雨霧に抱かれた廃城の夜半。月の光は分厚い雲に阻まれ、城壁の外では霧雨が静かに石を濡らしていた。
居室の暖炉にはまだ炎が赤々と燃え盛り、時折、火の粉を散らす。薬草と古書、そして煤の匂い。外観とは正反対に、暖かな空気が漏れていた。
ノアは、膝に古びた一冊の秘典を広げている。見るからに年代物のその本は、癖のある文字と魔術紋が記されており、ヴァランテ家の蔵書にあるような古いだけの本とは違う存在に見えた。
埃とカビ、そして古ぼけた紙の匂い。過去にノアが
燃え盛る炎に照らされた彼の横顔は、いつもより翳りを帯びて見えた。指先を薄い唇に当てたまま、時折、静かにカイウスを窺う。
ノアは知っていた。吸血鬼の本能的な渇きを制御するための、《誓血》と呼ばれる、儀式のことを。
古の吸血鬼が血の衝動を御するために用いたとされる、禁断の契りの術。
幼い頃にヴァランテ家の古文書で断片的に触れたことがあったが、具体的な手順や代償を知ったのは、自らを吸血鬼に変えた、あの忌まわしい存在からこの秘典を奪い取ってからだ。
この秘典には、血と魂を操る、おぞましくも強力な術がいくつも記されていた。
そして《誓血》も、その一つだった。
この術は、今までのノアにとって、遠い世界の、決して為し得ない絵空事だった。
孤独に、誰とも深く関わらず生きていく限り、その術は無意味だったのだ。
しかし、カイウスと出会い、彼の隣で日々を過ごすうちに、その術が、絵空事ではない現実味を帯びてきた。互いに「囚われる」ことを選んだ時、絵空事は選択肢へと変化した。
今なら――この渇きを、魂を、彼と「共有」し、この繋がりを絶対的なものにするという形で、孤独な永生に意味を与えることができるかもしれない。
「……カイウス」
低い囁き。火の揺れに合わせ、ノアの長髪が、その白い頬へ影を落とす。言葉を探すかのように、ノアの視線が秘典の上を彷徨った。
彼がこの術について、どれほど深く考え、躊躇ってきたかを物語っていた。
「血の衝動を……渇きを沈める術が、これに記されている」
ノアはそう切り出し、秘典を開いたまま、そこから顔を上げた。
「これは、私をこの身に変えた者から奪ったものだ」
カイウスは静かにノアを見ていた。彼の言葉一つ一つを逃すまいと、注意深く耳を傾ける。
「《誓血》という古の契りだ。私とカイウス……互いの血を飲ませ合うことで、お互いを縛る術だ」
ノアは頁をめくり、そこに記された複雑な魔術紋と、赤黒いインクで書かれた文字を指でなぞった。
声には期待よりも、深い憂慮が滲んでいる。術の恐ろしさ、そして、その術がカイウスにもたらすであろう影響。
「だが、付随条件がある。それは、私が……お前の血を継続的に飲み続けなければ、その効力が保たれない、ということだ。ほんの僅かでもいい。それでも、定期的に、お前の血を……体内に取り込み続けなければならない」
ノアはそこで言葉を切った。飲み続けること。それはつまり、二度と離れられないことを意味する。
「もし、この契りを結んだ後に互いが遠く離れてしまえば、渇きは大きくなり私を苦しめるだろう。もしかしたら、お前にも影響があるかもしれない。魂そのものが耐えがたい苦痛の果てに二人は引き裂かれる、と……秘典はそう警告している」
ノアの声には微かな震えがあった。彼がどれほどこの契りを求めているか、そして、どれほどそれを恐れているかを物語っていた。
このままノアが渇望に負け、カイウスの血を啜り闇に落ちて、本能のままに人を喰らうようにならないとは限らない。そのことが、ノアには恐ろしかった。
ノアがどう考えようと、互いに執着を感じているような相手を利用することに違いはない。だからこそ、迷い、次の言葉を告げることを悩んでいた。
「迷うな、ノア」
カイウスは立ち上がり、秘典を抱えたまま膝をついているノアの前へ歩み寄り、彼と同じように膝をついた。
視線が絡み合う。その深く蒼い瞳には、迷いも、恐れもない。ただ、ノアへの揺るぎない信頼と、愛情が宿っていた。
「お前が俺と出会い、初めて可能性を感じていること。ノア、俺にはそれが嬉しく思える。お前の寂しさも辛さも、埋めてやれる」
「カイウス……」
ノアの頬が微かに朱に染まる。カイウスの言葉は、ノア自身も意識していなかった、心の奥底の願いを見透かすかのようだった。孤独な永生。血への渇き。それはノアにとって贖罪であり、己に課した罰でしかなかった。
しかし、カイウスと共に過ごす日々は温もりを与え、意味を与えた。
《誓血》は、初めて得た繋がりを永遠にする可能性を秘めている。恐ろしく、そして重く、それであって甘美な魅力を感じていた。
「気づかなかったのか、ノア。俺がどんな目をしてお前を求めてきたかを」
低く押さえられたカイウスの声は、暖炉の炭火のように熱い響きを持っていた。
ノアは息を呑む。瞳の中に、互いの姿が映る。必死に血を拒み、孤独に耐えていた、かつての己の影が揺らめいている。
カイウスは腰から短剣を抜き、その刃を暖炉の炎にかざした。研ぎ澄まされた鉄が、炎を映して朱に染まる。
「己の血で相手を縛る契り……お前には、どう見える? 俺には、たまらなく魅力的な楔に思える」
カイウスはそう問いかけ、刃を軽く引いて自身の指先を裂いた。肌が割れ、ぷくりと膨らんだ血の珠が、じわりと溢れる。熱い赤が滴となり、石床へ一滴、ぽたりと落ちた。
ノアの白い手が、これ以上血の滴を零すまいと咄嗟に差し出された。
指先が、カイウスの傷ついた指先に触れる。体温が違う。カイウスの体温は高く、ノアの指先は氷のように冷たい。ノアの喉がひくりと震え、牙が、その薄い唇の内側をかすった。
再びノアの全身に、乾きが駆け巡る。
「渇くだろう、ノア」
カイウスは命じなかった。代わりに、熱を含んだ囁きで、ノアの手の中で血を湛えた自身の指先を、ノアの口許へとゆっくり傾けた。触れ合う距離。ノアは抗えず、零れ落ちる血に舌を這わせた。
熱い血が口内に広がり、舌先が傷口を、指の腹を優しく撫でる。
わずかな量だけを口に含み、ノアは離れた。紅い瞳は潤み、その白い頬は熱を帯びているように見えた。
「……お前はずるい」
それは苦痛とは違う、全く新しい感覚だった。命を求める本能が、甘美な歓喜に姿を変えたかのようだ。そして、それは、ノアが知っていた《誓血》の効果の第一段階だった。血を飲むことで、相手の魂との共鳴が始まる。
「俺にも飲ませてくれ」
カイウスは血が滲む指を差し出したまま、ノアに乞うた。ノアはしばらく躊躇したが、やがて意を決したように秘典を閉じて、カイウスの短剣をとり、自身の細い指先を浅く切った。露のような紅が珠になり、ゆっくりと、カイウスの唇へ落ちる。
カイウスの舌がノアの血に触れた瞬間、焼けるような甘さが脳裏を走り、心臓が一拍跳ねた。血の甘さ、そして、ノアの渇きの一端が、カイウスの血管に流れ込んだかのように感じられる。
魂の奥底が痺れるような感覚だった。ノアの喉が同時に反応し、二人の呼吸が、微かに上ずった。互いの心臓が、共鳴するように脈打っているかのようだ。
「契りの文様を……描こう」
ノアは震える手で新しい羊皮紙を開き、小さな瓶を取り出す。彼はそのインクで、羊皮紙の上に円環を編むように複雑な魔術紋を描き始めた。
線は細く、妖しくうねり、燃え盛る炎の照り返しが朱から紫、そして銀へと変わる。古の力が、この狭い空間に満ちていくのを感じると同時に、羊皮紙が微かに震え、魔力が収束していった。
文様が完成すると、ノアはカイウスの傷口から血を一滴、自身の指先から血を一滴、それぞれの位置に垂らす。
二つの紅い滴が、文様の中に静かに飲み込まれていく。
文様が銀色の光を帯びた瞬間、室内の空気が震え、暖炉の火が一段と高く燃え上がった。
契りが力を帯び始めた証だった。
ノアは羊皮紙を火から遠ざけ、両手で抱きかかえるように持つ。そして、カイウスとまっすぐ向き合った。紅い瞳が、カイウスの蒼い瞳を捉える。
その瞳には決意と、そして、愛が宿っていた。神への誓いなどではない。これは、孤独を分かち合い、互いに見出した二人のための誓いだ。
「カイウス・フォン・レーヴェンハルト」
ノアの声は、儀式の始まりを告げるかのように静かで、しかし凛としていた。孤独な生の中で、初めて交わす、心からの誓いの言葉だった。
「お前は、死場所を求めてこの森へ迷い込んだ。しかし、私の隣で、生きることを選び、共に日々を過ごしてくれた。私の渇きと苦痛を知り、私の孤独を知り、私の全てを受け入れた」
ノアは、感情が溢れそうになるのを、必死に堪えながら紡いだ。過去の苦悩、そして、カイウスと共に在ることで得た安息。その全てを込めて。
「私、ノア・アレクサンドル・ヴァランテは、私自身に誓おう。この契りを結ぶことで、私の身を焦がす渇きの一端を貴方と共有する。私の命は呪われ、血を求め続ける。しかし私は、お前の血によって生かされることを受け入れ、この呪われた命を、お前の命と共に繋ぐ。お前が私の楔となるように、私もお前の楔となろう」
ノアの言葉が終わると、カイウスは深く頷いた。彼の瞳には、迷いも、恐れもない。ただ、深い愛を持って僅かに微笑んだ。
「ノア・アレクサンドル・ヴァランテ」
カイウスの声は、ノアと同じく静かで、しかし力強かった。廃城の石壁に響くその声は、二人の決意を証明するかのように厳かだった。
「俺は、過去の罪に囚われ、死に場所を求めていた。しかし、お前の隣で、生きる意味を見つけた。お前の苦痛を知り、お前の孤独を知り、お前が守ろうとする尊厳を知った。そして、お前に囚われることこそが、俺の求める安息だと知った」
カイウスは、ノアがかつて口にした言葉を借りるように続けた。それは、彼自身の魂の叫びだった。
「俺は、お前に囚われることを誓おう。お前の血を飲み、お前の魂を縛る枷となろう。お前が血に狂いそうになった時は、この枷が引き止める。お前が孤独に囚われそうになった時は、この絆で繋ぎ止める。お前が俺を必要とする限り、俺は生き、お前の隣にいることを、俺の全てをもって、ここに誓う」
互いの誓いの言葉が、室内の空気を震わせた。言葉の響きが、魔術紋の描かれた羊皮紙に吸い込まれていき、微かな光を灯した。そして、誓いの言葉を終えた二人の胸骨の裏側から、再び、しかし今度はより強く、鼓動が全身に血を巡らせる。
心地よい、しかし抗いがたい恍惚だった。ノアは息を詰め、カイウスは喉奥で歓声を噛み殺す。
孤独な魂が、ついに寄り添うべき場所を見つけた、根源的な喜び。
魔術紋を描かれた羊皮紙は音もなく崩れ灰となり、そこには何もなかったかのように、小さなザラつきだけを残して消えた。
暖炉の火が一柱、高く燃え上がった。祝福の炎。あるいは、禁忌への嘲笑。どちらでも良い。
「……完了だ」
ノアは掠れた声で呟いた。その声には、脱力感と期待が滲んでいた。
「これで私は……カイウスの血を永遠に欲する。そしてお前は……私の渇きを、半分背負うことになる」
「光栄だ、ノア」
カイウスは、膝をついたままのノアの腰を手繰り寄せ、自身の膝上へ引き落とした。ノアの細く冷たい身体が、服越しにカイウスの太腿に触れる。
ノアの紅い瞳がカイウスを見上げ、薄く唇を開いた。
「まだ……渇きが静まらない」
「なら、朝まで付き合うさ」
カイウスは、ノアが咥えやすいように、自身の指を目の前に差し出した。
ノアの血色が悪い唇が、傷口に吸い付くように触れる。舌先が傷口を啜るたび、カイウスからは言葉ではなく、吐息のみが零れた。
渇きと罪と執着と、そして、この上なく甘美な快楽が混ざり合った、不思議な感覚だった。
魂が交じり合い、溶け合うような感覚。痛彼らが選んだ、そして彼らだけに許された、冒涜的な愛の形だった。
焚き火の香りが色を深め、石壁の影が交わって一つに溶けた。禁断の契りは官能へ姿を変え、互いを求め合う快楽へと転じる。神に見捨てられた者たちだけが許される、冒涜的で、しかしこの上なく純粋な、二人のための婚姻の儀式だった。
血と魂を混ぜ合わせ、互いへの誓いを交わすことで、二人は世界から隔絶された、彼らだけの箱庭を完成させたのだ。
外では雨霧が静かに途切れ、東雲がうっすらと灰色の空を溶かし始める。新しい朝が訪れようとしていた。
神が背を向けるなら、それで良い。世界が我々を呪うなら、それも良い。
箱庭の外で燃える小さな天国――そこにいるのは、禁断の血を分け合い、誓いの言葉を交わし、名前のない、しかしこの上なく甘い渇望で互いを貪り合う、たった二つの心臓。
始まりでも、終わりでもない。ただ、彼らが共にある、永遠の『今』だった。