目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第11話

茹だる日差しが肌を焼く。


青海ヶ丘中学に進学して2回目の夏、まさか女の子の体になって迎えることになるなど、想像もしていなかった。


陽炎揺らめく通学路を歩む真の足取りはおぼつかず、学校が8月をなぜ休みにしたのか、それを身をもって理解しているところだった。

学校に行くことが苦ではない真ではあるが、照りつける暑さの中ではそうも言ってはいられない。

上半身にくっついたふたつの大きなが、この長い上り坂をことさらに苛酷なものにしていた。


「あ……つぅ……」


大きな汗の滴が、額を、頬を、首筋を転がり落ち、蒸れた胸の谷間へと汗が吸い込まれていった。


なければないで困るものだが、ブラジャーという拘束衣とこの季節の相性は最悪と言わざるを得ないのが、真の所感だった。

この夏の補習仲間であるいく乃からは夏に蒸れづらいブラの存在を教わったのだが、こんな体になってもなお女性用下着売り場にひとりで行く勇気は、真にはない。

いずれは乗り越えなければならない試練ではあるのだろうが、それはまだ先のことになりそうだ。


正門をくぐり、運動部が練習に励むグラウンドを横目に校舎へ入る。

校舎の中も土足の学校のため下駄箱というものはなく、真は新調したスクールバッグを担ぎ直してそのまま別棟の特別教室へ向かった。


鉄筋コンクリート製の建物の中はいささか涼しく、汗ばんだ肌の表面を少しだけ冷却した。


「おはよう、黒崎君」


他の教室のおよそ半分ほどの広さの特別教室、出迎えたのは保健医の春華だ。

教壇に用意したパイプ椅子に脚を組んで腰を下ろし、今日の補習で使う教科書に目を通していた。


どうにも暑苦しく見える白衣姿は相変わらず、春華は涼しい顔をして着こなしている。

胸ポケットには、黒いボールペンばかりが数本差し込まれていた。


「おはようございます、神門先生」


春華に挨拶を返し、机の横に鞄を掛けて席に着く。

間も無く始業のチャイムが鳴った。


「それでは1時間目を始めよう。黒崎君、まずは復習を兼ねた小テストからだ」


パイプ椅子から立った春華が、真へプリントを手渡す。

単元ごとに1つずつ設問された、簡易な復習問題だ。


ペンケースからHB鉛筆を取り出し、解答欄へ走らせていく。

すぐに解答を導けない部分があり、鉛筆の端を唇に置いてしばし思考、どうにか答えに辿り着いて、また手を動かす。


こうした補習に伴う小テストなどももちろん春華が作っているのらしいが、そもそも、ただの保健医であるはずの彼女がどうして補習の担当教師として選ばれているのかを以前、真は不思議に思って春華本人に尋ねたことがあった。


「その理由は実に簡単だ。何故なら私が高等教育までの全ての科目を網羅しているからだ」


春華が頭抜けた頭脳を持っているということに真は今更驚きもしないが、では、なぜ保健医を選んだのかが更に気になるところだった。


「私が中学の時にいた保健医が暇そうだったのでな」


春華もまたこの青海ヶ丘中学の卒業生だ。

当時の保健医のことなど真には知りようもないが、暇そうなどという理由で保健医のポストに居座っていることに、呆れた。


堅物で真面目そうなのは、あくまで彼女の表面的なキャラクターに過ぎないらしかった。


「終わりました」


鉛筆を置き、回答を終えたプリントを春華へ返す。


真の答案用紙を預かった春華が、ざっとそれに目を通していると、廊下から、バタバタと大きな足音が教室に向かって近づいてきた。


「おくれてごめんなさいっ!」


そう叫んで教室に飛び込んできたのは、明るいウェーブヘアをツインテールにまとめた女の子、いく乃だった。


汗だくの彼女は制服ではなく、クロップドトップスにレギンス、バッシュという格好をしていた。

濡れた前髪が上気したその可愛らしい頬に張り付いているのは、遅刻する授業に走ってきたからという理由だけではなさそうだった。


「おはよう、天衝寺君」

「おはよ……んっ、春華、せんせぇ……はぁ、はぁ……まこっちゃんも……」

「うん、おはよう。どうしたの?」

「ダ……ダン……ダンス、レッスン……」


肩で息をするいく乃はよたよたと自分の席に向かうと崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。


「補習あるし……朝練だけでようとおもってたら夢中になっちゃって……深雪ちゃんにゆわれて、あわてて……はしってきて……」

「廊下を走って来たことは褒められはしないが、授業への意欲は認めよう。まずは呼吸を整えたまえ、それまで授業は中断しよう」

「ありがと……春華せんせー……はぁ、はぁ……」


そう言って、いく乃はクロップドトップスの襟元を摘んで扇いだ。


「ダンスレッスン?」


気になった真はいく乃に尋ねた。


「そうそう。10月の学園祭、いく乃たちのステージあるから、それの練習」


青海ヶ丘中学は毎年、体育祭と文化祭を同じ週にほぼ連続して開催する。

引っ括めて学園祭として先生や生徒たちは呼んでいるのだが、文化祭にて〈ヴァルキリーズ〉のライブパフォーマンスがあるらしい。


「はぁ……5曲連続とか、さすがにハードすぎぃ」


いく乃は腰に下げたフェイスタオルを取ると、トップスの襟元からその豊かな胸の谷間に捻じ込んで、裾のほうから引っ張り出した。


暑い時に真もたまにやる動作だ、流石に人前でまだしたことはないが、いく乃からすれば真はもうの友人としてカウントされているのかもしれない。


「楽しみにしてるね」


〈ヴァルキリーズ〉のファンは現在も継続中だ、家事をする時や買い物に行く時だって今もミュージックプレーヤーで彼女たちの楽曲を真は聴いている。


その彼女たちのパフォーマンスをライブで見られるのだから、楽しみとは単にリップサービスで言う訳ではない。


「がんばるよぉ……」

「さて、そろそろ授業を再開しよう。天衝寺君、教材はあるかね」

「え?」

「……黒崎君、見せてあげなさい」




今日の補習授業も終わって、放課後。

いく乃の席とくっ付けていた机を戻し、鞄を肩に担いで帰ろうとしていた真はいく乃に呼び止められた。


「まこっちゃん、この後予定ある?」

「予定?ないけど、帰ってご飯つくるくらい」

「よかったらさ、いく乃たちのレッスン見ていかない?」


願ってもないことだった。


いく乃に連れられて向かったのは別棟の空き教室だった。

ラジカセが奏でる〈ヴァルキリーズ〉の楽曲と、忙しなくバッシュが床に擦れる音が廊下にまで響いていた。


「ワン、ツー、さあもっと!」


ダンスの指導員と思われる男性の野太い声が聞こえた。

扉を開けると、クールビズスタイルを引き締まった長身で着こなす黒い肌の男性が、手拍子でリズムを刻みながらメンバーに向かって声を張り上げる姿が見えた。


「ミズ熾ヶ原、腕が下がってるわ!」

「はいっ!」

「ミズ緋ノ沢、顔を上げて!みんな貴女の顔を見たいはずでしょ!?」

「はい……っ」

「ミズ久留瀬!理想的よ、でももっとよ、もっと魅せて!」

「はい!」

「あなた達が披露する5曲!その僅か30分足らずの時間!みんなは非日常を求めてるの!あなた達が違う世界へ連れて行ってくれることを期待してるのよ!?できるでしょ!〈ヴァルキリーズ〉!」

『はいっ!』


クイック、ターン、スロー。

クイック、またスロー、ターン、そしてストップ、スロー、さらにクイック。


一分の妥協も許さない白熱したレッスン、激しく踊り続けるアスカ達の表情は真剣そのものだ。


真たちが入って来たことにも気づいていないかもしれない、そう思えるほどに今の彼女達の目には余分なものが映ってなかった。


「Well done!」


ラジカセの音楽が止まり、指導員の男性が3人へ拍手を送った。

真も思わず、ぱちぱちと手を叩いていた。


練習とは言え、彼女たちのパフォーマンスをこの目で見ることができたのは感動の他に言い表しようがなかった。


「すごく良くなったわ、みんな。今日はここまでにしましょう」

「まだ……まだ、できるわ」


顎に伝う汗を拭いながら、アスカはそう言った。


それぞれいく乃と同じクロップドトップスとレギンスという練習衣装、アスカだけでなく深雪もめくるも襟元の色が変わるほど汗だくだ。

けれど、ふたりもアスカと同じようにその目はまだやれると言っていた。


「素晴らしい闘志よ、ミズ熾ヶ原。ならそれは明日に爆発させなさい、もっといいパフォーマンスができるわ。他のふたりも。自主練は止めないけれど、体を休ませてあげることも大切よ。では、また明日」


そう言って振り返った男性と目が合った。

年齢はおそらく30代、頭髪を短く刈り込んだブラックアメリカンで、日本語はとても流暢だ。


「あら、可愛いらしいお客様ね」


柔らかい口調の男性が、真を見て口角を優しげに緩めた。


「まこっちゃん、このひとはフューリ。いく乃たちのコーチ」

「フューリよ、よろしく」


フューリと紹介された男性が、大きな手を真へ差し出した。


「あ……く、黒崎ですっ」


慌てて差し出された手を握り返す。


「お友達かしら、ミズ天衝寺」

「そうそう。この前だっていっしょに怪獣やっつけたんだよ」


先日、途中参加で力天使級を葬った時の話だ。


「あら、そうなの。ならあなたも〈ヴァルキリーズ〉に?ミズ黒崎」

「あー、えっと……」


それについては、実はまだ曖昧なままだった。


あの時は衝動任せで〈ネメシス〉に飛び乗り、〈天使〉と戦った。

春華から告げられていた通り、この体に〈ネメシス〉を操る才能が秘められているのは確かだ。


真自身でさえ、どうしてあんなふうに戦えたのかも分かっていないが、感じたのは戦場ここにいることが正しいという実感。


それが〈ヴァルキリーズ〉に加わるということに直結するのなら、それで構わないと思っていた。


「どうかしたのかしら?」


答えに窮す真を、フューリが不思議そうに見つめた。


真はアスカを窺った。

彼女は視線を合わさなかった。


「えっと、考え……中です……」

「そう。ダンスのレッスンに参加したくなったらいつでもどうぞ。〈ネメシス〉に乗るのが楽だと思えるくらい扱き上げてあげるわ」

「あ、あはは……」


コーチ、フューリの鋭い視線に、真は思わず身を引いた。


「みんな、よく休むのよ。ではまた明日」


そう言い残して、フューリは教室を後にした。


「さて、コーチはああ言っていたけど、みんなどうする?」


コーチの背を見送って、深雪が教室のみんなを見渡した。


「ごめん、深雪。私もう少しやってく」

「そう言うと思ったわ、アスカ。めくるは?」

「わたしも……もう、少しだけ……がんばりたいです」

「いく乃も___!」

「あなたは強制だから、いく乃」


いく乃が言い終わる前に、アスカが言葉を被せた。

補習でレッスンに参加できなかったペナルティらしい。


「一曲、通しでやってみましょうか。オーディエンスもいることだしね」


深雪が真を見た。


「黒崎君、リクエストはあるかしら?これ、文化祭のセットリストね」


手渡されたプリントには文化祭で彼女たちが披露する全5曲の楽曲名が順に記載されていた。

優之介に頼まれて買いに行ったあの新曲の他、真の知らないタイトルもあった。


「この曲って……」

「そう、未発表楽曲。文化祭ステージと同時リリースだから、口外厳禁よ」

「わ、わかりました……」

「一応それも踊れるけど、まだ練習中で仕上がってないからクオリティは期待しないでね。さあ、どれがいい?」


正直、未発表楽曲にはかなりそそられたもののズルい気がして、真はあの新曲のほうをリクエストした。


「よし、みんな位置について。黒崎君、悪いけどラジカセ押してもらっていい?」

「はい」

「行くわよ!スリーカウントで!スリー、ツー、ワン!」


深雪のアイコンタクトで、真はラジカセの再生ボタンを押した。


メインボーカルであるアスカを中心としたそれぞれの振り付けで、激しい動きや緩やかな動き、緩急複雑に織りまぜたダンスに、真はただただ圧倒された。


アウトロが流れ、ラジカセが停止する。

真は拍手を送った。


「わぁ、すごい……!」

「カタチには……なってたかしら?」


少し息の上がった深雪が前髪をかき上げながらメンバーを見渡した。


「いく乃ちょっと間違えちゃった……」

「そんなに気にならなかったわよ。それよりも、本番は歌いながらダンスしないといけないんだから、そっちが気がかり」

「うへ〜ぇ、体力もつかなぁ……」

「がんばり……ます……」


銘々に感想を溢しながら、気になった部分を指摘し合って、意見を交換する。

それを見ていた真は、なるほど、確かに彼女たち〈ヴァルキリーズ〉は良いチームなのだろうと感じた。


「今日はもう解散にしましょうか」


深雪が言った、陽はもうかなり傾いていた。


着替えを始める様子だったので、真は廊下に出る。


これまで〈ヴァルキリーズ〉のダンスというのは限定版付属のミュージックビデオくらいでしか見たことがなかった。

彼女たちも学生と〈ネメシス〉に乗るかたわらのアイドル活動のためメディアへの出演もほとんどなく、〈ヴァルキリーズ〉としても人前でのパフォーマンスはごく少ない機会に違いなかった。


練習のクオリティですら真は感動を覚えた、文化祭当日が楽しみだと、頬を緩める。


「いいよー、まこっちゃん。ありがとね」

「ううん。まあ、一応、おとこだからね」


着替えを終え制服姿のいく乃が教室の扉を開けた。

その後ろから、同じく制服に着替えた深雪たちが出て来た。


「じゃあまたね。見学、いつでも来て良いから、黒崎君」

「ありがとうございます、久留瀬先輩」

「おつかれ……さまです」

「おつかれー、めくるちゃん」


深雪とめくるを見送り、いく乃は教室を覗き込む。


「帰んないの?」

「帰るわよ」


練習着を詰めた鞄を肩にかけて、アスカも廊下へ出て来た。


「……いく乃、悪いけど先に食堂で待っててもらえる?」


アスカにそう言われたいく乃は少し意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔を見せて了承した。


「うん、分かった。またあとでね、アスカ。まこっちゃん、また明日補習でね!」

「またね、いく乃」


少し早い足取りでふたりの前を去るいく乃を、お互いに黙って見送った。

角を曲がってその背が見えなくなった頃、アスカが一歩踏み出して真へ振り返る。


「さ、帰りましょうか」


静まり返った校内に、ふたり分の靴音が静かに重なっていく。

運動部の帰ったグランドの横を通って正門を出る、沈む夕日に照らされた青海ヶ丘の海が美しかった。


「ごめんなさい、呼び止めて」


アスカが口を開いた。


「ううん。僕も、熾ヶ原さんと話したかったから」

「そっか……」


また少しの沈黙。

再びアスカが口を開いた。


「どうだった?〈ネメシス〉に乗ってみた感想は」

「感想……どうだろ、あのときは無我夢中だったから」

「そっか」

「でも……」

「ん?」

「僕は……〈ネメシス〉に乗りたい。熾ヶ原さんと一緒に、戦いたいんだと思う」

「……」


自分はあの日、戦うことを選んだ。

引き返せないことを覚悟の上で、〈ネメシス〉に飛び乗ったのだ。

アスカのもとへ行くために。


それが、果たして純然たる自分の意志の下した決断なのかは未だ曖昧模糊としている、真はそれも承知のうえでいま、アスカと対峙していた。


「それはほんとうに、黒崎くんが選んだことなの?」

「……そのつもり」

「そう……」


彼女の伏した青い瞳に、憂いが滲んでいることに真は気づいていた。

理由は何であれ、戦わないでほしいと言ったアスカの気持ちには応えられなかったのだ。


アスカは長いまつ毛に覆われた瞼をきゅっと引き結ぶと、何かを振り払うように顔を上げて夕空へと視線を投げた。


「あなたとあの機体がいれば戦況が有利になるのは、あなた自身が証明したんだもの。私たちの使命は人類を守ること、私は……それに従うわ」


そう言うと、アスカは数歩ほど前に出て真に向き直った。


プラチナブロンドの美しい髪が斜陽に煌く姿が、この上なく美しかった。


彼女は、真に手を差し出した。


「よろしく、真くん」


ファーストネームで呼ばれたことに、どきりと胸が高鳴る。


おずおずと、彼女の手を握り返した。


「よ、よろしく、えぇと……」

「呼んでみなさいよ」

「よろしく……アスカ」

「うん」


そう言って、柔らかく微笑みを返した彼女は夕陽よりも眩しくて、けれど真にはなぜか、その笑顔が懐かしく感じた。





この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?