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3-1. 巻き戻された朝に、違う影

目を覚ました瞬間、晴翔はすぐに違和感に気づいた。目の前に広がる天井の模様は、見覚えのあるものだった。だが、それが“今の自分”にとってどの時間軸のものかを判別するには、一瞬だけ思考が追いつかなかった。体の重み、シーツの肌触り、窓の隙間から差し込む光の角度——どれも、2022年4月3日と一致していた。つまりまた、ここに戻ってきたのだ。三度目の春。だが今回は、それが“ただの繰り返し”ではないことを、彼の神経の奥が告げていた。


まず気づいたのは、スマートフォンのロック画面に表示されている日付と時刻が、前回と微妙に異なっていたことだった。正確に言えば、時間が6分だけ遅れていた。それ自体は些細な差異だったが、晴翔の中でそれは“既視感のノイズ”として強烈に突き刺さった。三年分の記憶を経て、もう一度この日を迎えるのは二度目だ。だからこそ、ほんのわずかなズレが、全体の不協和音を奏でる。歯車がきしみ始めたような音が、現実の隙間から聞こえてくる気がした。


部屋の中は、かつての春と何一つ変わっていなかった。机の上の教科書、空になったペットボトル、カーテン越しの街のざわめき。それらは忠実に再現されていたはずだった。だが視線を移すたびに、「微妙に違う」という直感が沸き起こった。ペットボトルのラベルが最新のものではなく、少し古いバージョンだったこと。教科書の中に挟んでおいたはずのメモが、今回は存在していなかったこと。朝食を取ろうと開いた冷蔵庫の中身が、前回とは違ってバナナが一本多かったこと。それらすべてが、世界の“再現精度の劣化”を示しているようで、恐ろしさよりも不安が先に立った。


通学路を歩く足取りが、普段よりも重く感じられた。空はやや曇り気味で、前回の4月3日よりも光の量が少ない気がした。交差点の信号のタイミングも、音のリズムも微妙に違っていた。駅前のコンビニで流れる店内BGMが、ほんのわずかにテンポの遅い別バージョンになっていることに気づいたとき、晴翔は思わず足を止めた。記憶が正しければ、初めてここを通ったときには、アップテンポな洋楽がかかっていたはずだった。


大学のキャンパスに近づくにつれて、再び目にする顔ぶれが増えていった。最初の周回で出会った知人たち、二度目で交わることのなかった人々、あるいは三年を共にした仲間たち。だがその誰もが、今回はまだ彼を知らない。知っているのは、自分だけだ。三度目のこの日を迎えてしまった自分だけが、この光景に異物として存在していた。だがそれすらも、今回に限っては「完全な繰り返しではない」と、世界が告げていた。


講義棟へ向かう坂を登る途中、掲示板の掲示物に目をやった。張り出されている科目案内が、前回と微妙に異なっていた。担当教員の名前が一部変わっている。履修推奨の組み合わせが異なっている。しかも、その内容は晴翔が“二周目”で提案し、反映された改善案に酷似していた。だが、それを誰が提出したのかはわからない。この世界が、彼の選択を部分的に“学習”しているかのような錯覚に襲われ、背筋が冷たくなった。


教室のドアを開け、初回ガイダンスに参加する。学生たちは皆、新入生らしい緊張と高揚をまとっていた。だが、最前列に座っている男子学生のノートにふと目が留まった。筆記のスピード、図の配置、要点のまとめ方。どこかで見覚えのある構成。それは、かつて自分が実際に作成し、誰にも見せていなかったノートの内容に酷似していた。まさか——。そう思った瞬間、晴翔の脳内で何かが接続された。誰かが、自分の“やり直し”をなぞっているのではないか。いや、誰かがこの世界のどこかで、自分と同じように“巻き戻り”の中を生きている可能性がある。


講義が終わり、廊下を歩いているとき、不意に肩をぶつけられた。顔を上げると、大迫恭介だった。一度目の人生で最も親しかった存在。二度目ではすれ違いだけだった彼が、今回は何かを確かめるようにじっと晴翔を見つめてきた。その視線の奥に、“知っているのに思い出せない”という混乱の色が宿っていた。晴翔は言葉を発することができなかった。ただ、その目の奥に映った“違和感”の波紋だけが、深く心に残った。


寮に戻り、晴翔は部屋のノートを広げた。これまでの人生の記録、感情の断片、選択の履歴を残していたページをめくる。そこに、自分の筆跡ではない文字が混じっていた。「見ているぞ」。その五文字だけが、インクの濃淡も不自然に、そこに記されていた。書いた記憶はない。だが、それがこの世界の誰かによる“反応”であることは、直感で理解できた。三度目の時間軸は、確実に異なる。そして、このループに関与しているのは、自分だけではない。


晴翔は、ようやく確信する。今回の世界は、ただの再演ではない。これは、前とは違う世界だ。巻き戻されたはずのこの朝に、確かに“別の影”が差していた。

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