塔を駆け降りる二人の足の下で、城はまさしく悪夢へと姿を変えつつあった。壁が、床が、階段が、おぞましい音を立てて変形していく。
硬い石が引き裂かれ、蠢く赤黒い根と茎に覆われていくのだ。石畳はうねる蔓に飲み込まれ、 見慣れたはずの廊下の曲がり角は、常に形を変える棘の迷宮へと変わり果てた。空気は甘ったるく、同時にどこか血生臭い薔薇の香りに満ちていた。
呼吸をするたびに、肺の奥底に何かが溜まっていくような錯覚に陥る。
彼らのささやかな聖域は、シルヴィオが予告した通り、その狂気と悪意を体現した巨大な生命体、“薔薇回廊”へと変貌していた。頼れるのはあちこちに灯るぼやけた光のみ。城全体が、シルヴィオという存在の悪意と狂気を体現した、巨大な迷宮と化した。
蔓は意志を持っているかのように見える。行く手を阻み、二人の間を裂こうとする。既に出口は塞がれていた。二人に残された選択肢は進むことのみだ。
カイウスとノアは、慎重に内部へと踏み込んだ。互いの存在だけが、この異常な空間での支えだった。迷宮と化した回廊を進むほどに、薔薇の香りは濃くなり、空気は湿気を増す。棘は容赦なく外套や肌をかすめ、じわりと血が滲んだ。
どれほど進んだか、不安と警戒で気を張り続け、時間感覚すら曖昧になった頃だった。狭い通路が不自然に開け、そこに広がるのは中庭だったであろう空間。この場所も巨大な薔薇の塊に覆われていた。その中央に、ぼうっと光る何かが見える。それは脈打ち、ぞっとするような気配を放っているが、何故だか足が勝手に吸い寄せられそうになる。
「見るな!」
ノアが、叫んだ。
しかし、カイウスは誘われるように光へ向かって踏み出していた。その動きに反応したように足元の蔓がカイウスの足首に絡みついた。棘が皮膚に食い込み、痛みが走る。
「カイウス!」
ノアが駆け寄る。魔力を帯させた爪で掻きむしると、蔓ら僅かに煙を上げ後退する。じり、とノアの額に汗が玉のように浮き出た。
どれほど睨み合っただろうか。今度は痺れを切らしたように二人の間の地面から、巨大な薔薇の幹が石畳を割りながらせり上がってきた。幹は瞬く間に分厚い壁となり、二人を隔てる。
石が軋み、蔓がうねる音が響く。カイウスが正気に戻り剣を振るうより早く、壁は完全に二人の視界を遮断した。
「ノア!」
カイウスは叫んだ。いつの間にか彼の腕に絡みついた蔓が、後ろ手に腕をねじり上げた。
壁の向こうからノアの声が返る。
「カイウス! 蔓から離れろ!」
声は届く。しかし、分厚い薔薇の壁は二人を分断した。シルヴィオの狙いの一つは、彼らを分断することだったのだろう。壁の向こうで、ノアが魔法で壁を破壊しようとする気配を感じる。激しい爆発音が、壁越しに伝わる。だが、壁は崩れず傷付きもしていない。物理的な距離が、二人の間に横たわる。誓血の楔が、互いの不安を直接伝えてくる。冷たい、しかし確かな共鳴だ。
カイウスの周囲が、一瞬にして雰囲気を変える。重く甘ったるい薔薇の香りと、蒸し暑さが強くなったかと思うと、今度は逆転して冷たい空気が吹雪のように肌を刺す。足元の石畳は氷に変わり、壁の蔓は巨大な氷柱へと姿を変える。視界が歪む——。
何度か瞬きをしたのち、カイウスは北方山脈の
「裏切り者……」
ロルフの焼け焦げた口元が動く。
「何故、お前だけが……」
親友オズマが、腕の中で急速に冷えていく。街へ戻ったカイウスを、マーリエが、母親が、父親が、血と泥にまみれた手で指差す。
「あなたが……あなたがあの子をあんな姿に……!」
怪物がそこにいた。竜の眼を持ち、オズマの形を借りた、血に濡れた氷の塊。カイウス自身の罪と後悔が具現化したものだ。怪物は声を発しない。だが、頭の中に無数の声が響いてくる。仲間たちの断末魔、家族たちの罵声、そして、カイウス自身の自嘲。
「俺のせいだ」「俺が殺した」「生き残る資格などない」
怪物はカイウスの魂に直接触れる。痛みが全身を走り、思考が崩壊していくのを感じる。拘束されたままの手が震え、膝が折れる。悪夢に呑み込まれる寸前だ。
過去の罪が、現実の刃となって襲いかかってくる。シルヴィオは、彼の最も深い傷を利用して、精神を破壊しようとしているのだ。
その頃、壁の向こうのノアもまた、自身の悪夢の中に立っていた。彼を囲む薔薇回廊は、かつてヴァランテ家を覆った瘴気のように淀み、鏡面のように磨かれた棘のある葉が、ノア自身の姿を無数に映し出している。映る姿は全て歪んでいた。紅い瞳は血に飢え、白い牙は長く伸び、肌は不健康なほど蒼白い。怪物。最も恐れる姿だ。
耳に届くのは、ノアの心臓を直接掴むかのような、シルヴィオの声の響きのみ。
「見ろ、ノア。それがお前の真実だ」「お前はあの夜、母を見捨てた。力の欲しさに化け物になった」「お前は私のものである。お前の血も、魂も、何もかも」「お前は、私がいなければ渇きに狂うだけの、哀れな薔薇だ」
ノアの前に怪物が現れた。それはシルヴィオのような甘い微笑みを湛えながら、腐敗した老僕の顔を持ち、ノアの母のやつれた手で血を求める。ノア自身の罪悪感と、シルヴィオへの憎悪、そして自己嫌悪が混ざり合った、おぞましい怪物だ。怪物はノアへゆっくりと近づく。その存在自体が、ノアの最も深い恐怖を具現化しているのだ。ノアは後ずさる。魔力を練ろうとするが、恐怖と否定が全身を麻痺させる。息が詰まり、膝が震え、立っていることさえも難しい。過去の出来事が、現実の責め苦となって彼を追い詰める。シルヴィオは、彼の存在の根幹を揺るがし、自らの支配下へ戻そうとしていた。
二人の精神は、それぞれ最も弱い部分を突かれ、崩壊寸前だった。目の前の幻覚と、それに伴う精神的な痛み、そして、自分が化け物である、罪人であるという絶望が、彼らを現実から引き剥がそうとする。
シルヴィオの狙いは、彼らの魂を折り、絆を断ち切ることだ。再び孤独を知れば今度こそノアの魂は堕ち、シルヴィオの手に渡る。
危うい魂を堕とすのは容易いことだ。
もはや時間の問題――そう誰もが思った時だった。小さく震え、浅い呼吸を繰り返していたカイウスが、悪夢を断ち切るように叫んだ。壁の向こうから、ノアの絶望と苦痛が波のように押し寄せてくるのを感じる。ノアもまた、今まさに抵抗しているのだ。
誓血の鎖が、二人の魂を震わせた。痛みが共有される。恐怖が伝播する。しかし、それ以上に互いの存在がここにあるという圧倒的な感覚が、悪夢の霧を僅かに晴らした。互いの魂が必死に、もう一方を求めている。
(ノア……!)
カイウスは声にならない声で叫んだ。ノアも、カイウスの絶望の淵から差し伸べられた魂の叫びを感じ取った。
「……ノア! ノアッ!」
壁の向こうで、ノアもまた、麻痺した身体を震わせながら、全身の魔力を絞り出すように叫び返した。渇きに灼かれ、恐怖に震える声。
「……カイウス……ッ」
その声をきっかけに、シルヴィオが作り出した幻覚の世界にヒビが入った。氷の谷が、ヴァランテの屋敷が、軋み始める。
カイウスの前にいた、罪を具現化した怪物が、声にならない悲鳴を上げて崩れた。ノアの前にいた、恐怖を形取った怪物は、ドロドロとした汚泥に姿を変える。
幻影はぐらつき、歪み、そして、粉々に砕け散った。
瞬き一つ。視界は、血と氷の谷から、棘に覆われた黒薔薇回廊へと戻っていた。足元の氷は消え、冷たい石畳が戻る。壁の氷柱は、依然として薔薇の蔓のまま。しかし、空気を満たしていた濃厚な罪悪感と自己嫌悪の匂いは薄れていた。怪物の残滓は、甘く腐敗した薔薇の香りに溶けて消える。
ノアの周囲でも同じことが起きた。歪んだ鏡面は砕け散り、シルヴィオの声は遠い木霊となった。薔薇回廊の腐敗したような甘ったるさが再び鼻を衝く。
二人はそれぞれ、膝をついたまま荒い息を繰り返していた。身体はまだ震え、魂の疲弊は大きい。物理的な分断は続いている。壁の向こうから、ノアが咳き込む音が聞こえた。カイウスも血の味がする口元を拭う。
しかし、絶望は消えていた。
まだ分断されている。この迷宮をどう抜けるかも分からない。シルヴィオがどこにいるかも不明だ。だが、二人とも知っている。お互いの魂が共鳴する限り、一人ではない。互いの名を呼べば、どんな悪夢からも引き戻せる。シルヴィオは絆を試そうとした。そして、絆は、その試練に耐えた。
カイウスは立ち上がり、壁に手を触れた。冷たく、硬い薔薇の幹。その向こうに、ノアがいる。ノアもまた、壁に手を触れているだろうか。彼らの誓血が、微かに、しかし確かに熱を帯びているのを感じた。
この薔薇回廊は、シルヴィオの悪意の具現化だ。しかし、彼らにとっては、互いの絆の強さを試される、そして証明する場所となった。
静寂が戻る。
薔薇回廊の夜は、まだ始まったばかりだ。迷宮は続く。しかし、二人は、孤独ではない。