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第9話 、来訪者




    未明。夜と朝の境界は曖昧で、深淵のような闇が緩やかに薄れ、世界は冷たい青灰色に染まり始めていた。

    廃城の外壁を包んでいた雨霧は薄く裂け、瓦礫のあいだから冷たい土と草の匂いを孕んだ靄が、じわりと滲み出ている。

 本来なら、この夜と朝の継ぎ目には、世界の息遣いが止まるような、一種の静寂が訪れるはずだった。

    しかしその朝、沈黙は異様に重く、湿気を吸った石畳を踏む自身の足音すら、霧に呑み込まれて消えてしまうかのような、不気味な圧迫感があった。


 城門前で見つかった違和感。それは、地面に横たわる“遺体”という形で、目の前に現れた。

    雨に濡れそぼるその姿に、カイウス・フォン・レーヴェンハルトは眉をひそめた。つい先日、見た事のある顔だ。以前は純白であったはずの法衣と、外套を纏っている。


 遺骸は、聖堂巡礼者フィリップ・クレイン。つい先日、この城門前で、を口にした男だ。横たわる身体に、激しい争いを示すような外傷は少ない。昨日の雨のせいだろうか、全身泥にまみれていた。

 フィリップの胸骨の真上——心臓の位置だけが、異様な形で潰れていた。服をはだけて見れば、まるで黒い花弁を重ね合わせたかのような、奇妙な焼印が残っている。

    水分を奪われ炭化した皮膚は、黒薔薇の花芯のように縮れている。質の悪い蝋のような死の匂いが、雨上がりの空気の中で際立っていた。


 カイウスは遺体を検めながら、背中に冷えた汗を感じていた。昨夜結んだ《誓血》の契りが、胸骨の裏側で鈍く疼く。左掌の傷も呼応するように脈打った。

 遅れて、足音もなくノアが姿を現し、遺骸を一目見た途端、ぴたりと足を止めた。

    唇がわずかに開き、その瞳の奥に、一瞬で深い影が射す。彼の纏う冷たい空気が、さらに数度下がったように感じられた。


「……


 その呟きは、声というよりも、肺の奥から絞り出された吐息に近かった。恐怖とも、絶望ともつかない感情を含んでいた。


「知っているのか? 」


 問いかけるカイウスの声は低い。獣が警戒するような、本能的なものであった。

    ノアは眉間に皺を寄せ、こめかみに浮いた細い血脈を、指先でなぞった。そして、一つ、深く息を吐いてから、絞り出すように答えた。


「私を……吸血鬼に堕とした“創造主”シルヴィオ。彼が眷属に刻む、支配と所有の印だ。……黒薔薇紋、と呼ばれる」


 肺の奥までも凍りつくような名だった。カイウスは、ただ身体の奥底でじわりと生まれる、怒りと嫌悪の混ざり合った感情を飲み込んだ。

    フィリップという男個人には何の感情もない。しかし、その男の胸に刻まれた印、そしてその印が意味するもの——それがカイウスの逆鱗に触れたのだ。


 フィリップがどういう経緯でこの廃城の城門前へ運び込まれたのかは不明だ。自らの足で戻ろうとしたのか。それとも、誰かに運ばれたのか。しかし、あの黒薔薇紋が物語る送り主。そして、死体が二人の城門へ、まるで貢物のように置かれているという状況は、明らかな挑発だ。

「見ているぞ」という、静かで、しかし決定的なメッセージだ。

 遺体を持ち上げると、驚くほど軽かった。全身の血が完全に抜き取られているかのようだ。しかし、喉元に牙の痕はない。代わりに、胸の焼印から薔薇の香に似た、甘く、しかしどこか不気味な匂いがかすかに漂っていた


「いけすかない奴だったが、遺骸は地下礼拝堂へ運び、安置しよう。これではあまりにも惨い」


 カイウスが言うと、ノアは小さく頷いた。いつもより反応が鈍いのは、過去の忌まわしい記憶が、黒薔薇紋によって鮮やかに呼び覚まされているのだろう。


 ノアが、無理やり視線を引き剥がし、被りを振った瞬間だった。


    結ばれたばかりの《誓血》の枷が、二人の胸で同時に、きつく締め付けられた。針で内側を刺されるような鋭い痛み。ノアが苦悶に顔を歪め、膝を折りかける。カイウスは遺骸を置き、ノアへ駆け寄る。


「ノア!    しっかりしろ!」


「……!」


 ノアが胸を押さえる。カイウスの心臓も同じ痛みに波打ち、魂が引き合わされるかのような感覚に襲われたが、それは数呼吸の内に治まった。ノアほどの苦痛ではなかったようだ。誓血によって、ノアの渇きの一端は共有されているが、ノアの魂に直接刻まれた呪いが原因なのだろう。


 異変の源を辿るかのように視線を巡らせると、廃城で最も高い南塔の尖端に、不自然な光が揺れているのが見えた。世界から音が消える。

    長く、はためく銀髪。外套の裾が風にひるがえり、白磁のように冷たい顔がこちらを見て笑っていた。瞬きをした瞬間男は消え、世界に音が戻ってきた。

シルヴィオ——死んだはずのあの男本人なのか。

確信はない。しかし、そんな気がしてならないのだ。




 地下礼拝堂の床は冷たく、湿っていた。祭壇を囲むように立てられた蝋燭の炎は、地下の湿気を含んで淡く揺らめく。フィリップの遺体を冷たい大理石の台座へ横たえ、少し休み回復したノアは、傍らに跪いて薄く目を閉じた。

 彼が祈る対象など存在しないはずだが、その姿は何かを鎮めるかのような、あるいは赦しを請うかのように見える。


「ノア、これはやはり奴の仕業か?」


 カイウス遺体の胸に咲いた黒薔薇を見た。皮膚は炭化して硬い。生命を糧とする吸血鬼の殺し方ではなかった。生きるためではなく、本能でもなく、純粋な悪意と二人へのメッセージが見て取れる。


「ああ、そうだろう。生きていたのか……」


 ノアが静かに呟く。


「俺を追い出そうと?」


「……あるいは、『私の元に戻れ』かもしれない」


 ノアは蒼褪めた指先で、フィリップの開いたままの瞼をゆっくりと閉じた。フィリップは最後まで、自らの信仰を胸に、救済を口にしながら生きた男だった。その胸を、神の敵である吸血鬼の『所有の印』である黒薔薇で焼かれたのは、その信仰に対する何よりの侮辱だ。シルヴィオは、人の最も大切なものを踏みにじることに喜びを見出す。

 蝋燭の灯がゆらりと揺れ、耳鳴りのような静寂が焼き付く。カイウスはそっとノアの肩に触れた。


「大丈夫か、ノア」


「わからない……」


 ノアは小さく首を振った。


「……だが、おそろしい」


 ノアの声は、あの満月の夜に見せた渇きに苦しむ声とも違い、幼子のように震えていた。カイウスは、胸を締め付けられるような痛みを感じた。それは誓血の反応か、あるいはノア自身の痛みか。

 カイウスはノアを抱き込むように腕を回した。


「俺たち二人で半分ずつ持てる。一人で抱え込む必要はない」


「本当か?」


 ノアはカイウスの胸に額を押し当て、震える声で尋ねた。


「背負うさ。……正直、俺も恐ろしい。だが、一人ではない。俺は孤独が一番恐ろしいんだ」


 カイウスの言葉の終わりと同時に、礼拝堂の上方、分厚い石天井が小さく軋んだ。遠雷ではない。石の壁を、靴底が擦れる乾いた音が連続して聞こえ、やがて、何かに乗り越えたかのように途切れる。南塔だ。間違いなく、誰かが塔の外壁を登った音だ。

 ノアはカイウスの腕の中から顔を上げた。紅い瞳に浮かぶのは、恐怖だけではない。


「来るぞ……」


「迎え討とう」


 夜が明けきる前、南塔の尖端へカイウスとノアは並び立った。雨霧は晴れ、低い雲間から、沈みそこねた満月が、夜を惜しむかのように銀色の光を垂らしている。冷たい風が吹き付け、外套を煽る。誰もいない——はずだった。

 が、塔の石縁、二人の立つ場所からそう遠くない一角に、奇妙なものが置かれていた。一輪の薔薇だ。フィリップの胸に刻まれたような黒ではない。鮮やかな真紅。花弁はまだ朝露に濡れて艶やかで、生命力に満ちている。その茎は鋭い棘に覆われており、その棘の一つに、小さく折りたたまれた紙片が括られていた。

 カイウスが紙片を手に取る。紙には香油の匂い。甘く、人を惑わせるような香り。シルヴィオの趣味だろう。紙を開くと、優雅な、しかし冷たい筆跡で文字が記されていた。



月下の戯れを嗜むお二人へ。


まずは婚姻に対して、祝辞を贈りたい。

しかし、残念ながら成功とは言えないようだ。

私の呪いはいつか魂を喰らい尽くすぞ。

朔の夜、“薔薇の回廊”へ訪れ給え。                      —S.


 短い手紙。しかし、その内容は挑発に満ちている。廃城という彼らの聖域から引きずり出し、自身の用意した舞台へ誘う。朔の夜。月が完全に姿を隠す。あえて、吸血鬼の力が弱まる時を指定している。


「罠だな」

「……ああ」


 ノアが小さく頷く。分かり切ったことだ。しかし、これを無視するという選択肢は、二人にはない。二人の安寧のため、そして、この廃城という彼らのささやかな聖域に土足で踏み込んできたことへの反抗。


「行くしかない」


 カイウスはそう呟き、手の中の真紅の薔薇を、力強く握り潰した。鋭い棘が容赦なく掌に食い込み、淡い香が冷たい風に散った。潰れた花弁が霧に舞い、東雲が空に曙の灰を滲ませ始めた。




◆◆◆




 空には月の欠片すら浮かばず、世界はどこまでも深い夜に沈んでいた。城壁の高窓に灯る燭火は、夜の深まりと共にひとつ、またひとつと消えていった。残るは、冷たい風が古い石を這う音ばかり。

 カイウスは、城の一角にある鍛冶場跡で、一人剣に砥石を走らせていた。冷たい金属が擦れる音が、彼の意識を一点に縫い留める。

     手の感覚だけに集中し、愛剣を研ぎ澄ましていく。そこに映る蒼い目が、迷いなく一点を見据えているのが分かった。その奥で燃えるのは、過去への怒りでも、未来への不安でもない。来るべきものを受け入れる覚悟——ただそれだけだった。


 一方、城の深奥、地下礼拝堂の奥。ノアは、冷たい大理石の台座に横たわるフィリップの棺を覆う白布の前に膝をついていた。

    フィリップの胸に刻まれた黒薔薇の刻印へ、血色の失せた指をかざす。触れれば焼かれる、と知識としては理解している。

    しかし、その指は微かに震えながらも、止まることはなかった。指先から微かな月瘴の魔力を流し込み、遺骸の腐敗を遅らせる簡易的な封印を施す。気休めに過ぎないかもしれないが、シルヴィオの冒涜を、せめてこの場所でだけは拒絶するための、ノアなりの配慮だった。


「安らぎを求めてここへ来たわけではないだろうが……」


 誰に宛てたでもないノアの言葉は、廃城の冷たい空気に吸い込まれていく。誰にも届かない、彼自身の心を鎮めるための言葉だ。

    やがて立ち上がり、迷いや恐怖を振り払うように外套を翻した。準備はできたのだ。




 深夜二刻。塔の側壁を擦る音が廃城の空気を凍り付かせた。風が門を揺らす音でも、革靴が石畳を叩く音でもない。硬い爪が、岩肌を軽やかに、しかし確実に撫でる音。シルヴィオが、塔を登ってくるのだ。


 カイウスは研ぎ終えた剣の切っ先を下げる。鋼の冷たさが掌に馴染む。彼は躊躇なく、塔への階段を駆け上がった。同時刻、礼拝堂から上がってきたノアもまた、別の道を使って塔頂へ向かう。

    誓血の楔が二人の心を強く震わせた。互いの心臓の鼓動が、楔を通じて重なり合う。

    恐れと、高揚と、そして確かな繋がり。一人ではない。

 塔頂の露台は、新月前夜の夜気にさらされていた。風が吹き抜け、外套が煽られる。

   灯りも届かぬ完全な闇の中、中央の石盤——かつて天文観測に使われただろう羅針盤の上に、一人の男が佇んでいた。ロングコートの襟を立て、その顔は月光もないのに白く浮き上がっている。

    薄い紅唇だけが異様な艶を帯び、歳若い少年のような微笑みは滴る蜜より甘く、同時に猛毒のような艶を帯びていた。

    闇そのものが形を得たかのような、おぞましい美しさ。ノアの“創造主”、シルヴィオ。 


「再会を祝おう、ノア。可憐な薔薇は、創造主の下へ帰る時だ」


 鈴の音にも似た、しかし魂を凍らせるような冷たい声が、鮮烈に鼓膜貫いた。ノアは息を呑む。数百年の時を経ても変わらぬ姿——否、血を拒み苦悩を重ねたノアとは対照的に、彼はその歪んだ存在をさらに洗練させたかのように見えた。妖しいほど完璧な美がそこに在った。


「……お前がやったのか、フィリップを」


 ノアが絞り出すように問うた。シルヴィオは肩を竦める。


「ああ、あの男かい?     名前は忘れた。信仰がどうとか、騒がしく喚いていたが……」


 シルヴィオは興味なさげに指先で空を撫で、楽しげに笑った。


「あまりにも不快な響きだった。だから、消したくなった。ただそれだけさ」


 カイウスは一歩、シルヴィオへ踏み出した。剣を抜かず、ただ真っ直ぐに睨む蒼い瞳に、鋭い険が宿る。内に秘めた怒りを、全てその視線に込めていた。


「話を聞く気はない。首を差し出せ」


 シルヴィオは侮蔑するように笑みを深めた。そして、掌を開いた。風が渦巻き、無数の薔薇の花弁がどこからともなく舞い上がる。真紅、黒、紫……無数の花弁は宙で見る間に血の色へ変わり、瞬く間に塔頂の空間を染めた。赤い雨が降るかのような錯覚。カイウスの視界がぐらりと揺らぎ、塔頂の石盤が、かつて仲間が散った氷の谷へと変わる——。


 竜の咆哮が響き、全身の血が凍ったようだった。竜炎の熱。血飛沫。砕け散る仲間の悲鳴。死体が雪へ落ち、白が深紅に染まる。そして、親友オズマの無惨な死に顔——。あの悪夢が、五感全てを伴って鮮やかに蘇る。脳髄を直接掻き回されるような、耐え難い惨劇の追体験に、カイウスは剣を取り落とし、その場に膝を突いた。血の味が口内に広がる。


 同時に、ノアの喉を熱い苦痛が貫いた。同じ悪夢を共有し、カイウスの精神を蝕む幻景が、ノアの視界にも容赦なく侵入する。

    凍てついた谷、血と屍。そして、塔頂にはいないはずの竜の影が迫る。竜がノアへ振り向いた。      歪んだ、しかし甘い笑みを浮かべたシルヴィオの顔が、竜の顔に重なる。赤い舌が、ノア自身の名を、嘲るように囁く——。


「……やめろォ!」


 ノアが悲鳴をあげた。内臓が引き裂かれるかのような、胸を裂く衝撃で意識が白む。シルヴィオが、誓血を、魂の繋がりを逆手に取り、カイウスの悪夢を利用してノアを攻撃しているのだ。魂そのものを揺さぶられる苦痛。しかし、意識が途切れる寸前、後ろで、誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえた。氷原に響く低い、しかし確かな呼び声——カイウスだ。


    ノアはその声の方へ、震える手を伸ばす。

 現実の塔頂。カイウスは血を吐きながらも、必死に片腕をのばし、ノアの指先を掴んでいた。互いの名を、必死に呼び合う。その声が、魂の楔を通じて響き渡った。それだけで、シルヴィオが作り出した幻景がひび割れ、氷が砕ける音とともに、戦場は夜の塔頂へと引き戻された。舞っていた血の雨は霧散し、足元に赤い花弁だけが現実のものとして残る。


「ほう……強いな。まさか打ち破るとは」


 シルヴィオは感嘆を装い、両腕を広げた。その歪んだ興味の視線が、二人の間を繋ぐ見えない鎖に向けられている。


「褒美をやろう。ノア、可憐な薔薇。私のもとへ戻るなら、今すぐその渇きも、その苦痛も、全て終わらせてあげよう」


 ノアは震える膝で立ち上がった。カイウスに支えられながらも、その紅い瞳はシルヴィオを真っ直ぐに睨み返す。


「私は……二度とお前の玩具にはならない!」


「玩具? 違うよ、ノア。私は君を愛しているんだ。私が飽きるまで、壊れるまで離す気はない」


 次の瞬間、シルヴィオの背後から、黒薔薇の蔓がうねりながら溢れ出した。カイウスは咄嗟に剣を構え、迫る蔓を弾く。

    二人は背中合わせに構えた。痛みはまだ残るが、一人ではないと考えれば立ち向かえる気がした。


「……カイウス」


 それが合図になった。

    カイウスは地面を蹴って跳び込み、迫りくる蔓を袈裟に薙ぐ。剣と蔓が激突し、血と同じ色の樹液を撒き散らしながら蔓を断ち切る。断たれた蔓は灰になって崩れた。

    ノアは月瘴を編み、銀色の障壁で次の蔓を灰にした。

 しかしシルヴィオは、一連の攻防を眺めながら、飽きたように笑った。


「諦めが悪いやつらだ。では、これはどうかな?」


 彼が指を鳴らすと、塔の石積みが、足元から、薔薇の根へ、蔓へと変形し始める。赤黒い茎が脈打ちながら壁を這い上がった。

     変形は塔全体、そして城全体へと急速に広がっていく。彼らの聖域が、シルヴィオの領域へと侵食されていく。


「回廊の終点で待っている。私の可憐な薔薇……と、その憎たらしい番犬もね」


 外套を大きくはためかすと、シルヴィオは霧に溶け込むように消えた。残ったのは、塔の石縁に刻まれた、真新しい黒薔薇紋。そして、既に城の内部へ伸び始めた蔓が、廊下を漆黒の迷宮へ変貌させていく音だけだった。


 カイウスは剣を構え直した。唸りを上げる変形の音が、塔の下から響いてくる。


「追うか?     シルヴィオを」

「いいや、今は深追いは危険だ」


 ノアの声は冷静だった。だが、カイウスは彼の奥底に潜む、激しい恐慌を感じていた。ノアは自分の恐怖を押し殺し、戦いの算段を組み立てようとしている。


「回廊が完成すれば、城の出口は完全に封じられる可能性がある。ここで粘るより今は撤退して、立て直すのが賢明だ」


「……そうだな」


 カイウスは頷き、剣を下ろした。そして、ノアへ向き直った。

 カイウスはノアの手を取り、自らの心臓の上へ押し当てる。冷たい指先から伝わる微かな震え。


「一人で震えるな、ノア」


 ノアの目が細く揺れた。紅い瞳に、安堵と、そして、情愛の色が宿る。


「……ありがとう、カイウス」


 塔を駆け降りる二人の後ろで、黒薔薇の蔓が石を侵食し、廊下を漆黒の迷宮へ変えていく。軋む音、石が砕ける音、そして、どこからか漂い始める甘く、そして血生臭い薔薇の香り。彼らの聖域は、今、シルヴィオによって侵食され、変貌させられている。


 “薔薇の回廊”————。


 シルヴィオが示す恐怖と欲望。それは彼ら二人の絆が試される、試練の始まりでもあった。


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