真を乗せた〈ネメシス〉は街の大通りを凄まじい速度で駆け抜けた。
『私だ、黒崎君。この通信が有効であれば返事をしてくれ』
コックピットルームに内蔵されたスピーカーから、春華の声が聞こえた。
「はい。ええと……有効です」
『通信に問題なし。いいか、黒崎君。これから私の言うことを覚えおくんだ』
スクリーンにぶつかって砕けた雨粒が風圧で流されていく。
ケータイの液晶や視聴覚室にあるパソコンのモニターくらいしか知らない真には、それはガラス越しに外を見ているかのようにきれいな映像だった。
しかし今はそんなことに感心している場合ではない。
真の〈ネメシス〉は建物を飛び越え、走る。
『君とその機体の同調率は悪くない。だが、決して無理に機体性能を引き出そうとはするな』
「わかりました」
〈ネメシス〉との同調率は今も少しずつ上昇している。
機体と肉体が同調していく感覚は、リハビリを終えていくなかで少しずつ自分の意識とこの体が同調していく感覚に、よく似ていた。
『間も無く戦闘域に突入する!』
春華が通信越しに叫んだのと、頭部センサが〈天使〉の姿を捕捉したのは、ほとんど同時だった。
「あれが……!」
豪雨の中にそびえる、白い巨体。
力天使級は下位の〈天使〉よりもはるかに大きく、そして、翼のような器官を有していた。
しかし、その両翼には羽も無ければ皮膜も無く、まるで、天へと巨大な手指を伸ばしているかのようだった。
爛れ落ちるような皺だらけの皮膚が覆う体には焼け焦げた弾痕や肉の抉れた痕があり、〈ヴァルキリーズ〉が怪物を相手に懸命に戦っていることを物語っていた。
そして、機体AIがさらに〈ネメシス〉3機の信号を捉え、スクリーン上にハイライトする。
おそらく、〈天使〉にもっとも近い機体がアスカだ。
他2機からの援護射撃を背に果敢に近接戦を挑み、〈天使〉の敵意を惹きつけている。
「……ッ」
頭の中にまたあの映像がフラッシュバックする。
ボロボロになってくずおれる〈ネメシス〉の姿に、アスカの機体が重なる。
これがある種の予知夢なのかはわからない。
だが、今ここでそれを再現する必要はない、そのために自分はここへ、アスカの元へと来たのだ。
戦い方は、この体とこの〈ネメシス〉が知っている。
背部ハードポイントのエクステンションが稼働し、背負うように装備していた武器が右肩の上に移動する。
真は機体の両腕を操作し、その武器を
機体の全長と変わらないほど大きな片刃の剣、〈ネメシス〉専用近接戦闘兵装、対天使用単分子ブレードだ。
一見すればシンプルな直刀だが、刃先が細かい鋸刃のようになっており、それを2枚合わせてそれぞれが超振動して絶大な切断性能を発揮する兵器だ。
『見ての通り、普通の〈天使〉とは訳が違う。油断をするなよ』
「はい」
『この通信を終了(クローズ)する。黒崎君、健闘を祈る』
ブレードを両手で構え、すぐ近くのビルへ飛び上がる。
まだ怪物は真の存在に気が付いていない、一度なら奇襲のチャンスはある。
廃墟と化した建物の屋上を足場にして、真は〈天使〉の死角を維持して接近する。
その真の頭上を赤い火線が飛び越え、〈天使〉に直撃して爆発した。
めくるの〈ネメシス〉が放った榴弾砲だ。下位の〈天使〉であれば随分なダメージのはずだが、この化け物はその砲火を受けても怯みすらしなかった。
錆びた金属が擦れる音のような絶叫を上げて、力任せに、その背中から生えた
舗装が砕け、瓦礫と真っ黒な泥が舞い上がる。
〈天使〉はさらに、叩きつけたその羽を引きずるように体を回転させ、周囲の建物を端から薙ぎ倒していった。
「あの手を……っ!」
足を踏み込み、ブースターの推力と合わせ、〈天使〉へと真っ直ぐに飛び込む。
足場にしたビルの屋上がその跳躍の衝撃で砕けた、従来の〈ネメシス〉をはるかに凌駕する出力だった。
渦巻く塵煙の中から飛び出した1機の〈ネメシス〉が、真の存在を捉えた。
その機体は両手に巨大なチェーンソーを持っていた。
『Revenant……!?』
スクリーンに迫る〈天使〉の巨躯、その背から伸びる巨大な手のような翼へと、ブレードを振り払う。
耳障りな〈天使〉の悲鳴が轟いた。
真の一閃したブレードは、翼とその胴体とを両断した。
人機一体システムによるフィードバックが、真の手に怪物の肉を断ち切った感触をつぶさに伝える。
その感触に顔をしかめながら、真は着地と同時にスラスタを噴いて素早く機体を反転、振り抜いたブレードを構え直して〈天使〉へ対峙する。
切り落とされた断面が蒸気を上げていた。
流れ出た血が雨水を蒸発させ、湯気を立てる。
片翼を失った堕天使は、激昂した気配を明らかに、傷だらけの体を震わせて大地を揺るがすほどの咆哮を放ちながら、その体を大きく仰け反らせた。
『避けなさいッ!』
アスカの声で機体を横っ飛びさせる。
一瞬前まで真のいた場所へ、〈天使〉の吐き出した
体内で発生させた可燃性ガスによって炎を吐き出すという、力天使級にのみ確認されている生態だった。
「火!?」
外気温計測器がアラートを上げる。
発生した水蒸気で瞬く間に視界が真っ白に覆われた。
蒸気の中を抜け出し、飛び上がって、もう使われていないバイパス高架道路の上に着地する。
エキゾーストを噴く真の〈ネメシス〉の隣に、追って来たアスカの機体が着地した。
『黒崎くん……よね』
彼女からの通信だ。
「……うん」
『来たのね』
「うん」
『……』
てっきり、アスカには怒られると思っていたが、その声は静かだった。
『聞きたいこともあるでしょうけど、まずは目的を果たすことが最優先よ』
真の隣に深雪の〈ネメシス〉が降り立つ。
さらにアスカの隣にもう1機、いく乃の機体が並んだ。
『まこっちゃんがいるなら百人力だよ、そうでしょ、アスカ』
『……〈天使〉を殺す、それだけよ』
『全機に通達。〈ネメシス〉識別名Revenantを一時部隊に加えるわ。見えてるわね、めくる』
『見えて……ます』
それぞれの〈ネメシス〉が武器を構え直す。
眼前の魔獣はより強く明確な敵意を込めた雄叫びを上げると、真っ黒な土を柱のように蹴立て、突進した。
『各機、散開!』
深雪の合図で4機の〈ネメシス〉がいっせいに飛び上がる。
高架道路は〈天使〉の巨体の体当たりを受け粉々に爆砕、橋脚から折れて崩れ去った。
〈天使〉の背後を取るように、深雪といく乃が回り込む。
深雪の〈ネメシス〉が持つ散弾砲といく乃が両腕に装備するシングルバレル・ロータリーガンの銃弾が巨獣めがけて降り注ぐ。
雨の中に血飛沫を迸らせながら、〈天使〉は振り向きざまに片翼で高架の瓦礫を掴むと、それを無造作に投げつけた。
巨大なコンクリートの塊がいく乃の機体を掠める。
「いく乃っ!」
『大丈夫!』
いく乃は辛うじて直撃を躱したが、右腕に装備したロータリーガンを持って行かれた。
彼女はすぐさま肩部エクステンションのサブウェポンを引き抜いた、こちらは単発式のライフルだ。
ショットガンの弾倉を交換する深雪からの通信が入る。
『あの背中の手を先にどうにかしたいわ、できるかしら』
「やってみます」
『アスカ、援護してあげて』
『了解』
アスカの機体が左右の背部ハードポイントに装備した上下二連装短砲身滑腔砲を斉射する。
戦車砲並みの口径を誇る4門の砲口がいっせいに火を噴き、〈天使〉の胴体で爆ぜた。
黒煙が踊り、火と肉片が飛び散る。
真は〈ネメシス〉を走らせた。
瓦礫を踏み越え、倒壊したビルを足場に跳躍、アスカが引きつける〈天使〉の背後をとる。
アスカの滑腔砲が再び〈天使〉を捉えた、〈天使〉は背中の翼を振り下ろそうと高く掲げる。
「今……!」
脚を踏み込む。
真は〈天使〉の片翼へとブレードを振り抜いた。
絶叫と血飛沫、残る翼を切り落とされ、怯んだかと思った〈天使〉は落下する真の〈ネメシス〉へと腕を伸ばし、その脚を掴んだ。
「ぅわ……っ!」
重力が一瞬消え、すぐさま真下へ引き摺り落とされるような強烈なGが襲いかかる。
〈天使〉は、真の機体を地面へ叩きつけようとしていた。
『まこっちゃん!』
『黒崎くんっ!』
とにかく頑丈であることに定評のあるコジマ製の二足歩行ロボットも、この高さから力任せに叩きつけられてはひとたまりもない、仮に機体が無事であったとしても
抜け出そうとスティックを動かしてもがく。
モニターに映る地面が迫る、そして、真の〈ネメシス〉は宙に放り出された。
足下のペダルを踏み込んでブースターを噴かし、無茶苦茶になった天地を本来の位置に戻す。
なんとか脚から着地した真のすぐそばに、先程まで機体の脚を掴んでいた〈天使〉の腕が飛来してきた。
『だいじょうぶ……ですか』
「緋ノ沢さん……うん、だいじょうぶ」
めくるの長距離射撃が、真の〈ネメシス〉を掴んだ〈天使〉の腕を撃ち抜いたのだ。
めくるの〈ネメシス〉は高倍率に優れた頭部センサを搭載しているが、モニター越しでさえ〈天使〉の腕は爪楊枝ほどだろう、それを当然のように一発で撃ち抜いてみせるのだ。
無論そのような繊細な照準はAIによるエイムアシストがあってはむしろ邪魔になる、彼女の射撃技術に真は舌を巻いた。
『相変わらずいい腕よ、めくる』
『これくらい……なんてこと、ないです……』
〈天使〉が再び炎を吐き出した。
狙いをつけていると言うより、怒りに任せてとにかく炎をばら撒いているという様子だ。
雨に沈む瓦礫と焦土の一帯が瞬く間に炎の海になる。
跳び回って炎を躱す真の額に汗が転がる。
機体の冷却効率が低下しコックピットルーム内の温度が上昇しているというだけでなく、〈ネメシス〉と同調した感覚が目の前に広がる火の熱さを感じ取っていた。
汗ばんだ手のひらでコントロールスティックを握り直す。
もう全身汗だくだ、肌にまとわりつくブラウスが雨に濡れたからなのか汗によるせいなのかもわからない。
『もう撃ち終わったわ!』
アスカの滑腔砲が最後の砲弾を放ち、排莢する。
役目を終えた背部武装を、彼女の〈ネメシス〉はパージした。
『いく乃ももう弾がないかも!』
いく乃はすでに両腕をサブウェポンに撃ち替えていた、とにかく弾数で勝負するロータリーガンに比べ単発式のライフルは威力は劣らずとも弾数は決して多くない。
空になった弾倉をそれぞれ交換するが、いく乃の〈ネメシス〉はそれが最後の弾倉だった。
『こっちもメインアームは使い果たしたわ、それより、機体の稼働時間が厳しいわね』
深雪の〈ネメシス〉がメインのショットガンを投げ捨て、肩のエクステンションからグレネードランチャーを引き抜く。
『わたしは……まだ、撃てます』
『なら装填中の砲弾を榴弾から徹甲榴弾に変更して』
『時間が……かかります……』
『かまわないわ』
射程の短いグレネード砲を携え、深雪は〈天使〉の猛攻を掻い潜りながら砲弾を放つ。
『どうするつもり?』
大型チェーンソーを手に、深雪との攻防の隙を一定の距離から伺うアスカが尋ねた。
『このまま戦っても埒があかないわ、少し無茶だけど生体核を破壊する。めくるとアスカ、黒崎君が要よ、作戦を伝えるわ』
深雪の口から状況を打開する策が告げられる。
『ほんとうに無茶ね……』
『まこっちゃんはどう?』
「失敗したらごめんなさい……かな」
『大丈夫よ、黒崎君。あなたなら……いえ、その機体とその体なら、きっとできる』
『めくるはどうなの?』
『わたしは、ただ……引き金を引くだけ……ですから……』
『さあ、もう異論も反論も受け付けないわ、〈ヴァルキリーズ〉!レディ___?』
深雪の掛け声に、通信越しに各々が応える。
深雪といく乃が〈天使〉に飛び込んだ。
僅かな残弾を使い果たす勢いで弾幕を張り、怪物の注意を引きつける。
その間に、真は深雪に指示されたポジションへと機体を走らせた。
「熾ヶ原さん」
アスカとのプライベート回線を真は開いていた。
『なあに?』
ポジションに着くと、ちょうどアスカの機体も作戦位置に着いたところだった。
真はブレードを逆手に構え、
「ごめんなさい、勝手に来ちゃったこと……」
『……いいのよ、もう。でも、ひとつだけ約束して』
「うん」
『死なないで、ぜったいに』
アスカの言葉に頷き返す。
プライベート回線を閉じると同時、オープンチャンネルにめくるの声が入る。
『装填、完了』
『よし、めくるはそのまま待機!』
深雪はグレネードランチャーを投げ捨て、反対の肩から最後の武装である機関砲を手に取って、弾丸をばら撒く。
『まこっちゃん、いけそうっ?』
右腕の単発式ライフルを使い果たしたいく乃は左のライフルだけで〈天使〉を牽制していた。
「うん。熾ヶ原さんは?」
『誰に訊いてるのよ』
近くに控えるアスカの機体が、両手に持つチェーンソーをがなり立てる。
準備万端のようだ。
真は息をついて、スクリーンを睨む。
炎の中で暴れ回る〈天使〉の、その一点に狙いを定めスティックを握りしめる。
じっとりと汗ばんだ手、けれど油断はない。
集中して、深雪といく乃がもたらすチャンスをじっと待った。
〈天使〉が腕を大きく振った。
リーチの長い怪物の手に捉えられた深雪の機体は、その片脚を付け根から吹き飛ばされた。
空中でバランスを奪われた深雪の〈ネメシス〉はきりもみして落下するが、腕を振り抜いた〈天使〉には大きな隙ができていた。
『今よ!』
脚を踏み出す。
機体上半身を振りかぶり、逆手に持ったブレードを〈天使〉の喉元目掛けて真は全力で投げつけた。
怪物の絶叫が轟いた。
投擲したブレードは、狙い違えず〈天使〉の喉に突き刺さった。
だがまだだ、深雪の作戦はここからなのだ。
真は〈ネメシス〉を跳躍させる。
崩れた建物や瓦礫の山を足場にして一気に〈天使〉へ肉薄、さらに飛び上がって、突き立てたブレードを掴むとそのまま自重を使って〈天使〉をその喉元から縦一線に切り裂いていった。
噴き出した血が真の〈ネメシス〉を赤く染める。
返り血に視界が覆われるが、着地した真は感覚的にバックステップしてその場を離れる。
直後、真のいた場所に〈天使〉の撃鉄が振り下ろされた。
「緋ノ沢さんっ!」
今、〈天使〉はめくるに対して正面を向いている状態、真の切り開いたその裂傷へと、めくる放った砲弾が撃ち込まれた。
〈天使〉の胸部が爆ぜる。
体内の可燃性ガスに引火したことで、本来の炸薬量以上の爆発を引き起こし、焼け焦げた肉と骨が飛散した。
抉り取られたかのように広がる胸腔内に、灰白色の大きな塊が露出する。
人間で言えば心臓、〈天使〉の生体核だ。
『おねがい……します、アスカ先輩』
チェーンソーの駆動音が響く、アスカの〈ネメシス〉が走り出した。
のたうつ〈天使〉がでたらめに振り回す腕を的確なステップで躱し、跳躍する。
繁吹く雨に視界を洗い流された真もアスカを追った。
彼女に迫る〈天使〉の腕を切り飛ばし、アスカの道を作る。
アスカの〈ネメシス〉が武器を掲げ、生体核へと叩きつけた。
魔獣の断末魔が轟く。
アスカのチェーンソーは生体核を破壊した。
一転して静まり返る一帯、最後に、〈天使〉が瓦礫の上に膝から崩れ落ちる音が響いた。
『……作戦目標達成よ。はぁ、ほんとうにぎりぎりだったわね。予備電源に切り替えるわ。深雪は無事かしら』
力なく横たわる〈天使〉のかたわら、アスカの〈ネメシス〉はぬかるんだ地面に片膝をついた。
『生きてるわ、こっちも予備のを使ってるけど……自立は無理ね』
モニターにハイライトされた深雪の機体は片脚を失って瓦礫の上に仰向けになっているようだった。
そばにはいく乃の機体もいた。
『弾も充電もぜーんぶ使っちゃった。でもやっつけたからね、まこっちゃんのおかげだよ』
「僕は……」
『メインシステム……戦闘モードを……解除しました。おつかれ、さまです……』
次いでめくるの声も聞こえた。
感情の読み取りづらい喋り方をする彼女だが、今ばかりはどこか緊張の解けた声色に聞こえた。
『ミユキ君、状況と被害の報告を頼む』
オープンチャンネルに聞こえたのは、ハルハナとは違う女性の声だった。
『はい。黒崎真を含め全隊員が生存。被害状況は、私のPatriotが自立不能状態、RevenantとBackPackerを除く全機が現在予備電源を使用しています。その他については___』
その後も深雪と、真の知らない女性のやり取りが続いた。
真はコントロールスティックから手を離し体をシートの背もたれに預けると、どっと疲労感が押し寄せた。
自分がこの〈ネメシス〉を駆り、〈天使〉と戦ったという実感は訪れない。
だが、今ここにいること、汗だくになった体や速まった心臓の鼓動が、その事実を物語る。
『黒崎くん』
専用回線によるプライベート通信から、アスカの声が真を呼んだ。
「どうしたの?」
『……』
「熾ヶ原さん?」
『……ううん、ごめんなさい。なんでもないわ』
「うん」
『……一言だけ。ありがとう、いく乃も言ってたけれど、あなたが来てくれたから勝てた』
アスカからの通信は切れた。
帰還命令が下されるまでの少しの時間、真はモニターに映る空をぼんやりと眺める。
灰色の街を覆う空は雨足を弱め、雲間から光の帯を落としていた。