを灯す。
月下の渇望は、まだ終わらない。過去の影も、二人の背後から消えることはないだろう。だが、その影が再び二人を闇へ引きずり込もうとする時、彼らを繋ぐ鎖は、今夜、確かに一段と強く結ばれたのだ。