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3-2. 誰かも、繰り返している

午後の光は青みを帯び、講義棟の窓ガラスに長い影を描いていた。晴翔は階段を下りながら手すりに触れ、その金属の冷たさが指先に残す微かな震えを確かめていた。講義中に覚えた違和感の余韻が、まだ皮膚の裏側でざらついている。聞こえてくる学生たちの足音や談笑の響きは確かに同じ日常の調子をまとっているはずだったが、言葉の抑揚がわずかにずれて聞こえ、笑い声は半拍遅れて届くように感じられた。廊下の端に設置された掲示板には履修変更の締切を知らせる張り紙が掲げられている。文字のフォントも余白の取り方も、前回と同じはずなのに、わずかに行間が広い。そんな細部の差異が連鎖的に視界へ押し寄せ、胸の奥の静脈をたたく鼓動だけが頼りなく早まっていく。


外に出ると、キャンパスの桜はまだ蕾を保っていた。だが枝先の膨らみ方が一度目とも二度目とも微妙に違って見えた。空気は乾いていて、遠くの雲の形がまるで上手く描かれなかった鉛筆線のようにぼやけている。温度も湿度も記憶と一致しない。世界が模倣の精度を落としながら再構築されたかのような感覚が、視覚と嗅覚の奥に静かに沈殿していた。周囲の学生たちは誰もそれに気づいていない様子で、新学期特有の浮き足立った会話を交わしている。それがかえって異様だった。完璧な再演のはずの舞台で、小道具の一部が粗雑に入れ替えられている。観客には気づかれないだろうが、役者である自分にはごまかしの露呈に見える。


中央広場を横切り、図書館へ続く並木道に差しかかったとき、晴翔は左側のベンチに腰掛ける大迫恭介の姿を見た。淡いグレーのパーカーにジーンズといういつもの学生らしい装い。だが視線の先には何かを探すような焦点の定まらない空白があり、手元のノートを開いたままページをめくる動作が不自然に遅い。晴翔の心拍が瞬時に跳ね上がる。大迫は一度目の時間では最も多くの時間を共有した親友であり、二度目では意識的に距離を置いた結果、ただの顔見知りとして終わった男。その彼が今回は初日から視界の中央へ鎮座している。偶然なのか、必然なのか。足を止めると、大迫がふと顔を上げた。その瞳が晴翔を捉える。目線がぶつかった瞬間、相手の表情がわずかに凍る。驚きではない。戸惑いと迷いが複雑に絡み合い、それを覆い隠すように緩慢な笑みが浮かんだ。覚えている。いや、思い出せそうで思い出せない。そんな困惑が瞳の奥で震えていた。晴翔は咄嗟に視線を逸らし、並木道をそのまま真っ直ぐ歩き去った。追いかけてくる足音はなかった。しかし背中に残る感覚だけが、木陰より濃い影を落とした。


図書館前の自動扉が開くと、ひんやりとした空調が皮膚を撫でた。館内にはまだ人が少なく、閲覧席の大半が空席だった。晴翔は二階の個人ブースへ足を運び、奥まった席に腰を下ろす。呼吸をゆっくり整え、鞄からノートPCを取り出した。ディスプレイを開いた瞬間、指が止まる。デスクトップに見覚えのないテキストファイルがあった。タイトルは「4_3.txt」。嫌な汗が手の甲ににじむ。クリックすると、ウィンドウに短い文だけが表示された。「終わる前に気づけ。次は誰がいる?」署名も日時もなく、編集履歴も残っていない。誰がいつ書いたのか判断できない。しかし自身以外の誰かが、PCを操作した痕跡が存在するという事実。図書館のフリーWi-Fiに接続し、ログを確認したが、不審なリモートアクセスの痕跡はない。物理的に操作されたとしか思えなかった。背後を振り返ると、本棚の列が静かに並ぶだけ。人の気配は希薄だった。それでも誰かがこの世界の裏側から自分を見つめている。そんな確信が、背骨を氷で包む。


閲覧室を出てエントランスへ戻る途中、階段の踊り場で牧野詩織を見かけた。彼女は文庫本を抱え、エスカレーター横の掲示板を見上げていた。掲示板には「詩作ワークショップ参加者募集」と書かれた新しいポスターが貼られている。だが紙面の下部に小さく記された主催者名が、前回の記憶とは違っていた。二度目の時間では詩織がそこに名前を載せることはなかったはず。だが今回は、彼女がまだ誰とも言葉を交わさないまま、そのワークショップの案内をじっと読み込んでいた。まるで晴翔が避けた“関与”の穴を埋めるように、別の選択肢が彼女の前に提示されている。世界が、彼なしでも正しい形を探そうと自己修復を始めたかのようだった。


午後のガイダンスを受けるために講義棟へ戻ると、教室の最前列に座る長谷部巧の姿があった。二度目の時間で親友となった彼は、今回は机にヘッドフォンを置き、スケッチブックにいくつかのサムネイル画を描き込んでいた。だがサークル配属表を見る限り、長谷部の名前は映像班ではなく、写真班の欄に記されている。編集ソフトの扱いに長けていたはずの彼が、なぜ写真に? 晴翔は講義室の入口で足を止め、掲示物を再確認した。名前は間違いなくそこにあり、他の配置も前回と大きく変わっていた。世界が、彼のいないところで再配列されている。そんな実感が、胸の内側で鈍く響いた。


ガイダンスの途中、配布されたシラバスをめくると、講義の参考文献リストが一部書き換えられていた。二周目で提出した改善要望の内容が反映された形だった。だが晴翔は、その要望を今回はまだ出していない。出していないのに、結果だけが先に現れている。誰かが自分と同じ道筋をなぞり、同じ提案をし、同じ修正を既に済ませたということなのか。それとも、世界自体が「前回の学習結果」を自動的に反映したのか。いずれにせよ、この時間軸は彼の知らない力に引きずられながら、わずかながら別の方向へ進み始めていた。


夕方、構内のカフェテリアで軽食を取ろうと列に並んだとき、再び大迫恭介を視界に捉えた。彼はテーブルに突っ伏し、ノートを開いたままペンを止めていた。テーブルの隅には厚手の手帳が置かれている。何気なく視線を落とした瞬間、表紙の端からはみ出た付箋に走り書きが見えた。「4.3再び」と細い文字で書かれていた。心臓が跳ね、手にしていたトレーが揺れた。大迫は顔を上げ、視線を上げた先で晴翔と目が合った。その瞳は驚きよりも、むしろ理解を求めるような光を宿していた。だが次の瞬間、彼はそっと手帳を閉じ、無言で視線を逸らした。晴翔は足元の重さに耐えながら、列を外れてカフェを出た。背後に残る大迫の気配は、不自然なほど静かだった。


外に出ると夕焼けが空を焼き、校舎の窓一面に橙の斑紋を映していた。風が吹き、草木がざわめく。その音が、まるで遠くから聞こえるテープの逆再生のように歪んでいた。晴翔はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点けた。通知はほとんどなかったが、ホーム画面のウィジェットに日時が表示される。そこに記された「2022年4月3日」の数字は、ほんのわずかな揺らぎを帯びているように見えた。スクリーンのガラスの下で、数字の輪郭が揺れ、時間が定着しきれない。世界の基盤が微かに震えている。そう感じた瞬間、深呼吸をするのが難しくなった。


寮の部屋に戻ると、机の上に置いていたノートパソコンの位置が数センチずれていた。電源ボタンを押すと、前回にはなかったフォルダがデスクトップに現れた。「REPEAT_2」。開くと、そこには一枚の画像ファイルが入っていた。表示すると、真っ黒な背景の中心に白い円が描かれ、細い線で「誰かが見ている」とだけ記されていた。作成日時は「2022/04/03 12:34」。その時間、晴翔は図書館にいた。自分が不在の間に、誰かが部屋に入り、このファイルを残したのか。それとも、視えない何者かが“世界の裏側から”メッセージを送ってきたのか。頭の奥で血管が脈打ち、こめかみを鈍い痛みが叩いた。


ベッドに腰を下ろし、深呼吸を重ねる。部屋の静けさが耳鳴りと混じり合い、時計の秒針の音すら歪んで聞こえる。自分だけのループだと思っていた世界に、確かに“他者の痕跡”がある。それは恐怖であり、同時に救いの兆しでもあった。一人ではない。誰かも、繰り返しているかもしれない。だが、その誰かが味方かどうかはわからない。むしろ自分より一歩先を行き、世界を先回りして書き換えている存在の可能性もある。時計の針が二十時を指す頃、窓の外で風が強まり、カーテンが揺れた。その揺れの向こうに、誰かの影が一瞬映った気がした。だが次に瞬きをしたときには、影は夜の闇に溶けて消えていた。晴翔は電気を消し、ベッドに横たわる。目を閉じると、暗闇の向こう側で白い文字が浮かび上がる。「4.3再び」。その文字は、まるで世界の核心を告げる符丁のように、意識の表面でゆっくりと燃え続けていた。

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