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4-1. 大迫恭介という分岐点

春本番を間近に控えたキャンパスは、午前の光をいっぱいに吸い込みながらも柔らかな湿気を孕み、芝の匂いと土の水分を混ぜたような気配を漂わせていた。遠くで講義開始を知らせるチャイムが鳴り、静けさの中に微かなざわめきを植え付ける。三崎晴翔は広場を取り囲む遊歩道の端に立ち、弧を描くベンチ列の中央付近を見つめていた。そこに、大迫恭介がいた。灰色のパーカーのフードを背中に垂らし、ノートPCを膝に置いて指を動かしている。まるで世界のスピードとわずかにずれたテンポで呼吸しているかのような落ち着きが、その姿の輪郭を他の新入生たちから浮かび上がらせていた。


一度目の人生では、晴翔にとって大迫は最も濃密な時間を共有した友だった。互いの部屋を行き来し、深夜にラーメンを啜りながら夢を語り、就活の不安を吐露し合った。二度目の人生では、晴翔が意図的に道を変えたことで、ただの同級生として視界をかすめる程度で終わった。そして三度目の今日──ずれ込んだ時間列が細かく軋む音を立てるなか、彼は再びそこに座っている。辺縁視野で捉えた大迫の姿が、前回までの微かな関与を払い落としたまま、白紙の状態で立ち現れていることが痛いほど分かった。


晴翔は深く息を吸った。胸腔の奥が冷え、呼気が肺の形を内側からなぞる。今度こそ自分から接触する。この世界が崩壊を始める前に、誰かと再び線を結び直さなければならないという衝動があった。大迫はその最初の端点だ。だが“彼は自分を知らない”という事実が、足元を重く縛りつける。過去の共有記憶はここにはない。むしろ晴翔だけが、その重みを抱えている。歩を進めるごとに、空気が階調を失い、背景の色彩が薄れていく。距離が縮まるにつれ、物理的な数歩よりも遥かに長い時間を踏破しているような錯覚が身体を包む。


「……大迫。」呼びかけた声は想定より小さく、喉の奥で削れていた。大迫はノートPCの画面から目を上げ、視線を晴翔へ合わせた。瞳の奥に瞬間的な警戒が走り、その後にどこかで見覚えがあるかを探るような曖昧な迷いが浮かぶ。晴翔は内心で切り取った過去の場面を手渡すわけにはいかず、口角だけでぎこちない笑みを作った。「同じ学科の――三崎。ガイダンスで何度か見かけて。」言いながら、舌が乾いていることに気づく。大迫は一拍置いて薄く頷いた。「ノートPCの使い方、割と慣れてるみたいだったから、ちょっと聞きたくて。」接近の理由を作り、横のベンチに座る。


大迫は小さく笑った。「慣れてるってほどじゃないけど、スクリプトを組むのが楽しくて弄ってるだけ。」そう言ってキーボードを一度叩き、ディスプレイをこちらへ傾けた。黒地に緑色の文字が走る簡易的なデータ整形ツールが表示されている。晴翔はかつて深夜の部屋で並んで肩を寄せ、この画面を眺めた記憶を思い出した。けれど今は初見を装わなければならない。「すごいな、それ自分で書いたの?」と感嘆の声を上げる。大迫は照れたように視線を落とした。「まだテスト段階だけどね。」照れ笑いの癖まで変わっていないのに、それを“初対面”として味わう痛さが胸に刺さった。


彼はバッグから市販のスケッチブックを取り出した。ページをめくると、データ構造や座標計算を手書きした図解が並んでいる。晴翔が真新しい驚きを貼り付けて眺めていると、大迫の視線がふと手帳へ移った。胸ポケットから取り出したその黒い革表紙には、前夜カフェで見たときと同じ折り癖がついている。彼は意識した素振りなくページを探り、中央付近で指を止めた。そこには二周目の夕方、晴翔が確かに目撃した「4.3再び」の走り書きがあるはずだ。しかし今回は――そこに何も書かれていなかった。白いページの中心は薄く擦れた跡だけ残し、インクも鉛筆痕も存在しない。だが晴翔の脳裏には、その文字列が幻視のように浮かんだ。まるで世界が瞬時に訂正をかけ、証拠を消したかのようだ。


続けて大迫が手帳を閉じる時、指先が一枚の付箋を取り落としかけた。紙片が宙で跳ね、地面に落ちる前に晴翔が掴む。そこには薄墨色のインクでわずかに掠れた三つの数字が記されていた。「03.28」。瞬間、頭の裏側で鈍い鐘が鳴る。3月28日――二周目で、世界が不安定化の兆しを最初に見せた日付と一致する。そして時刻は書かれていない。晴翔は視線を上げ、大迫の表情を探る。しかし彼は付箋の存在に気づいていないようで、スクリーンに向かって作業を続けている。紙片を返そうにも、今はまだ問いただす材料が足りなかった。晴翔は付箋を手帳の間に挟み戻し、「落ちそうになってた」と軽く笑って差し出した。大迫は「あ、ありがとう」と受け取り、何事もなかったかのようにページを閉じる動作を続けた。だがその指先がわずかに震えたのを、晴翔は見逃さなかった。


陽射しが角度を変え、木洩れ日の輪郭がベンチの背に伸びる。広場を往来する学生の声が重なり合い、断片化した単語が風に乗って流れる。晴翔は呼吸を整えながら、今後の選択肢を組み直していた。世界が情報の位相をずらしながら進むなら、もはや“未来の記憶”は正解ではない。むしろ、誤差を増幅する危険因子になり得る。だがそれでも、ここで大迫と再び繋がることは、不可逆に歪み始めた世界を縫い止める針になり得るかもしれなかった。


 午後の講義に向かう群れが広場を過ぎ去り、ベンチ周辺の喧噪がしぼんでいく。陽射しが傾き、校舎の影が地表へ濃い斜線を描いたころ、晴翔はようやく腰を上げた。「今度、図書館のメディア室で映像資料を探そうと思っててさ。良かったら一緒に行かない?」控えめな誘いだったが、それは三度目の世界で初めて差し出す自分からの“手”だった。大迫は一瞬だけ眉を寄せ、すぐに柔らかな笑みを返した。「いいよ、今日の五限あと時間あるし。」互いの距離が確かに縮まる。だがその直後、晴翔は胸の奥に小さな引き攣れを感じた。世界が修正を試みるとき、しばしば人間同士の接点をずらすことで辻褄を合わせる――そんな“傾向”を二周目の終盤、彼は肌で味わった。接触を深めるほどに、世界の弾力が強く反発してくるのではないかという恐れが、期待の影に潜んでいた。


夕映えに染まる図書館の窓は、硝子の表面に橙のグラデーションを映し出しながら、すでに夜の冷気を薄く孕んでいた。閲覧フロアは照明が点き始め、天井のダウンライトが順々に白い光を落としてゆく。メディア室の奥、壁際に設えられた視聴ブースのひとつに入ると、薄いカーテンが空調の風に揺れ、粒子状の埃がライトの円錐に舞い上がった。ここは二周目でも度々利用した場所だが、備品がいくつか新調されている。イヤホンジャックの形状が異なり、リモコンのボタン配置が変わっていた。世界の微調整か、それとも誰かの介入か。大迫は背負っていたリュックから外付けSSDを取り出し、「ちょっと試したいものがある」と言ってプレイヤーのUSBポートへ差し込んだ。ファイルリストが表示される。その中に「loop_test.mov」という文字列があった。晴翔の視神経がその一行を捉えた途端、脳がかすかな電流を受けたように痺れた。


「これ何?」と尋ねると、大迫は肩をすくめた。「細切れの素材を繋いで、映像がどこまで“同じに見えて同じじゃない”かを試した実験映像。最近、やけに既視感が強い現象が続いてて、それを可視化できるかもと思って。」スクリーンに映った映像は、大学構内を歩く人々のフッテージが連続するシンプルなものだ。しかし各クリップの歩行者の動線や陰影が、一見同じ軌跡をなぞりながら、フレーム深部のディテールだけが僅かに変化していた。背景のポスターが別の告知に差し替わり、シャツの柄が一瞬だけ別パターンに置き換わり、時計塔の針が進んでいない。映像はループしながら誤差を増幅し、十数周目には視界全体が粒子化し壊れていく。晴翔は強烈な既視感と同時に、喉の奥から冷たい液体が湧く感覚に襲われた。世界が崩れる前兆を映像が模倣しているのではない。むしろ世界そのものがこの映像のアルゴリズムを真似ているかのように思えた。


「……こういうの、君も感じたりする?」大迫は低い声で尋ねた。ディスプレイの光が彼の横顔に映り、瞳の奥で複雑な計算が巡っている。晴翔は息を整えながら頷いた。「見覚えがある光景が、少しずつズレて再生される感じだよな。」声が震えるのを抑えきれない。大迫は何かを言いたげに口を開きかけ、視線を映像から手帳へ落とした。ゆっくり開かれるページ。その中央、午前中には白紙だった箇所に、いつの間にかインクが滲み、「4.3再び」の五文字が浮かび上がっていた。大迫が驚いたように眉根を寄せる。「……俺、こんなの書いた覚えないんだけど。」手が震えている。晴翔は震えを伝染させないよう慎重に言葉を選んだ。「きっと何かのサインだ。たぶん君も……俺と同じで“繰り返し”の輪の中にいる。」


映像はループを終え、ブラックアウトしたスクリーンに二人のシルエットが重なる。晴翔は深い呼吸をしてから続けた。「君にだけは、本当のことを話したい。時間が巻き戻る。俺はそれを二度経験した。世界は今、壊れ始めてる。」大迫は沈黙し、手帳のページを指でなぞった。インクの輪郭が揺らぎ、文字が微かに滲むのが見える。「信じがたい。でもこの数日、同じ講義にいるのに初めて会った気がしなかった。君と目が合ったとき、いつか夢で見た場面のように感じた。」低い囁きがカーテンに吸い込まれる。晴翔は拳を握り、「だから協力してほしい。世界が次に崩れる前に、理由を探さないと。」訴えるように言った。


その瞬間、図書館全体が短く揺れた。天井の照明が一度に光量を落とし、非常灯の緑が抜けたように白く瞬く。遠くで書架が倒れる硬質な衝撃音が轟き、空調の吹き出し口から冷気が逆流した。世界が新しい誤差を注入し、二人の会話を監視する目を光らせたのだ。晴翔は大迫の腕を掴み、「ここは危ない」と声を発した。だが言葉の最後尾が空気に吸われ、音は半分だけ耳に届いたように薄れた。カーテンを跳ね上げ、視聴ブースを飛び出す。廊下の非常灯が交互に点滅し、人影はどこにも見当たらない。図書館もまたノイズの中へ沈みつつある。


出口に向け走りながら、晴翔は確信した。世界は二人の接近を“誤差”とみなし、強制的に事象をばらまき始めた。だが、その反応は裏返せば突破口の印でもある。自分の行動が世界に干渉しうる証となった。ガラス扉を押し開き、夜気の中へ飛び出す。空は星を失い、黒い膜で覆われている。だがキャンパスの奥で、どこかの講義棟の窓がひとつだけ白く点灯していた。そこに示されたかのような座標。晴翔は大迫を振り返る。彼の表情には恐怖よりも、理解の光が宿っていた。二人は黙って頷き合い、その光源へ向けて足を踏み出した。分岐点は、動き始めた。

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