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3-3. 正解だったはずの人生が崩れる

教室に差し込む朝の光はわずかに黄味を帯び、黒板の縁に沿って細長い影をつくっていた。その影の揺らぎを目で追いながら、三崎晴翔は講義の開始を待っていた。机の上には配布されたシラバスとノートパソコン。どちらも二度目の時間で見慣れたはずのものだったが、今日のそれらは微妙に輪郭が甘く、まるでコピーを繰り返して画質が劣化した画像のように不鮮明だった。教授が入室し、出席を取り始める。名簿を読み上げる声は確かに聞こえるのに、耳の奥で反響し、語尾だけが遅れて届く。時間がきしむ音が聴覚に混ざり、文字通り世界が「伸び縮み」している錯覚に陥った。名前を呼ばれ、晴翔は返事をした。声帯が震えた感覚が、皮膚の下を流れる血の温度と微妙にズレていた。講義が始まると、スライドがプロジェクタに映し出された。だがその一ページ目の表題が明らかに違っている。二周目では「メディア論基礎」とあった場所が、今回は「情報文化概論」に置き換わっていた。講師は同じ人物なのに、カリキュラムそのものが改訂され、参考文献リストも別物になっている。晴翔は首筋に汗が滲むのを感じた。自分の干渉が原因で書き換わったのか、それとも“誰か”が別の選択を行った結果なのか。ノートを取る周囲の学生たちは違和感を覚えていないらしく、淡々とペンを走らせる。その滑らかな動きが、逆に世界の「誤差」を強調していた。


講義後、情報発信サークルの部室に向かう。ドアを開けた瞬間、空気の記憶がずれた。壁に貼ってある年間計画表のマーカーの色が前回と異なり、掲示してあるメンバー表から長谷部巧の名前が消えていた。かわりに見慣れない一年生の名前が貼り足されている。まるで巧が最初から存在しなかったように整理され、誰も不自然さを抱いていない。晴翔は慌ててLINEグループのメンバー一覧を確認した。しかし巧のアカウント自体がグループに招待された形跡を残さず欠落している。スマートフォンの履歴を遡っても、彼と交わしたメッセージのログが途中から途切れており、その後には空白のタイムラインが続いていた。ページが破られたノートのように、そこだけが白く穴を空けている。喉がひりつき、呼吸が浅くなる。世界が少しずつ自分の「正解」を削り取り、知らない配置で塗り替えていく。成功の再現ができなくなり、積み上げた関係が勝手にリセットされる。そう気づいた瞬間、脳裏に冷たい水を浴びせられたような衝撃が走った。


午後、学食で遅い昼食をとる。トレーを持って空席を探していると、カウンター越しに水野瑠夏の背中が見えた。彼女は二列後ろのテーブル席で新入生らしき女子と楽しげに話していた。以前の人生では晴翔の隣で共に企画を考えていたはずの彼女が、今日は彼を認識していないかのようにこちらに視線を向けず、笑顔でうなずきながらサークルの説明をしている。晴翔はその横顔に声をかけようと歩み寄るが、足が止まった。テーブル上には配布用の入部案内が置かれていて、そこに記された編集長の欄には別の名前が書かれている。瑠夏自身は映像班ではなく、デザイン班に所属しているらしい。二周目で築き上げた「相互補完」の関係は、最初から存在していなかったことになっているのだ。唇の内側から血の味が滲む。歯を食いしばりすぎたせいだ。声をかける選択肢はまだ残っていた。しかし彼女の目の輝きを曇らせる勇気がなかった。正面から「あの時の私を覚えていないか」と尋ねるのはあまりに脆い自己証明に思えた。


重い足取りでカフェテリアを後にしようとしたとき、背後で聞き覚えのある声がした。「晴翔……?」振り向くと、大迫恭介が立っていた。午前に見たときよりも表情が堅い。目の奥には先ほどと同じ迷いがあり、それを打ち消すかのように笑みを形づくろうとして失敗した痕跡が残っていた。彼は口を開きかけ、しかし何も言わずに視線を逸らした。代わりに胸ポケットから手帳を取り出し、ページを開く。その中綴じの真ん中に、黒いボールペンで殴り書きした「4.3再び」が確かに見えた。その文字を彼自身が意味も分からぬまま書き、書いたことさえ覚えていないような困惑が表情に影を落としている。晴翔は一歩踏み出し、「それ、どこで——」と言いかけて言葉を飲んだ。大迫は焦点の合わない瞳でページを閉じ、震える指先で背後のゴミ箱に手帳を押し込み、硬い笑みを浮かべて言った。「なんでもない。気にするな」その声は自分に言い聞かせるように擦れていた。そして踵を返し、足早に去っていく。その背を追う力が脚に入らなかった。世界が勝手に書き換えた痕跡を、当の本人が自覚しないまま苦しんでいる。晴翔の視界で、廊下の天井照明がちらつき、ほんの一瞬だけ光が飛んだ。白いフレームアウトのように映像の一部が欠落し、すぐに戻る。その刹那、現実がビデオ編集ソフトのタイムラインで切り貼りされたクリップのように感じられた。


夕刻、寮の自室に戻ると、パソコンはスリープ状態になっておらず、デスクトップに大量のログファイルが生成されていた。開くと英文と数字が無秩序に並び、その末尾に「これで満足か? 次はずれる」という一文があった。タイムスタンプはわずか十分前。部屋には鍵をかけていたし、物理的な侵入は考えにくい。だが操作ログには確かに入力履歴が残り、IPアドレスは「localhost」。まるでパソコン自身が自動的にファイルを作成したかのようだった。モニタの背後で空気が震え、視界の端で壁紙の色相が変わった気がしたが、瞬きをすると元に戻っていた。世界がノイズを発し始めた前触れ。そう理解した瞬間、背筋の芯が冷えた。


夜、ベッドに体を横たえる。天井板のつなぎ目が波打ち、木目が逆流するように動いた気がして目を凝らすが、次には何事もなく元通りになっている。鼓動が速まり、皮膚の下で血管が脈を打つたびに、世界の輪郭がわずかに滲む。過去の知識は通用しない。人間関係も崩される。功績は書き換えられる。最適解を求めた選択は、次の周回で「不正解」に置き換わる。抗いの手がかりは残らずテーブルから払い落とされ、カードはまた裏向きで配り直される。もしこれが誰かの意志だとすれば、その意志は自身よりも早く、深く、広く世界に浸透している。残された時間の計測も意味を失い始め、時計の秒針は等間隔を保てず、時おり飛び越えるように進み、あるいは戻った。


まぶたを閉じると、暗闇の内側で白い文字が滲んだ。「正解を書き換える者がいる」。その文字列は意識に焼き付いた後、途端に崩れ、黒い雨粒のように散り散りになった。晴翔は息を吐き、わずかに笑った。どれほど世界がずれようと、自分が“次”に向かう選択肢だけは奪えない。だが正しい道はもう見えない。霧が濃くなる夜の道路のように、先は視界に入らない。それでも足を運ぶしかない。暗闇の向こうで、世界が再び音を立てるのを待ちながら、覚悟の輪郭を胸中に刻み続けた。

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