昂我と山籠もりしてる時も笑いながら熊を素手で殺し、笑いながら鍋にして食べたっけ。崖から突き落としてくれた時も、森の中でサバイバルさせやがった時も、全部笑ってたなあ。
初めは虐めて笑ってると思ってたんだが、今思えば一緒にいるのがあの人も楽しかったのかもしれない。
そう、確かに師匠も初めて出会った時に言っていた。
あの絶望すらも理解できなかった時に。
『人生捨てたもんじゃねーって思わせてやるよ、坊主』
小さすぎるときの記憶は断片的過ぎてあまり覚えていないが、左目が無くなった事故のときに師匠が助けてくれたのだという。
そのときの笑顔だけは今もしっかりと覚えている。
泣いているくせに、なんでこんなに笑ってるんだこの大人は、と思ったんだ。
(もうどうしたら良いのかも分からないのに、この先良い事なんてありゃしないって思ってたんだが……思いの他、楽しい事って多いんだよなあ……)
天気がいいだけでも楽しくなるし、道端に花が咲いてるだけでも嬉しい時だってある。要はその時の自分がそれに目を向けられる余裕があったかどうかの話。
(だから、放っておけなかったんだ――あのときの凛那を――)
諦めを受け入れちゃ、楽しい事に気づける余裕なんかない。
水面は遠く、月の光が水面に揺れている。
右手を持ち上げようにも、あまりにも外界は遠くて、手が届かない――。
もう終わってしまってもいいのかもしれない。それは朝の眠気にも似ていて、全身を優しく包み込む。だが今こそは起きなくてはいけない、ここでの二度寝は二度と帰ってこれない。
(終わりたくねえ、素直に、諦めたくねえ……)
――――――。
伸ばした腕は力なく水面から離れて、
「昂我様!」
腕を引っ張り上げられ、昂我は大きく咳込んだ。
「ガ、フ、ガフッ!」
口から生臭い水が吐き出される。
体は引きずられるように無理やり水面から引っ張り上げられた。
「少し痛いでしょうが、我慢してくださいまし」
霞んだ瞳で見上げると、そこには青と白を基調としたエプロンドレスを着た少女、ナイトレイ家のお手伝いさん、夕陽さんがいた。
「う、うがああっ」
「止血いたします」
脇腹を見ると貫かれたと思っていたのに鉄パイプは刺さっておらず、黒いパーカーは赤黒く己の血に染まっていた。
「出血は酷いですが異物はありません。不幸中の幸いか何かが衝撃を吸収したのでしょう」
衝撃を吸収するようなものを身にまとっていた覚えはなく、あの感触は鉄パイプが体に刺さった気でいたが、どうやらそれは思い違いだったようだ。
「一度お屋敷に戻りましょう、お話は歩きながら」
何処から取り出したのかびしょ濡れの昂我をタオルで拭きながら、急いで立ち上がらせてくれた。彼女の表情からも焦りが感じられ、何やら嫌な予感がする。
「お背中をお貸ししましょうか」
「ありがとう夕陽さん。大丈夫さ、こう見えて鍛えてるんでね」
改めて歩きだそうとするが、足を河原の朽ち木に引っ掛けて転びそうになり、夕陽に支えられた。
「ふふ、肩をお貸ししましょう」
「すまない、今日は調子が悪いようだ」
走っていた時よりも体が重い。服がびしょ濡れになり脇腹が刺され体力が落ちていることも考えられるが、それ以外の要因があると思うのは確実だった。
何故なら河原にこれほどはっきりとした昂我自身の足跡が付くはずがない。通常の体重に加えて三十キロは増えているのではないだろうか。
夕陽の力を借りて傾斜を何とか登りきる。ファントムの姿は近くに見当たらず、もしかしたらまだ昂我を探しているのかもしれない。
明らかに昂我に対して何らかの意思を持っていた気がするのは確かだ。
体重も増加し、何度かせき込む昂我に気を使いながら、夕陽はゆっくりと、だが少し急いでナイトレイ家を目指した。
いくらか落ち着いたころ、夕陽さんが口を開く。
「お時間がございませんので、失礼かもしれませんがお許しください」
夕陽さんの声は焦りが消えておらず少し早口だ。
「ここ最近――正確には黒騎士を拘束した夜から、凛那さんと何処かでお会いしましたか?」
(黒騎士を拘束した夜……あの零の日からだろう)
「いや、俺はあの後、風邪で数日寝込んでしまって……会うどころか連絡も取ってなかった」
「そうですか……」
当てが外れたのか夕陽の声は明らかに残念そうだった。
「凛那さんのお姿が一昨日からありません」