午前二時二十八分──それは暗闇と静寂が最も深まるはずの時刻だった。だが三崎晴翔の部屋には、深夜特有の静けさが存在しなかった。代わりに、空気が細かく震えるような微かなひずみが漂っていた。窓の外で風が吹くたび、その震えは粒の粗いホワイトノイズへと変質し、聴覚の能力を試すかのようなかすかな砂音を耳奥に落とし込む。世界が呼吸を忘れかけた瞬間に発する乱数の吐息──そんな比喩が脳裏に浮かぶほど、その振動は不自然だった。机上のLEDデジタル時計は「02:28」の数字を表示していたが、コロンの点滅周期が普段より長く、まばたきのようなリズムが遅れていることに気づく。針のない時計が時間を示す唯一の証人であるはずが、その証言が微妙に食い違い始めている。
壁の向こう、寮の廊下は物音一つなく沈黙している。それでも晴翔は、遠くで水滴が落ちるような「ピチ」という鋭い破裂音を拾った。雨は降っていない。配管の音でもない。脳内で発生した幻聴かと疑ったが、次の瞬間、天井の隅でLED照明が一度だけ瞬いた。まるで誘爆に合わせるタイミングで、世界が小規模な停電を起こしたかのようだった。だが照明はすぐに元の光量に戻り、シェードの上を走る影の輪郭だけが、ゆっくりと壁際を流れ落ちていくように見えた。
晴翔はベッドから身を起こし、足を床に置いた。フローリング材の冷たさが、通常よりわずかに弱い。温度計を見ると、室温は二十三度を示しているが、皮膚感覚はもっと高い。空気そのものが粘度を持ち、目に見えぬ膜が部屋をコーティングしているかのようだった。喉が渇いていることに気づき、キッチンへ向かおうと立ち上がった瞬間、カーテンの隙間で街灯の光が跳ねた。窓外の世界が、一瞬だけモザイク状に歪み、建物の輪郭がピクセルブロックのように崩れたあと、何事もなかったかのように再構築される。視覚がバグを起こしたのか、現実が一瞬レンダリングを失敗したのか、その区別がつかない。心拍が速まり、耳鳴りが徐々に音量を増していく。世界が“溶解の前兆”を告げるアラームを鳴らし始めたのだと直感した。
机に戻り、ノートパソコンを開く。数秒遅れてバックライトが点灯し、OSが立ち上がる。ログイン後、まずニュースサイトを確認した。トップに表示された速報記事は、前回まで見慣れたタイムラインを裏切る内容だった。「国際宇宙ステーションにて未知の高エネルギー粒子観測」と大見出しが踊っている。だが記事の日付は「2021年12月14日」。時間軸が二年以上前の出来事を“今日の速報”として配信している。さらにスクロールすると、社会面のヘッドラインには「大型SNSサービス“EchoVerse”年内サービス終了へ」とあった。EchoVerseは二度目の人生で晴翔自身が提案を先取りし、まだ学内ベータ段階にも乗っていない音声日記アプリの大本となるサービス名であるはずだ。存在すらしないプラットフォームが、既に発表もリリースも終え、なおかつ閉鎖記事として報じられている。未来と過去が大雑把に混ざり合い、見当違いのパズルピースとしてニュース面を埋め尽くしていた。
ブラウザのタブを開き、複数のニュースサイトを巡回する。ところがどの媒体もトップ記事のタイムスタンプがばらばらで、同じ出来事を互いに異なる年代として報じていた。あるサイトでは「2022年6月、仮想通貨市場過去最大の暴落」という記事が、別のサイトでは「2024年6月仮想通貨史上最高値更新」という真逆の見出しで掲載されている。しかも投稿時刻は同日同時刻。事実が同時に正反対のベクトルを備え、重なり合って存在している。情報の整合性が根本から断裂していた。
晴翔は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。世界が規則を失い、過去と未来が折りたたまれている。時計が示す「今」は絶対の座標ではなく、無数のスライスのうちの一枚がたまたま選ばれているに過ぎない。だから音も光も温度も、わずかずつ乱反射を始める。自分の記憶を羅針盤にして進んできた二周目の成功ルートは、世界そのものが別の値を書き込むことで崩されていく。長谷部巧が写真班へ配置されたのも、水野瑠夏の役職が変更されたのも、世界内部のテーブルが上書きされた結果だ。今や世界は、因果律のテキストファイルを粗雑に編集し、保存せず強制終了したプログラムのようにバグをばらまいている。
スマートフォンが震え、画面に通知が走った。「また見つけたか」。差出人は“unknown”。本文はなく、ただ件名のその一文のみ。晴翔は電源ボタンを握る手に力を込め、喉の奥で乾いた息を飲む。自分の行動を監視し、先回りしてファイルを書き換える存在。大迫恭介の手帳に残された「4.3再び」、パソコンに書き込まれた「これで満足か? 次はずれる」。そこから導き出される唯一の結論──このループには、自分以外にも観測者もしくは操作主体がいる。そしてその何者かは、自分より一手先に立って世界を書き換えている。
床を蹴る音が部屋に反響し、晴翔は乱雑にパーカーを羽織ると廊下に飛び出した。夜気は重く、湿度が高かった。非常灯の緑色の光が壁を舐め、進むたびに影が幾重にも重なって揺れる。階段を駆け下りる途中、踊り場の天井灯がパチンと音を立てて切れた。暗闇の中で足音だけが増幅される。手すりを掴む掌に汗が滲む。世界の輪郭が摩耗している感覚は、建物の構造をも浸食していた。
外に出ると、キャンパスは深夜にもかかわらず照明がついたままになっていた。街灯の光は橙から白へ、白から青へと周期的に波長を変え、芝生に落ちる影がカラーグレーディングの失敗した映像のように色味を狂わせていた。遠くの学部棟の時計塔が二時四十二分を指していたが、晴翔の腕時計は二時三十三分で止まったまま再び動かない。時間そのものが空間の中でばらばらに漂う欠片になりつつある。彼は図書館へ向かう道を選んだ。あの建物はこれまで世界の書き換えが顕著に現れる場所であり、何かしら手がかりが残されていると勘が告げていた。
自動扉は感知センサーが狂ったのか、近づく前から開いた。館内の照明は半分が消灯していたが、残る光が書架の列に長い影を吊り下げている。空調は切れていて、紙の匂いと微かな埃の臭いが空気を重くした。正面カウンターは無人。しかしPCモニタだけが点灯し、スクリーンセーバーの星が速度を変えながら飛び交っていた。二階へ上がる階段を踏むたび、手すりの金属が肉に吸いつくような粘り気を帯びている。階上では窓際の閲覧席にだけスタンドライトが灯っていた。その光の円の中に、一冊のノートが開かれ置かれている。背筋を電流が走った。表紙の端に見覚えがある。長谷部巧が使っていたモレスキン。だが彼はこの時間軸からこぼれ落ちたはずの名前である。
近づきページを覗くと、中央にペン先が叩きつけられたような筆圧で次の文字列が綴られていた。
〈ループは書き換わるたびに精度を失う〉
〈“僕”は二つ先を走っている〉
〈4.3を超えるな〉
ペン跡は乾ききっておらず、インクの池が紙繊維の毛細管を辿ってにじんでいた。書き手がごく最近までここにいた証拠。ノートの右隅にはタイムスタンプを模した数字が打たれている。「02:27」。晴翔が部屋で世界のバグを感じ取ったほぼ同刻。ページの下部にサインのようなものがあった。だが文字は崩れ、判読できない。一旦目を離し再度視線を戻すと、サインは消えていた。紙面がしわを寄せ、まるで書かれた事実ごと元の白紙へ巻き戻されたように変化している。指先が冷え、呼吸が荒くなる。世界は己の矛盾を覆い隠すために履歴を即座に上書きしている。
閲覧席を離れ、通路へ戻る。ふと足元のタイルが蠢く気配を感じ、目を落とすと床の目地が波紋を描くように歪んでいた。踏み出すと感触が水面のように柔らかく、靴底が数センチ沈む。慌てて後退すると硬さが戻る。錯覚でも脳の誤動作でもない。世界が局所的に物性を失い、別のパラメータで動作し始めている。階下からかすかな足音が這い上がってくる。誰かが図書館に入ってきたらしい。晴翔は書架の陰に身を潜めた。足音は一度きりで途絶えたが、階段の影から伸びる闇が床を侵食するようにのび、空調の止まった空気さえもたわませている。音はないのに、誰かが「そこ」にいる気配だけが濃く、重く澱んで残った。
ポケットでスマホが震えた。画面にはまたしてもunknownからの通知。「視えているか」。晴翔は誤作動のように速い心拍を押さえ、返信欄に指を置いた。しかしキーボードは現れず、ただカーソルが無数に点滅しているだけ。入力しようとした瞬間、画面が暗転し、フロントカメラが自分の顔を映し出した。その瞳に、背後の書架列が反射している。反射像の中、一冊の書籍だけ背表紙が白い光を放ち、文字が浮かび上がった。「CONTROL」。振り返ると、反射に映った棚にその本はない。振り戻すと、前方の全く別の書架の中で一冊の本が震え、床に落ちた。近づくとタイトルのない白い装丁。表紙を開くとページはすべて未印刷の白紙だが、中央の丁合だけに鉛筆で細い線が描かれ、それが数式の集合へ変じたかと思うとまた白紙に戻る。世界は自己観測の途上で結果を変更し続け、自分もその波に巻き込まれている。
その時、遠雷のような振動が建物全体を貫いた。天井の照明列が一斉にフリッカーを起こし、蛍光灯が断末魔の軋みをあげる。視界がスタッタリングし、フレームが落ちた動画のようにコマ欠けになる。壁の時計は針を三秒ほど逆行させてから止まった。世界がタイムラインの接合部で滑り、整合チェックに失敗したのだ。晴翔が歪む床に踏ん張ろうとした瞬間、視界が一度真っ白になり、音がすべて吸い込まれた。完璧な無音。次いで耳鳴りが爆発した。高周波のノイズが脳髄を焼く。視界に戻った書架列は、左右が逆転し、アルファベット順に並んでいたはずの背表紙が五十音配列へ入れ替わっている。目を閉じると暗闇の内部で白い文字が浮かんだ。「観測点修正」。誰が? どうやって?
晴翔は叫び声を上げたつもりだったが、声帯から発された音は半拍遅れて耳に届き、ピッチが僅かに低かった。言葉が世界と同期していない。床から伝わる振動が止まり、照明の光が通常の色温度へ戻る。時計は再び動き始め、止まっていた針は一気に現在時刻へ追いついた。しかし全てが元に戻ったわけではなかった。閲覧席のテーブル上、長谷部のノートは跡形もなく消え、代わりに小さな紙片が乗っていた。「誰かがループを操作してる」。ついに口に出すまでもなく、紙が自ら結論を提示していた。手に取ると紙は瞬時に熱を帯び、指先で灰に崩れた。
深夜二時五十九分。図書館の自動扉は開いたままだった。外へ出ると風が止んでいる。葉の擦れる音も虫の羽音も無い。世界のBGMがミュートされたように静まり返っていた。キャンパスの遠景がわずかに滲み、空気の奥で稲妻の残光のようにノイズが走る。晴翔は空を見上げた。星がすべて消えていた。黒いキャンバスに、点ひとつない。光の情報を読み込まず、空そのものがレンダリングされていないのだ。世界が書き換えの最中に呼吸を止めている。自分はそのプロセスの只中に立たされている。
ポケットのスマホが再び震えた。unknownからの最後の通知。「4.3に到達する前に止めろ」。指が震えながら画面を閉じる。光を失った空を背に、晴翔は深く息を吸った。世界が壊れる音はしない。ただ、整合の取れなくなった現実が静かに水平線から剥離していく気配がある。自分の記憶の鉛直線が宙に浮き、重力を見失う。だが恐怖の底で、一点だけ冷えた鉄の針のような決意が残っていた。 ──操作者がいるなら、探し当ててみせる。ループの構造ごと掴んで、歪んだ世界を引きずり戻す。
遠くで、再び照明がフリッカーを起こす。その瞬間、晴翔は踵を返し、黒いキャンパスの中へ走り出した。自分の鼓動がフレーム落ちの世界に割り込み、足音が異音を立てながら地面に刻まれる。背後で誰かの気配が波紋を作るが、振り向かない。時間は歪む。世界は書き換わる。それでもまだ、走ることだけは裏切らなかった。