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2-3. 理想の人生に近づく速度

梅雨の気配が街に忍び寄っていた。朝晩の気温差は微妙に身体を揺さぶり、昼間の空は灰色のフィルムをかけたような鈍い明るさを纏っていた。晴翔は相変わらず時間を細かく管理しながら日々を進めていた。やるべきことは多かったが、やろうとしていることの輪郭が明確である分だけ、目の前の時間は迷いなく過ぎていった。1回目の人生では感じられなかった「生きている実感」が、皮肉にも“再挑戦”によって与えられているという事実に、時折微かな罪悪感のようなものが波紋のように胸を打つことがあった。だがそれすら、今の晴翔にとっては前進の一部だった。


大学生活の基盤は、確実に安定し始めていた。履修した講義は順調に進み、提出課題は締切前にはほぼ完成していた。講義中にはノートパソコンを開き、板書と同時に要点を要約しながら記録する。後で見返す必要もないほどの精度でノートは整理され、教員からは「参考にさせてほしい」と言われるほどだった。かつては教室の隅で目立たぬように座っていた自分が、いまや前列に位置し、教員と目を合わせながら頷く側にいる。それは何かを誇るためではなく、ただ「無駄にしない」ための姿勢だった。


情報発信サークルでは、晴翔のアイデアを起点に始まったいくつかのプロジェクトが学内外で話題になっていた。インスタグラムの縦型ストーリーズを使った“日替わりドキュメント”企画、音声投稿と匿名テキストを連動させた“声の手紙”プロジェクト。どれも既に未来の社会で定着している形式を、数年早く実装しているだけに過ぎなかったが、それがいまの時代の中では異常なほどの“先見性”として評価されていた。


特に、水野瑠夏との関係は、外部から見れば「相互補完」の理想的なパートナーとして認知されつつあった。編集作業や企画会議の合間に交わす言葉、空気の間に沈む沈黙すらも自然で、必要以上の言葉を重ねる必要がなかった。彼女は晴翔の“異質な知識”に時折驚きを見せるものの、それを過剰に追及することもなく、自分の役割を果たすことに集中していた。ある種の賢明さが、関係性の境界線を守っていた。晴翔は彼女との距離感を保つことで、この時間軸での人生を“乱さずに保つ”ためのバランスを取っていたのかもしれない。


この頃、サークルにもう一人、印象的な人物が加わった。長谷部巧。動画編集班に新しく配属された学生で、最初の自己紹介で「映像の仕事を志望している」と語ったその声は、静かで確信に満ちていた。長身で細身、無駄な動きをほとんどしない印象の男だった。彼が初めて提出したテスト編集用の動画は、構成力と演出意識の点で群を抜いていた。晴翔はその動画を見て、思わず目を見開いた。情報量の配置、カットのテンポ、タイポグラフィの扱い——いずれも、プロに迫る洗練さがあった。初対面で交わした会話はわずかだったが、直感的に“ただ者ではない”と感じた。


それから何度か作業を共にする機会が増えていった。長谷部は多くを語らないが、求められた役割に対する応答は迅速で的確だった。数少ないやり取りの中で、晴翔は彼の目に時折浮かぶ“空虚な光”のようなものが気になった。過去を背負っているというより、何かを探し続けている者の目。どこか、自分と似ている気がした。


理想の人生は、確かに目の前にある。知識、実績、関係、全てが整いつつある。だがそれは、ある“基準値”に向けて最適化されたレールの上を、全速力で走っているだけなのではないかという疑念もまた、日ごとに濃くなっていた。どれだけ整えられた日常でも、そこに“驚き”が存在しないなら、それは生きていることになるのか。そう問いかけたところで、答えはどこにもなかった。


六月のある朝、目が覚めた瞬間、いつもと違う静けさを感じた。スマートフォンには、見慣れたSNSの通知がいくつも並んでいたが、その中にひとつ、見慣れないアイコンが混じっていた。「あなたの未来を覚えていますか?」という謎めいたメッセージ。それは、名もなきアカウントから、ただ一行だけの文章として届いていた。


晴翔は、その画面を見つめたまま、ベッドの上でじっと動かなかった。

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