2025年4月3日。三崎晴翔は、大学生活最後の朝を迎えていた。新年度の喧騒が始まる少し手前、春の光が部屋に差し込む頃、彼は静かに目を開けた。窓の外では、通学路に向かう新入生らしい姿がちらほらと見え、街は少しずつ目を覚ましていた。スマートフォンの画面には、日付が明確に刻まれていた。「2025年4月3日(木)」。その数字を見た瞬間、胸の奥がうすら寒くなった。今日が来ることは、ずっとわかっていた。それでも、今日を“迎えてしまった”ことに、言いようのない焦燥が生まれた。
この三年間、彼は徹底して生き直した。記憶の中にあったあらゆる失敗と、すべての後悔を地図に変えて、正解とされる道筋を選び続けた。情報発信サークルでの活動は順調に結果を残し、起業志望者向けの学生コンペで受賞した企画は企業との共同プロジェクトにまで発展した。実務経験を重ねながら、映像制作の外注も請け負い、編集・ディレクション双方のスキルを培った。長谷部巧とは、大学2年から3年にかけての最も濃密な時期を共に駆け抜け、彼との映像プロジェクトは、学内外で話題を呼んだ。瑠夏とは、3年次の冬に関係がいったん途切れたが、それでも互いの成果を認め合う距離感は保ち続けていた。
就職先は都内のスタートアップ系広告会社。内定は秋には決まり、晴翔は卒業式を終え、わずかに残った春休みの“猶予”を静かに過ごしていた。それが今日、終わる。ずっと背後からついてきた気配が、とうとう目の前に立ちはだかったような、そんな感覚だった。
春休みといっても、やるべきことは多かった。部屋の引き払いの手続き、引っ越し業者への連絡、就職先から届いた研修資料の確認。そうした雑務を一つずつ潰していく中で、彼の手帳にはただ一つだけ、空欄のまま残っている日付があった。「4月3日」。この日だけ、どんな予定も書き込むことができなかった。何かが起きるのではないかとずっと感じていた。厳密にいえば、今日が“終わり”ではなく“起点”だったことを、前回の人生では、知らされることなく迎えてしまった。
朝食を済ませ、コーヒーを淹れ、スーツケースを開いて中身を確認する。いつもの朝のルーティンのはずだったが、すべての所作に微かな違和感がつきまとう。まるで、昨日まで確かだった現実が、今日だけは地面のわずかな傾きで変質し始めているような感覚。鏡の前で身支度を整える自分の顔に、どこか他人のような影が差していた。思えばこの三年、“変わらない自分”というものを一度も感じたことがなかった。時間に逆らって進むという行為は、予想以上に静かな消耗を強いられる。未来を知っているというだけで、すべてがうまくいくわけではない。記憶の道しるべは、あくまで“可能性”にすぎず、選ぶのは常に自分だった。だからこそ、ここまで来たことに、晴翔は自負を持っていた。だが、その誇りのすべてが、またあの“起点”に巻き戻されるのではないかという恐怖が、日ごとに濃くなっていた。
昼過ぎ、何の前触れもなく、スマートフォンに一件の通知が届いた。差出人不明。件名もなく、本文にはただ一文。「透子を思い出して」。その文字を見た瞬間、手の中のデバイスが氷のように冷たくなった。指先が震えた。その名前は、今の人生の中で誰にも語ったことがない。どこかで見た記憶も、確かな輪郭もない。それでも、その言葉は自分の奥底を直接揺さぶるような力を持っていた。思い出せないのに、忘れていた気がしない。そんな矛盾をまとった名前だった。
時計を見ると、15時。なぜかこの時間が恐ろしく感じられた。前回もそうだった。葬式の動画が拡散されたのも、SNSで名前が拡がり始めたのも、確かこの頃だった。自分が“死んだことになっていた”という通知を初めて見たのが、まさにこの時間帯だった。その記憶は、何度思い返しても霞がかかっていた。だが、その日が“特別な終わり方をした”ことだけは、はっきりと身体が覚えている。
16時になる頃には、街の色彩が変わり始めていた。光は橙を含み、影は長く引き伸ばされていた。晴翔は、ひとり暮らしの部屋のソファに座りながら、ただ外の景色を見つめていた。街は、何事もないように流れている。自転車が通りすぎ、犬の散歩をする老夫婦がゆったりと歩く。ベランダに干された洗濯物が風に揺れ、隣の部屋から子どものはしゃぐ声が聞こえた。それらすべてが、「今日という一日」を何事もなく終わらせるための演出に見えた。
夕方、また一つ、通知が届いた。「君の葬式、行ったよ」。動画のサムネイルとリンクが添えられていた。その構図は、三年前とまったく同じだった。名前は伏せられているが、言及されている内容は自分のものだった。SNSには、“これは誰だ?” “またフェイク?” “でも映ってるの、あの人じゃない?”という断片的な声が並び始めていた。
その瞬間、すべてが変わった。視界が波打つように揺れ、頭の奥に鈍い痛みが走った。目の前の空気がねじれ、音が反響し、現実の輪郭が溶けていくような感覚。立ち上がろうとした体が重く、床の感触が急速に遠のいていく。スマートフォンが手から滑り落ち、画面の中の“再生ボタン”だけが、最後まで光っていた。
世界が暗転する直前、耳の奥で、誰かの声がした。
「また、ここからだよ」
そして、すべてが、光のない静寂へと吸い込まれていった。