真が学校へ復帰して数日と経たず、青海ヶ丘中学は一学期の終業式を迎えようとしていた。
「うへぇ、宿題多いよぉ」
各教科のプリントの束を持って机に突っ伏したのはいく乃だ。
「天衝寺君は出席率が著しく低い。そのプリントの束を自力で解いて夏休み明けに提出するか、補習に参加し私と共にそのプリントの山を片付けるか、君にはそのどちらかしかない」
他の教室の半分ほどの広さしかない自習室、教壇に椅子を構え、真っ暗なパンツスーツに包まれた脚を組み直す春華がメガネを押し上げる。
今日は午後に終業式があるため、いつもの白衣は羽織っていなかった。
「夏休みの補習も春華せんせーがみるんでしょ?」
「異存が?」
「せんせーの教え方わかりにくいんだもん」
分かりにくいと言われたことに対して、春華はむしろ愉悦に浸るように口角の片方を吊り上げ珍しく笑みを見せた。
「なら、もっと
「いい!いい!情報量多すぎてワケわかんなくなるから!」
他の教室は現在も普通に授業中だと言うのに、自習室はこの様子だった。
「まこっちゃん、おしえてよぉ」
「僕はいいんだけど……」
すがるように真へと視線を送るいく乃。
何度かいく乃が解答に困ったところを手助けしてあげたことがあるのだが、彼女には分かりやすいと好印象だった。
真としては、リハビリを手伝ってくれた彼女の力になれるならできる限り手を貸してあげたいところではあるのだが。
「黒崎君の最優先事項は出席のできなかった授業の遅れを取り戻すことであり、天衝寺君のような生徒に手を差し伸べるのは彼ではなく教師の仕事、つまり、私のすべきことだ」
この通りすぐさまレフェリーが入る状態だ。
「わかったわかった!……はぁ、おわる気がしないよぉ」
そう言って、いく乃はまた溶けるように机に項垂れた。
「まこっちゃんはいつまで補習なの?」
「僕は……」
真の補習は8月中頃までだった。
補習最終日に定期テスト代わりの試験を受け、及第点に達すればそこからやっと通常の夏休み、9月の始業式からは本来の教室に戻れるという予定だ。
「うわぁ、ほとんど学校じゃん」
真の見せた夏休みの時間割表を見て、いく乃は青ざめた。
「まあ、仕方ないからね」
「うぅ、まこっちゃんも学校くるなら、いく乃もプリントがんばる……」
「うん、がんばろう」
てっきり真ひとりだと思っていた特別授業だが、この通り隣にはいく乃の席があった。
彼女はもちろん冷やかしでここにいるわけではなく、どうやらもうずっとこの特別授業の対象になっているらしかった。
欠席が多いということらしいが、1年次の科目すら修了していないと聞いては真も言葉を失った。
真が参加するようになってからはいく乃の出席率は多少の改善を見せたそうだが、それでも2時間目終わり頃にふらりと登校したかと思えば、休み時間にこの自習室を出ていったきり、そのまま戻ってこなかったりというのは未だある。
「無理に授業に参加させるつもりはない」
いく乃が戻って来なかった時に、春華が言っていたことを思い出す。
いく乃があまり授業に出席しないことについて、彼女はその事情を知っているようだったが、それを語ろうとはしなかった。
「君たちの年齢で背負うべきではない責任と使命を課せられているのだ、ままならないことの一つや二つ、あって仕方のないことだろう」
「……」
「馬鹿げているとは思わないかね。年端もいかない10代の少女が、無邪気に学校に通うことすらできないなど」
「……でも、誰かがやらなきゃいけない」
「そうだ。あんな
その時は、春華はその話をそれきりにして授業を再開したが、真の胸中にはさざ波を残した。
朝学校に登校して、クラスメイトと挨拶を交わし、授業を受け、変わってしまったことも多いなかで曲がりなりにも学生としての生活を取り戻しつつある。
だがどうしてか、そうして〈ネメシス〉から遠ざかるほどに自分の中には今まで感じたことのない違和感が膨らんでいくのを自覚する。
誰かがやらなければならない、〈ネメシス〉を駆り〈天使〉と戦う。
その役目を担うべきは自分なのではないかという思いが自我の外側から溢れ、真を苛んでいた。
「まこっちゃん?」
真を覗き込むいく乃の可愛らしい顔が間近にあった。
「ごめん、なんだっけ」
「ううん。なんでもないけど、ぼーっとしてたよ?」
その後も授業にはならず、いく乃と春華の雑談にを相槌をうちながら、午前の時間が過ぎた。
青海ヶ丘中学は給食制度ではないため、昼は各々弁当やら学食やらで済ませる。
昼食後、自習室の真といく乃はそれぞれのクラスに戻り、教室ごとに整列して体育館で行う終業式に参加する予定だった。
優之介たちとは、あれ以来話をする機会がめっきり少なくなった。
こうなる以前なら、4人で連れ立って学食に行き適当なものを買い込んで屋上で駄弁るのが日常だった。
今ではいく乃と昼休みを過ごすことがすっかり増えた。
とは言え、彼女も4時間目の授業にいたりいなかったりするため、ひとりの時もある。
今日はいく乃がいるため、ふたりで学食へ向かった。
夏休みを目前にしていつもより浮き足だって見える生徒たちで賑わう食堂の奥に、隅のほうに座るアスカの姿があった。
何も今日に限った話ではなく、あそこが彼女の定位置らしい。
「熾ヶ原さん」
「ア〜スカっ」
近くまで行って声をかける。
アスカは定食についていた納豆をかき混ぜる手を止めて、真たちを見上げた。
「またあなたたち?仲良いのね」
「すわっていい?」
「だめって言っても座るんでしょ。好きになさい」
アスカの態度はそっけないが、決して拒むようなことはしない。
真は売店で買って来たパンをテーブルに置いてアスカの正面の席に座った。
「ご飯買ってくるね」
「うん」
券売機へと歩いていくいく乃の背を目で追う。
クラスメイトなのか、真の知らない女子に声をかけられて談笑する姿が見えた。
いく乃はああして声をかけられることが多い。
同級生の輪にいても目を惹く彼女ではあるが、友達と他愛のない会話を楽しむ様子は普通の女子そのもの。
凶暴な地球外の生命体からこの街を守る責任と使命を負っていることなど、知らなければ到底信じられはしないだろう。
券売機の列を待つ間、友人たちと笑顔を咲かせるいく乃を見守りながら、アスカが呟いた。
「明るい子よね」
いく乃についてそう言ったアスカが暗い少女というわけではないが、ひとりでいるのを見かけることが多いのは事実だった。
いく乃とは対照的に近寄り難い雰囲気があるのは真も感じるところだが、それはそれで、ミステリアスだと肯定的に受け止めている同級生ばかりだろう。
真だって、アイドルグループのメインボーカルを務めているアスカの孤高な姿には、同世代として神秘を覚えたものだ。
「うん。けど、どうかしたの?」
「ううん、なんでもないわ。ところで、あなた、お昼はいつもそれだけなの?」
アスカは真の前にある菓子パンを視線で指した。
学食限定の〈帽子パン〉である。
円い帽子のような形をしたパンで、真ん中はふんわりとしていながら、周りはさっくりとしたクッキーのような生地になっている。
1年の頃からほぼ欠かさず摂取している真のお気に入りのパンだ。
「そうだけど……」
「全く、育ち盛りが呆れるわ」
「あはは……」
彼女は呆れた顔で首を左右に振った。
「体調はどうなの?」
「うん、悪くないよ」
「そう」
「たまに、変な夢を見るくらいかな」
「……変な夢?」
〈天使〉の姿を夢で見てうなされることは少なくなかった。
死に瀕したショックが焼き付いているというアスカの言葉が事実だったのだろうと、真は思う。
ただ、それだけでなく、〈ネメシス〉を操縦している夢を見ることもあの一度きりではなかった。
「おかしいよね、乗ったことなんてないのにさ」
「……そう、ね」
そこへ、食事を乗せたトレーを持ったいく乃が席に戻って来た。
「お待たせ。なんの話してたの?」
「えっと……」
「なんでもないわ。あなたが可愛いわねって話」
「え〜?いるときにしてよ」
いく乃の返事にアスカは肩を竦めてみせた。
そのまま昼休みいっぱいまで食堂で時間を潰して、午後の予鈴が鳴った。
クラスの違ういく乃と渡り廊下で別れ、真はアスカと並んで自分たちの教室を目指した。
「あの子、終業式はちゃんと出るのかしら」
「……わかんないね」
出ないだろうとは真も思っていたが、アスカも同じ考えらしい、真の隣を歩きながらため息をついて肩を落とした。
「熾ヶ原さんて、もっと怖い人かと思ってた」
「そう言うあなたは思ってたより失礼なのね?」
「あはは」
横目でアスカに睨まれるが、本気で腹を立てているわけでないのはもうなんとなく分かるようにはなった。
「第一印象が最悪だっただけよ」
「でも、やっぱり熾ヶ原さんの言ってたことは正しいと思う」
「……どうして?」
「僕は……ただ、守ってもらってただけだったんだ」
「……」
並んで歩いていたアスカが、不意に足を止めた。
振り返った真を、彼女はその青い瞳で真っ直ぐに見つめた。
「熾ヶ原さん?」
「だからって、あなたが戦う必要はないのよ、黒崎くん」
「……」
自分の中にある葛藤を見透かされているようなアスカの言葉が胸を射抜く。
〈ネメシス〉に搭乗することになったとしても、青海ヶ丘における〈天使〉との戦いに自分が何か大きな変化をもたらすなどと、真自身はもちろん思い上がっている訳ではない。
しかし、だからと言って、このまま傍観するだけでいることを、自分の中の誰かが、赦さないでいる。
もう真には分かっていた。
この衝動はきっと、〈ネメシス〉に乗るまで消えはしないということを。
「守られているだけでいいのよ、あなたのことも、この街も、私が守ってみせるんだから」
「でも、僕……」
真が何かを言うよりも早く、言葉を被せるようにしてアスカは声を荒げた。
「私はあなたに、戦ってほしくないのよッ!」
アスカは酷く苦しそうな表情を浮かべて、拳を握りしめた。
病室で目を覚ました時のことが思い浮かんだ。
アスカが、真を戦わせまいとする理由がなんであれ、彼女がそこまで必死になる理由が真には思い浮かばずにいる。
沈黙がふたりの間に流れた。
それを破ったのは、携帯電話から鳴り響いた冷酷な警報音だった。
「堕天、警報……」
スライドケータイのヒビ割れた液晶を見て、真は呟いた。
堕天予測位置は街のはるか南側、〈天使〉の捕食によって破壊され放棄された区画だった。
「招集命令だわ」
赤い折り畳み式ケータイを開いて、アスカがそう言った。
「熾ヶ原さん……」
「教室に向かいなさい。ぜったいに、みんなといっしょに避難すること、いいわね」
真の返事を待たず、アスカは踵を返して廊下を猛スピードで走り去って行った。
その背を見送ることしかできない自分に、とてつもない無力感と焦燥を覚える。
肉体の変化と共に訪れた自分自身の内面の変化に、真は戸惑いを隠せない。
廊下の窓から見える青海ヶ丘の街は、分厚い雲が覆いはじめていた。