堕天警報が鳴り響いて数分後、教室に向かって走っていた真は、真を探しに来た優之介と出くわした。
「真!」
「あ、優之介」
「よかった、先生が避難の点呼してるから早く行こう」
「う、うんっ」
優之介の背を追って廊下を走る。
避難前の点呼を終えたクラスが、教室の前に順に並び始めた横を突っ走って自分たちの教室を目指した。
「クソ、夏休み前がこれじゃあな!」
前を走る優之介が毒づく。
彼に限らず、ほとんどの生徒がそう思っていることだろう。
「……」
ただ、真の感じるこの異様な胸騒ぎは、優之介たちの感じる不安と同じものではなさそうだった。
曰く言い難い嫌な予感が、胸中で渦巻いていた。
「丈旗君、黒崎君!」
教室の前に着くと、担任の浅倉が点呼を終え生徒を整列させているところだった。
「ごめん先生!真を探しに……」
「いえ、連れて来てくれてよかったわ。さあ、早く並んで!」
「先生!熾ヶ原さんは……」
「ええ、分かっています……」
アスカのことを伝えようと真は浅倉に駆け寄ったが、浅倉も当然ながら彼女のことは把握していた。
それでも浅倉の顔には、教師として、大人としてのやるせなさが色濃く現れていた。
「みなさん!慌てずに、静かに。行きますよ」
浅倉を先頭に、クラスの列が動く。
静まり返った廊下に、ぽつぽつと雨が窓を叩く音が響いていた。
列に従って進む真は、雨粒が伝う廊下の窓からふと見上げた校舎の屋上に、黒い人影が見えた気がした。
それが誰なのかを判断する前に、その影は死角になって見えなくなった。
体育館の地下にあるシェルターへと向かう渡り廊下、地下へ降りるための階段や垂直昇降機の前は混雑を避けられず、真たちのクラスも立ち往生となった。
不安と恐怖に身を寄せ合う生徒。
平気そうな顔の者もいるが、雨の音に混じって遠くから轟いた〈天使〉の咆哮に、その場の空気は一瞬にして凍りついた。
真の正面に立っていた違うクラスの列の女子たちが、互いに青ざめた顔を見合わせた。
「聞こえた……?」
「今の……そうだよね」
「ヤダヤダ……っ!」
その中のひとりに見覚えがあったのは、真と同じマンションに住んでいる女の子だったからだ。
そして、比較的すぐ近くで大きな砲声が上がった。
おそらく、めくるの〈ネメシス〉が使う超射程兵器だ。
数瞬の後、〈天使〉の絶叫と共に着弾音が聞こえ、まばらな銃声が聞こえ始める。
〈ヴァルキリーズ〉が交戦を始めたのだ。
「真君」
後ろにいた俊平が声をかけて来た。
ケータイを手に持った彼は、その画面を真へ見せる。
「どうかしたの?」
「見て、これ……」
俊平が画面を指差す。
その指先がわずかに震えている理由は、すぐに分かった。
「力天使級……」
たった今観測された堕天反応について、コジマ・エレクトロニクス社が〈天使〉の脅威度を力天使級と断定したことが書かれていた。
それはつまり、観測史上最大級の脅威へアスカたちが立ち向かっているということだった。
「嘘だと思いたいよ……力天使級なんて去年観測されたばかりなのに……またこんなに早く堕天するなんて……」
「去年……?」
そう聞いて、瓦礫の上にそびえ立つ〈天使〉と大破寸前の〈ネメシス〉のイメージが、また頭の中を駆け巡った。
「……ッ」
胸騒ぎが、いっそう強くなる。
真はたまらずブラウスの上から胸を押さえた。
鼓動が早まり、息が浅くなって、膝の力が抜けそうになる。
果たしてこれは、単にトラウマが見せている恐怖の投影なのだろうか。
茫漠とした嫌な予感は、焦燥感を伴って少しづつその輪郭を明らかにしていく。
「大丈夫や!俺らには、〈ヴァルキリーズ〉がおる」
俊平の後ろから顕吾がそう言った。
「今回かてきっと守ってくれる、みんなで、応援するんや!」
そう言う彼の言葉を、真の前に立っていた優之介が力強く肯定した。
「ああ。俺らにできるのは信じることだけだ。〈ヴァルキリーズ〉ならこの街を守ってくれる。そして、無事に帰ってくる。俺は信じる」
彼らの気持ちは真にだって分かる。
無論、自分だって彼女たちを信じている。
けれども、現実は、信じた通りになるとは限らない。
ごく些細なきっかけひとつで脆くも崩れ去るものであり、しかしながら、より強いはたらきかけがあれば、覆すことのできるものでもある。
雨は次第に強くなり、しぶきを巻き上げてぬるい風が渡り廊下を吹き抜けた。
轟々とした雨音が校舎に不気味に反響し、銃声と〈天使〉の咆哮が不安を掻き立てるなか、地下への列が動き出す。
もうすぐで、少なくともこの場にいる皆は安全な場所へと避難できる。
アスカの言葉を、頭の中で何度も反芻した。
戦ってほしくないと彼女は言った、彼女はこのまま避難しろと言ったのだ。
だが、どんなにその言葉を咀嚼しても、胸の内から溢れる衝動は膨らむばかりだ。
「……ダメだ」
口の中で小さく呟く。
気がつけば、渡り廊下から飛び出して雨の降りしきる中庭へと駆け出していた。
「真っ!?」
優之介が自分を呼ぶ声が聞こえた。
顕吾や俊平、担任の浅倉の声も聞こえたが、真はその全部を置き去りにして走り抜けた。
雨にブラウスが濡れる。
長い髪がどんどん重たくなる。
水たまりを踏んで跳ねた泥がスカートを汚した。
これから自分がどれほど馬鹿げたことをしようとしているのか、自分自身でも分かっていないのかもしれない。
それでもいい。
アスカのもとへ行けと叫んでいる!
中庭の入り口から校舎に飛び込んで、真は迷わず屋上を目指した。
あの時見えた人影は春華に違いない、理由などないが、真はそう確信を得て階段を一気に駆け上がった。
最上階の踊り場をターンする。
ドアノブに飛びつくようにして、屋上の扉を開け放った。
「神門先生ッ!」
逆巻くような暴風に思わず瞳を閉じたが、真はかまわず叫んだ。
目を開けると、真っ黒なパンツスーツ姿の春華が、ずぶ濡れになってこちらへ振り向いていた。
「……少年」
「はぁ、はぁ……っ、先、先生……」
血の味が混じる唾液を飲み込み、春華へ歩み寄っていく。
濡れた髪が、ブラウスが、体に張り付く。
雨の滴る体を屋上の風が殴りつけるが、冷たさは感じない。
破裂しそうなほど激しく脈打つ心臓は沸るほどの血液を全身に巡らせて、むしろ、湯気が立つと感じるほどに体は熱かった。
「神門先生……」
真の姿を見ても、春華は驚いた様子はなかった。
むしろ、ここへ真が来たことが当然であるかのような顔で、再び青海ヶ丘の街へと視線を投げた。
「見てみるといい」
そう言った春華の横に立って、フェンスの向こうを眺める。
雨霧で白んだ街のはるか南方、倒壊したビルや横倒しになった高架道路が佇むだけの放棄区域の一角で、砂塵と硝煙、黒煙と水蒸気が渦巻き、オレンジ色の光がしきりに明滅を繰り返しているのが見えた。
校舎の横のほうから、再び大きな砲声が轟いた。
めくるの長距離射撃による榴弾砲は、火線を引いて白い煙の中へと吸い込まれ、着弾、赤い光をばら撒いた。
着弾の爆発音は先ほどよりも大きく聞こえた気がした。
それに気づくと、銃声や地響きが、最初に聞こえた時よりもずっと近づいていることに気がつく。
「圧されている」
真は肩で息をしながら、春華のその言葉を静かに飲み込んだ。
「力天使級と交戦したのは、この青海ヶ丘での観測記録の中で、過去わずか2回。5年前に初めて戦闘になった際には〈ネメシス〉で出撃したほとんどと街の1/3が失われた。そして1年前には、〈ヴァルキリーズ〉のひとりが犠牲になった」
雨粒が転がり落ちるメガネを押し上げることなく、春華は淡々とその事実を口にした。
「神門先生」
「〈ヴァルキリーズ〉は個々の練度は決して低くない。だが、それ以上に相手が常軌を逸している。このままでは間違いなく犠牲が出ることになるだろう」
いつも通り平坦な口調、けれど、ここで、こうして、春華が教え子たちの戦いを見届けていることが彼女の気持ちを雄弁に物語っていた。
「僕も……僕が、行きます」
真は春華にそう告げた。
その声に迷いはなかった。
春華は一度深く瞬きすると、踵を返して真に言った。
「来るといい」
春華に連れられ地下深くへと向かう。
冷たい鉄籠のアコーディオンドアが開き、薄暗い入り組んだ通路を進んだ。
地上との位置関係はわからないが、学校からはそう離れてはいないように感じた。
「本来ならば搭乗前に様々あるのだが、状況が状況のため一切を省略させてもらおう」
春華の前で大きな扉が重たい音を立てて開いた。
高い天井と奥行きのある空間、山積みの資材の向こうに、大きな黒い巨人が静かに佇んでいた。
「〈ネメシス〉……」
高輝度照明灯の白い光が、その無骨で巨大なシルエットを描き出す。
見慣れない機体デザイン、他の〈ネメシス〉4機と比べ僅かばかり引き締まったその姿は、あの日アスカが乗っていた機体だった。
「最後の確認になるが、」
高所作業車に上がった春華は、真が上がって来るのを待って作業床を上昇させた。
上昇しきった籠はちょうど搭乗口の高さだった。
「この中に入れば、もう後戻りはできない」
「はい、わかってます」
「……いいだろう、では、入れ」
春華に促され、コックピットルームへ滑り込むようにして搭乗する。
その中は、以前に夢で見たものと全く同じだった。
正面と左右に広がる大きなスクリーン、バイクのようなシートと左右のコントロールスティック、視界に入る位置にずらりと並んだ計器類も、全てに、既視感があった。
「使い方はわかるな」
「はい、たぶん」
お尻を乗せたシートの硬さや、少し前屈みになる姿勢、握ったスティックの感触、そのどれもが、どこか懐かしい気がする。
「カエデ。聞こえるか。……そうだ、私だ。〈ネメシス〉、識別名Revenantの出撃準備を進めてくれ。……ここでそれについての議論をするつもりはない。パイロットは既に搭乗を済ませている」
春華が誰かに連絡を取っているのを聞きながら、真はスティックのボタンを押して機体を起動させた。
コックピットルームの電装系に光が灯り、計器類がリアルタイムでの実測を開始する。
メインスクリーンが点灯し、コジマ・エレクトロニクスの会社ロゴが表示されると、頭部センサが捉える全長8メートルからの映像へと切り替わった。
英語で表示された機体ステータスに目を通しながら、スティックのトラックボールを右へ右へと動かし、巨人を覚醒させていく。
メインシステムを戦闘モードに変更、マニピュレーションシステムをマニュアルに設定。
「よし、ハッチを閉じろ!」
春華が搭乗口のフチを叩き、高車の籠を降下させていった。
言われた通りコックピットルームのエアロックハッチを閉じる。
機体の全ての関節ロックが解除され、覚醒の咆哮のごときエキゾーストを噴き上げた〈ネメシス〉が、ついにその
真はゆっくりと瞳を閉じ、顔を伏せる。
「ごめん、熾ヶ原さん……」
自分に戦ってほしくないと言ったアスカの言葉を思い出す。
だが真には、このまま黙って彼女たちの戦いを見ていることはできなかった。
これ以上、自分を駆り立てる衝動に、抗い続けることはできない。
自分は選んだ。
そこにもう、迷いや不安はない。
真は力強く目を見開いて、ぐっと左右のコントロールスティックを押し込んだ。
スクリーンに表示される『DIVE TO NEMESIS』の文字、同調媒体物質がパイロットルームを満たしていく。
バイクで言えば燃料タンクの位置にあるターミナルインターフェースの液晶に表示された〈ネメシス〉との同調率が上昇を始め、83%あたりで安定する。
不思議な感覚だった。
まるで、この〈ネメシス〉が、自分を歓迎しているかのようだ。
大丈夫、やれる。
この機体と、この体なら。
垂直カタパルトが機体をデッキに固定し、圧力を上昇させていく。
射出までのカウントダウンが始まり、0を刻むと同時に、真上からの凄まじい加重が真を襲った。
体感にしておよそ数秒、真は必死に顔を上げてスクリーンを睨んだ。
やがて、視界が真っ白に覆われる。
頭部センサが外光に順応し、スクリーンが豪雨の降りしきる青海ヶ丘の街を映した。
左右のスティックを操作し、自由落下を始める機体の姿勢を維持する。
〈ネメシス〉は街の大通りに降り立つと、エキゾーストの雄叫びとともに、猛スピードで駆け出した。