頭の中で響く声に従って目をつむると、白い空間にいた。
その中央では、イスに座った少年がテレビを見ている。
いや、真っ白でどれだけ広いかもわからないのだから、中央がわかるはずがないのだけど、青年はそこが中央なのだと直感していた。
『やあ、久しぶりだね』
「お前は一体誰なんですか?」
『ボクは君だよ』
「……それにしては、随分見た目が違うようですが」
少年は銀髪に青い瞳。それに、年上を魅了するような可愛らしい顔立ちをしていた。
自分とは似ても似つかない、と青年はいぶかしんだ。
『冗談冗談。ボクの名前はジョシュア』
ジョシュア。
その単語を聞いても、青年の頭にはハテナマークが浮かぶだけだった。
「いや、名前だけ言われても……」
『ははは。確かにそうだね。じゃあ、こう言えばわかるかな?』
少年——ジョシュアはわざとらしく、椅子の上で足を組んで、不遜な態度を取った。
まるで名探偵のように。
『君が根黒マンサと呼んでいる少女。その弟だよ』
「……根黒、マンサの」
弟。
青年は根黒マンサに弟がいることすらも聞かされていなかった。
だけど、彼女の弟と聞くだけで、心がざわめいた。
『思い出してきた?』
首を横に振る青年。
「もっと聞かせてください。思い出せるかもしれません」
『そうかい? では、ちょっとだけ昔話を聞かせて進ぜよう』
咳ばらいをした後、まるで村の長老のような語り口で、ジョシュアは物語を紡いでいく。
『ボクが住んでいた世界は、10柱の神によって作られたと言われてのぅ。そのうちの1柱が自分を模して人間を創造したという伝説が――』
「いや、
『ジョークだよ。相変わらず、君はいいツッコミをくれるね』
「……やめてください。こっちは真剣なんです」
『それを君が言うかい?』
「過去の自分はどうか知りませんけど、今のオレは真面目に生真面目ですよ」
『いいね。調子が出てきたみたいだ』
少年の安心して緩んだ頬を見て、青年は複雑そうに眉を曲げた。
「オレってそんなに変わっていないんですか?」
『あんまり変わってないね。記憶喪失でも変わんないんだから、君の自我は相当強いようだ。さすが自称・名助手』
「……やめてください」
青年が顔を背けると、ジョシュアは楽しそうに笑った。
『じゃあ、ボクの生い立ちから話そうか』
「親のセックスから語らないでくださいよ」
『残念。親の顔も名前も知らないかね』
「なら、オレとおそろいですね。なにせ記憶喪失ですから」
『へへへ。間違いない』
なぜか嬉しそうな笑みを浮かべた後、ジョシュアは虚空を見ながら語り出す。
『ボクは、鳥のモンスターにさらわれた子供だったんだよ。赤ちゃんの時にお姉ちゃんに拾われたんだ』
「ん? 鳥? モンスター?」
『あー。そこから説明しないといけないのか。ボクとお姉ちゃんは異世界人なんだよ。現代転移ってやつ』
「はあ!?」
『ここはあんまり疑問に思わないで受け入れてくれると助かるよ』
「……まあ、なんとなく飲み込めます」
(あんな美少女は、この世のものとは思えないもんなぁ)
青年は自分の心に賛同するように、何回も頷いた。
その様子を見て、ジョシュアは話を続ける。
『あの時は楽しかったなぁ。お姉ちゃんとパパやママたちと暮らす日々。なにもない森の中だけど、色んなモンスターがいたし、意外と退屈することがなかった』
「野生児だったんですか」
『うーん。下手な野生児よりはいい教育は受けていたかもね。パパとママ達って、元勇者とか元お姫様の幽霊だったし』
「はあ!?」
勇者。お姫様。青年の驚愕する言葉が次々飛んでくる。
『住んでいた森って魔王城の近くにあって、魔王に挑んで返り討ちにあった彼らの墓標があったんだよね』
「……つまり、幽霊から英才教育を受けていたんだですか」
『そうそう。おかげで、色々と詳しくなれたし、強くもなれた。穏やかな日々だったよ』
ジョシュアの目つきが変わった。
郷愁に浸るのではなく、何かを追い求めるギラギラとした目つきに。
『でもある日、勇者パーティーと出会って、外の世界を知ってしまった』
「……勇者パーティー」
『彼らは色んなことを教えてくれた。この世界が今どうなっているのか。どんな素敵な場所があるのか。冒険の数々。聞くたびに心が躍って、抑えが効かなくなった!』
当時のことを思い出したのか、ジョシュアはクルリと回った。
『それで、魔法学校に通うことになったんだけど、彼女に出会っちゃったんだよね。サモエド・サモナ』
「誰ですか?」
『君の記憶が消える原因を作った張本人だよ。金髪巨乳の召喚士』
「巨乳って情報は重要なんですか?」
『重要だよ。ボクはあの巨乳に
青年が「なんだですかそれ」と笑うと、ジョシュアは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
『サモエド・サモナはかなり独占欲が強くてね。ボクを無理やり自分のものにしようとしてきたんだ。そしてある日、独善的な行動に出た』
「…………」
ジョシュアの顔は、とても冷たかった。
その冷たさが、内に秘めた怒りを色濃く表している。
『ボクと一緒に異世界に飛ぼうとしたんだ。もちろん、ボクも抵抗しようとした。でも、彼女の召喚士としての力は本物で、到底太刀打ちできなかった』
「……それで」
突然、ジョシュアの顔がパァッと明るくなった。
まるで、全部がどうでもよくなったみたいに。
『結論。彼女の異世界転移は不完全だった。ボクの魂と体が分離してしまったんだよ。術者本人は平気だったみたいだけどね』
「……魂、ですか」
『そう。魂だけになったボクは、消える定めだった。誰かの体に入れば助かる可能性はあったけどね。そんな時、現れたんだ』
ジョシュアの青い瞳が、青年の黒い瞳を見据える。
愛おしくも、真摯な眼差しで。
『君が現れたんだ。助けての声が聞こえたって』
「…………」
『あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。君はふたつ返事でボクを助けて、受け入れてくれた。純粋な瞳で、』
『君は、僕の勇者。いいや、ヒーローなんだよ。手島京助』
青年の頭の中に、靄が生まれた。
それは徐々に形になっていき、記憶となって鮮明な形を帯びていく。
そうだ。
思い出してきた。
小さい頃に、そんなことがあった。
いや、それだけじゃない。
根黒マンサ――いや、探偵さんとの出会い。
父親との再会。
一ノ瀬いちごと、画家の悲惨な事件。
西空無礼先生が仕掛けた、残酷なロマンの物語。
そして、探偵さんに拒絶されて、それでも追いかけて、告白したあの日。
全部全部、よみがえっていく。
『もう大丈夫みたいだね』
「……はい」
『感謝してよね。ボクが色々と手を尽くさなかったら、本当に記憶が無くなっていたんだから』
「ありがとうございます」
『へへへ。意外と照れくさいな』
2人は顔を見合わせて、一緒にハニカんだ。
「そういえばオレの体って、今どうなっているんですか?」
『君が困るようにはなっていないよ』
「たしかにそうですね。オレは彼女のことが大好きで愛していて、もう一生離れる気はありませんから」
『ヒューヒュー、熱いね』
茶化していたジョシュアが突然、明後日の方向を向いた。
『あ、お姉ちゃんが来たみたいだ。現実の方で』
探偵さんが帰ってきた。
そう思うだけで、助手は顔が強張ってしまう。
『怖いのかい?』
「よくわかんないですよ。オレはずっと、自分が本当は何をしたいのかも」
『ビッグになりたい、なんて適当なことを考えていたしね』
「……本当、自分が嫌になりますよ」
ジョシュアは勇気付けるように微笑んだ。
『大丈夫。君はもう、素晴らしいロマンにたどり着いているじゃないか』
「だけど、とても普遍的なことですよ。あまりにもちっぽけすぎる」
『何を言うんだい? 夢に大きいも小さいもない。どんな夢でも素晴らしいものだ』
「本当に思っていますか?」
『夢を大きくする人は、自分に自信がないだけだよ。夢とは幻だ。虚像だ。虚栄だ。君にはもう、そんなものは必要ない』
突然助手の背後に回ったかと思うと、ジョシュアは思い切り彼の背中を蹴飛ばした。
『だってボクなんか、外の世界を知りたい! って飛び出したら、こんな目に遭っているんだよ? 今は魂だけさっ!』
「確かにそうですね。いい先生です」
『ああ。存分に反面教師にしてくれ。ボクみたいにならないように必死に学んで、そして、お姉ちゃんを笑顔にしてくれ』
「もちろんです」
助手が頷くと、ジョシュアは「いい顔だ」と太鼓判を押した。
『ちゃんと、ボクの代わりに言ってきてよね』
「ばっちりと、かっこよく決めてきてやりますよ」
拳と拳を突き合わせる。
それだけで、心の中から熱が湧き上がってくる。
『いってらっしゃい、ボクのヒーロー』
次の瞬間、光に包まれた。
徐々に光が収束していき、うす暗いオフィスに戻ってきた。
瞼を開けると、銀髪が目に入った。
銀髪の少女は――根黒マンサは――いや、探偵は助手の顔を見るなり固まって、手に持っていたレジ袋を落とした。
中身が飛び出して、床に散乱する。
もやし。
野菜ジュース。
カップラーメン。
ケーキ。
その他にも、いっぱいある。
ずっとずっと、探偵は買い物をしてこなかった。助手に任せていた。
人と話すのは大変だし、常識がわからないから、と。
それが今、ちゃんと買い物をしてきた。
レシートもある。
ガサツで、非常識で、不思議で、甘えたがりで、とてもかわいらしいのに。
一体、彼女はどれだけ苦労しただろうか。
どれだけの覚悟で買い物かごを握っていたのだろうか。
考えるだけで、体がぽかぽかと温かくなってくる。
ああ。
なんて言えばいいんだろう。
彼女の涙を見るだけで、ハチミツでできた濁流のような想いがこみ上げてきてしまう。
愛してる。
大好き。
ありがとう。
一生幸せにします。
一緒にいたい。
抱きしめたい。
頭を撫でたい。
キスしたい。
結婚したい。
考えれば考えるほど、言葉と感情の迷宮に阻まれ、迷子になっていく。
何を言えばいいのか、わからなくなってしまう。
「おか、えり」
まるですべてを包み込むみたいな、優しい声音。
それなのに、涙のように揺れていた。
彼女の言葉が鼓膜を揺らした瞬間、世界が弾けたように輝いた。
道が、照らされていく。
さっきまで混沌とした思考がクリアになって、ひとつのことしか考えられなくなっていく。
ああ、そうか。
ただ、いつもみたいに口にすればいいんだ。
一音一音、意識する必要もない。
オレの口が勝手に紡いでくれる。
この言葉のためなら、オレは何度だってよみがえれる。
「ただいま」
この人に、この言葉を毎日投げかけたい。
きっと、それがオレの全てなんだ。