薔薇回廊が、音もなく剥がれ落ちていく。硬い石壁を覆っていたおぞましい根と蔓は、急速に力を失い、乾いた音を立てて崩れ落ちた。棘が塵となり、血生臭い甘さの空気は薄れていく。城の奥深く、閉ざされていたはずの中庭が、夜露に濡れた石畳と、月白い霧を映して姿を現した。
蔦の絡み付いた回廊アーチは、まだ瓦礫をこぼしている。真上を見上げれば、分厚い雲が裂け、本来そこにあるはずのない、血のように朱い月暈が不気味に滲んでいた。悪夢のような迷宮は消え去ったが、その名残は現実として目の前に横たわっている。
中庭の中心——かつて小さな噴水があった円形の段差だけが、異様な光景をみせていた。
円形の石縁を即席の舞台に見立て、長い天鵞絨クロスが敷き詰められている。その上には、金燭台に灯る紫色の炎が揺らめき、水晶の盃、銀の蓋付き大皿が並べられている。
噴水跡の窪みは、無数の鮮やかな薔薇の花弁で埋め尽くされ、再び甘くむせるような芳香が、夜の霧と混ざり合って漂う。等しく人を惑わせるような、濃密な香りだ。
迷宮から解放され、ようやく再会を果たしたノアとカイウスは、中庭の石畳の縁に立ち、胸骨の裏を締め付ける誓血の鈍い疼きに眉をひそめた。疲弊は大きい。カイウスは隣で肩を貸し、同じ痛みを共有しながら、静かに闇を注視する。迷宮は終わった。しかし、ここはまだ、シルヴィオの領域だ。
紫焔が揺らぐたび、円の向こう側に銀髪の青年——シルヴィオが現れては消える。月光色の髪と、まだ少年めいた容貌。しかし、その瞳の底には、凍り付いた無垢を思わせる、底知れぬ狂気が潜んでいた。彼は舞台の中央、晩餐の卓の奥に、優雅に腰かけていた。
「よく来たね、私の可愛いノア。そして、その番犬」
朗らかで、鈴の音にも似たシルヴィオの声が響いた瞬間、誓血の鎖が、まるで外から叩かれたかのように、強く弾けた。二人の心臓が、揃って鋭い痛みを訴える。
カイウスは歯を食いしばり、ノアの指を強く握り返す。この男は、外側から誓血に干渉することができるのだ。
「何故ノアに付き纏う」
カイウスが低く問う。
「付き纏う? 人聞きの悪い」
シルヴィオは微笑む。まるでつまらない塵を払うかのように張り付いたような笑みだ。
「申し訳ないが君には用がないんだ、番犬くん」
シルヴィオはそう言って、卓上の銀の蓋付き大皿の一つに手を伸ばし、優雅な仕草で蓋を外した。
湯気と共に現れたのは、肉塊だ。表面は赤黒く、炭化しているように見える。その胸の部分には、見覚えのある黒薔薇の焼印が刻まれている。
フィリップ・クレイン。彼の顔が、二人の脳裏によぎった。
ノアの喉が、ヒュッと音を立てて痙攣した。全身の血が逆流するかのようだ。強烈な吐き気が湧き上がる。
恐怖であり、嫌悪であり、そして何よりも、シルヴィオの残酷さと冒涜に対する、魂からの拒絶反応だった。
フィリップという男の信仰を踏みにじり、その肉体を弄ぶ。シルヴィオは、常に人の最も大切なものを穢すことに喜びを見出す。
シルヴィオはそんなノアの反応を愉しげに見つめていた。彼は水晶の盃に、銀の蓋付き大皿の中から、肉塊から滲み出た赤い液体を、赤いソースのように注ぎ入れた。血のように濃厚で、甘く、むせるような薔薇の香りを放っていた。
「さあ、私の薔薇。これは、あの男の命と、私の力を混ぜ合わせた、特別な料理だ。君への、愛の表現だよ」
シルヴィオはそう言って、血のように赤いソースが注がれた盃を、ノアに差し出した。それは、ノアの渇きを刺激し、同時に魂を汚そうとする、悪魔の誘惑だった。ノアは顔を背ける。胃の腑からせり上がる吐き気に、身体が震えた。
カイウスは、ノアの傍らで、拳を固く握りしめた。フィリップへの侮辱、そして、ノアを弄ぶシルヴィオへの怒りが、全身を焼く。剣があれば、今すぐにでも切りかかっていたが、先ほど薔薇の蔓に絡め取られ、見失っていた。
「なぜそんなことをする! 何がお前の目的なんだ!」
カイウスが怒りを込めて叫んだ。
シルヴィオは優雅な微笑みを崩さない。
「目的? シンプルだよ。私の可愛い薔薇を取り戻すこと。そして、彼の新しい鎖……《誓血》が、気に入らない」
シルヴィオは、ゆっくりと晩餐の卓の中央にある、ひときわ大きな銀の蓋付き大皿へ視線を移した。そこには、まだ蓋がされた皿が置かれている。
「君たちは私の薔薇回廊を突破した。互いの罪と恐怖を乗り越えた。素晴らしい絆だ。たかが人間のわりにはやるじゃないか、そこは認めてあげよう」
シルヴィオが薄く笑って、嫌味ったらしく言った。
「さて、ノア」
シルヴィオの視線が、再びノアに戻された。獲物を追い詰めるかのように、瞳孔が開いていた。
「本題に入ろう。私は君を取り戻したい。君は私の最高の創造物だ。君ほど、私の血を理解し、私の期待に応える存在はいない。君が私の傍に戻るなら——私は君の過去の罪を赦そう。そして、君のその身を焦がす渇きも……完全に、永遠に終わらせてあげよう」
シルヴィオは甘く、囁くように言った。ノアにとって、渇きが永遠に終わるという言葉は、何よりも甘美な響きだ。数世紀にわたる苦痛からの解放。しかし、その代償を知っている。ノアは首を横に振る。
「断る。私は貴方の玩具にはならない」
「そうだろうね」
シルヴィオは微笑んだまま、首を傾げた。まるで、ノアの返答を予期していたかのように。
「条件をつけよう。ノア、君が私のそばに戻るなら——君のその番犬を、生かしておいてあげよう」
その言葉を聞いた瞬間、カイウスの全身が硬直した。ノアもまた、息を呑む。シルヴィオの紅い瞳が、カイウスを品定めするように一瞥する。それは、簡単に命を奪える、価値のないものを見るかのような視線だった。
「彼は人間のわりには面白い。稀有な存在だ。殺すのは惜しい。君が彼の命を望むなら見逃してあげよう。二度と君に関わることなく、この城から出て生きていくがいい」
シルヴィオの言葉は、ノアの心を容赦なく抉った。カイウスを生かす。それはノアが最も望むことだ。
自分が苦痛に耐え精神だけでも人でありたいと願う限り、シルヴィオはカイウスを狙う。自分の存在が、カイウスを死へ近づけているのだ。
カイウスは首を横に振る。言葉を発せずとも、ノアの心は手に取るように理解できた。しかし、ノアの心は激しく揺らいだ。カイウスの命。自分の苦痛。天秤が、激しく揺れる。
ノアは、震える指先で胸元を押さえた。胸骨の裏側が波打つように脈動する。苦しい。これは渇きではない。選択の苦痛だ。
シルヴィオはそんなノアの葛藤を愉しげに見つめていた。彼はテーブルに肘をつき、もう片方の手で、テーブルに置かれた真紅の薔薇を一本手に取った。棘のない、完璧な美しさを持つ薔薇。まるで、ノアの純粋な部分だけを切り取ったかのような花。
「さあ、私の可憐な薔薇。どうする? その手に、私の愛を受け入れるかい?」
シルヴィオは、薔薇の茎を捻じ曲げ、一輪の花を、まるで指輪のように捻って握りこんだ。真紅の花弁が重なり合い、収縮していく。すっかりと手の中に収まったころには、薔薇は指輪へと姿を変えていた。シルヴィオはそれをノアへ差し出した。
「これを受け取れば、契約成立だ。君は私のものに。そして、彼は自由だ」
ノアの視線が、指輪に釘付けになった。指輪は、シルヴィオの血の色のように鮮やかな紅を湛えている。それを受け取れば、カイウスは助かる。カイウスは、自分のせいで危険な目に遭うことはなくなる。
ノアの白い手が、ゆっくりと、薔薇の指輪へ伸びた。震えている。
指先が、真紅の花弁に触れようとした、その瞬間——。
魂が、拒絶の叫びをあげた。
痛みが全身を駆け巡り、視界が白む。ノアは薔薇の指輪から手を離し、胸を押さえて倒れ伏した。カイウスもまた、同じ痛みに呻き、テーブルの角を掴んで身体を支えようとしたが、膝から崩れ落ちた。
二人は石畳に倒れ伏し、苦痛に呻いた。あの渇きとも、罪の痛みとも違う、魂そのものが悲鳴を上げているような、耐え難い苦悶だった。
シルヴィオは、予期せぬ事態に、僅かに目を見開いた。薔薇の指輪は、ノアの手が触れる寸前で、力を失い、ただの弁に戻ってテーブルに落ちた。
「これは……興味深い。既にここまで根を張っていたのか」
シルヴィオの声は、驚きと好奇心に満ちていた。倒れ伏し、苦痛に悶える二人の姿を、彼はただ静かに笑って見下ろしている。晩餐の間を満たす甘いワインの香りも、もはやどうでもよかった。
「へぇ……君自身の意志よりも強く君を縛るとはね。だが、まだ隙間が空いているな」
シルヴィオはそう呟き、彼の視線が、倒れ伏した二人の胸元、見えない誓血の鎖が最も強く脈打つ場所——その核へと向けられた。そして、満足げに微笑んだ。
「今度はそれをもらおうか。残念ながら今日はもう時間切れだ」
シルヴィオはそう言って踵を返す。
ノアは震える唇を噛み締め、這うようにカイウスの傍らへ移動した。
「……核を壊される前に、私たちで隠そう」
ノアは、掠れた声で、しかし強い決意を込めて言った。シルヴィオが次に狙う場所。二人の絆の、最も大切な核。
カイウスもまた、痛みに呻きながらも頷いた。
未だ赤い月が、雲間に不気味に覗いている。二人の新たな戦いが始まろうとしていた。