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第7話

真はベッドから飛び起きた。


寝転がって考え事に耽っているうちに眠ってしまっていたようだ。

薄闇に包まれた病室には、ドアの隙間から白い蛍光灯の光が差し込んでいた。


「夢……?」


自分は、ついさっきまで〈ネメシス〉のパイロットルームにいた。


そう現実を錯覚するほどに、いま見た夢は鮮明だった。

手のひらにだって、コントロールスティックの感触がはっきりと残っている。


色々と考え込みすぎたせいでおかしな夢を見てしまったのかと思ったが、単なる妄想による補完にしてはその情景はあまりにリアリティがあった。


「……だめだ、落ち着こう」


夢で見た〈天使〉の姿が脳裏に何度も蘇った。

立ち向かって行った自分があの後どうなったのか、それを想像しようとすると、異様に胸がざわめきたつ。


とにかく気分を入れ替えてしまいたくて、真は部屋を出た。


通りがかった談話室はすでに消灯して閉じられていたが、ガラス戸から壁時計が見えた。


「20時……?けっこう寝ちゃってたのかな」


時間を認識すると、途端に空腹を感じた。

何か食べれば気分も変わるかもしれない、真は食堂のある棟へ向かうことにした。


真のいる隔離病棟からは遠く、虫の鳴き声がする外を通って、それなりの距離を歩く。


食堂に着くと人の姿はまばらだった。

夜勤の休憩中なのか談笑する看護師の女性が何人かいる他、作業着姿の男性がちらほらと食事をしている。


調理室のおばさんに注文を伝えると、数分足らずで食事の乗ったトレーが差し出された。

真はそれを持って、座る席を探す。


「あれ……?」


いちばん奥の、大きなガラス窓のそばの席に白いブラウスに赤いネクタイを締めた女の子が座っているのに気づいた。


青海ヶ丘中学の制服、プラチナブロンドのきれいな髪は、アスカだった。


こちらには気づいていないようで、黙々と夕食を頬張っている。


「……」


声をかけるか迷った。

ここでアスカを見たのは今日がはじめてだ。


彼女はまだ怒っているだろうか、あの日、自分に向けられた怒りに燃えるアスカの青い瞳を思い出す。


目を閉じて、深く息を吐く。

逡巡ののち、真は意を決してアスカのいるテーブルを目指した。


「熾ヶ原さん」

「っ!」


彼女の肩がびくりと震えた、味噌汁を啜っているところに声をかけたのは間違いだったかもしれない。


「んぷッ、ん……ち、ちょっと待って……!」


慌ててお椀を置き、手元のハンドタオルで口元を拭うアスカ。


「……黒崎くん」


真の存在を視界にとらえたアスカはその瞳に困惑の色を見せた。

ひとまず、開口一番に怒鳴られることはなさそうだった。


真は改めて声をかけた。


「ひ、久しぶり……」

「あ、うん……久しぶり……?」

「えぇと……」

「なに?」


アスカは怪訝そうにその整った眉を寄せた。

真っ直ぐに自分を見つめる彼女の視線に、尻込みしてしまう。

いたたまれなくなった真は逃げるようにアスカから目を逸らした。

今からでも「ごめん、なんでもない」と言ってこの場を去ってしまいたいほどだ。


鼓動が早まる。

トレーを持つ手が、わずかに震えていた。


だめだ、勇気を出せ。

きっと、自分は彼女と話をしなければならないんだ。


「前、いい?」

「いいけど……」


そう言って、アスカはおずおずと自分のトレーを手前へ引き寄せた。

真は小さくお礼を言って、アスカの正面に座った。


しばらく沈黙が流れた。

目の前の夕食はどんどん冷めていくが、頭の中は次に何を言うべきかをずっと考えていた。


「ねぇ、」

「えっ?」


アスカのほうから声をかけてきたのに驚いて、真は顔を上げた。


「あなた、それ食べないの?」

「あ、ああ……うん、食べる。食べる……」


もたつく手でお箸を持つ。

ご飯をとって口に運んでも、味なんてほとんど感じられなかった。


さっきの夢にいた自分は、きっと別の誰かだったのだろう、現実の自分とアスカの関係はこんなにもぎこちない。


そのままお互いに黙ったまま向かい合って食事を続けていたが、ふいに、アスカは箸を置いた。

彼女の食事はまだ少し残っていた。


「私のせいでしょ?」

「え……」

「そんなのによそよそしいの」


その通り、だとはもちろん言えなかったが、否定をできるほど嘘が得意でもなかった。

真が下を向いて黙り込んでいると、アスカは肩を落としながら深くため息をついた。


「悪かったわ、この前のこと……いく乃が言ってたことが、正しい」

「……でも、熾ヶ原さんの言ってたこと、まちがってない」

「もう怒ってないわ。と言うか、そう、悪いクセなの、すぐに頭に血がのぼっちゃう」


自分自身に対する呆れをあらわに、アスカはこめかみを押さえた。


「それに、」


アスカはそう続けて居住まいを正すと、真に向かって頭を下げた。

絹糸のように美しい髪が、その細い肩からこぼれ落ちた。


「ごめんなさい。まだ、ちゃんと謝れてなかったから」


アスカが真に対して真っ直ぐに謝罪したのは、病室で怒鳴ったことについてではない。

真を、守ることができなかったことについてだ。


「……っ」


彼女の謝罪を否定しようと口を開きかけたが、言葉は喉に引っかかって出てきてはくれなかった。


悪いのはアスカではない、あの化け物だ。

あんな化け物さえ現れなければ、アスカだって、たった14歳でそんな責任を背負わなくてよかったはずだ。


いろんな言葉が胸に浮かんだけれど、どれも彼女を慰めるには足り得ない気がして、真は長い髪を揺らして首を振るのが精一杯だった。


「ありがとう」


顔を上げたアスカはまた食事を再開した。

真も倣って、また箸を取る。


少し沈黙が流れた。


「あの、熾ヶ原さん……」

「なあに?」

「僕……その、どうしたらいいのか分からなくて……」

「……」


何を、とは言わなかったが、アスカには伝わったようだった。

無論、〈ヴァルキリーズ〉に加わり〈天使〉との戦いに身を投じるべきか否かについてだ。


アスカは真から視線を落として、冷静に言った。


「迷いがあるなら、やめておいたほうがいいわ」


先日のように一方的に感情をぶつけるふうでもなく、至って理性的に、アスカはそう告げた。


「でも!でも……乗らなきゃって、〈ネメシス〉に乗らなきゃって、声が、ずっとしてて……っ」


真は体操服の上から自分の胸を押さえた。


自分でも持て余している衝動めいた使命感。

黒崎真という人格がまだどちらとも決めかねている中で、どこからともなくこの体を突き動かそうとする力が、自分に働きかけている気がしていた。


「……」


その真の様子を見つめるアスカの瞳には、ひどく憐れみが滲んでいた。

その視線のわけを、真は知らなかった。


「なら。なら尚更、乗らないほうがいいわ」

「……そう、なのかな……」

「たぶん、死ぬわよ」

「っ!」


そう聞いて、突然、頭の中で何かの影像が見えた。


瓦礫の上にそびえるように佇む〈天使〉の影が自分を覆う。

周りには膝をついてくず折れる大破寸前の〈ネメシス〉の姿。

それらを映すスクリーンは、ひどくひび割れて明滅を繰り返していた。

荒れ果てたコックピットルームで、ろくに動かない体に鞭打ってコントロールスティックへと手を伸ばし、自分は___


「黒崎くん」


はっとして意識が現実に戻る。

目の前には注意深い眼差しで真を見つめるアスカがいた。


「熾ヶ原さん……?」

「やっぱりだめよ、そんな様子で〈ネメシス〉には乗せられないわ」

「……」

「あなたは死んでいてもおかしくない目にあってるの、私が、それを言うのもアレだけど……つまりまだそのときのショックを引きずっている」


確かに、アスカの言うようにある種のトラウマめいた症状は真には残っている。

夜中や、寝ている時、自分が最後に見た〈天使〉の姿を思い出してうなされることは少なくない。


これも、そうだと言うのだろうか。


「今度は、ほんとうに死んじゃうかもしれない。そんなことは私だって望んでいないわ。私たちが戦っているのは死ぬためじゃない」

「……」

「悪いことは言わないわ。あなたはあなたの生活にもどるべきよ、黒崎くん」


そう言い残して、アスカは空の食器を乗せたトレーを持って席を立った。


ひとり残された真は、整理のつかない気持ちを持て余したまま、アスカのいた席を見つめ続けていた。




そして、真は退院の日を迎えた。


自宅までは春華が車で送ってくれるとのことで、黒いセダンの後部座席で揺られながら真はぼんやりと窓を流れる景色を眺めていた。


膝の上には、入院中に使った下着や替えの体操服を詰めた紙袋と、ボロボロの鞄。

見送りに来てくれたいく乃から返された真の鞄で、中には汚れてしまった教科書や筆記用具、財布やケータイなどの他、優之介に渡すはずだったCDが新品の状態で入れられていた。


結果として、真は〈ネメシス〉に乗ることを選ばなかった。

それが正しい選択だったのかは、自分自身でもまだ分からない。


「気掛かりかね?」


運転席の春華が、ハンドルを握る腕とは反対の手でメガネを押し上げた。

心ここに在らずといった真の雰囲気を察したようだった。


「……はい」

「熾ヶ原君と話をしたそうだな」

「……」

「私も彼女が言ったことには賛成だ、迷いがある状態で操りきれるほど、〈ネメシス〉は簡単な道具ではない」

「でも……ずっと思ってるんです。僕は、〈ネメシス〉に乗らなきゃいけないんじゃないかって……」


信号を待つ車内、バックミラーに映る春華の視線が真へ向けられた。


「そう思う根拠はあるのかね」

「……わかりません。だから恐くて……女の子になって、偶然、その素質があるって聞かされただけで、そんなふうに感じるなんて……変だと思って」

「……」


窓の外の景色は、慣れたはずの青海ヶ丘の街。

けれど今は、どこか知らない街に連れて行かれているような気分すら感じている。


変わったのは自分のはずなのに、まるで自分の周りの世界が急によそよそしくなってしまったかのようだ。


「少年。これから君は本来の日常へと戻る。あと数日で学校は夏休みに入り、君には欠席分の補習が待っている」

「……」

「学校へ通い、よく勉強して、よく遊びなさい」


春華の車はやがて真の自宅のあるマンションへと到着する。


真を出迎える家族はいない。

このマンションは、〈天使〉の捕食によって真のように家族や住む場所を奪われた子どもたちのためにコジマ社が建てたものだ。


真はセキュリティドアを開けた。

鍵はいく乃から返された鞄に入っていた。


「今日、替えの教材と共に君の新しい制服が届くはずだ」


マンションのロータリーに停めた車の、ドアに背中を預けて立つ春華が思い出したようにそう言った。


「制服、ですか?」

「そうだ。届いたら一度袖を通しておくといい」

「わかりました」

「では黒崎君。また学校で会おう。困ったことがあればいつでも私を訪ねるといい」

「わかりました、ありがとうございます」


車に乗ろうとドアの取っ手に手をかけた春華は、最後にもう一度だけ振り返った。


「私が相談役に足り得るかは、わからんがね」

「なんですか、それ」

「では」


春華の乗った黒いセダンは、電気自動車の静かなモーター音とともにマンションを去って行った。


しばらくぶりの自宅だが、帰って来たと言う感慨はなかった。

むしろ、玄関を開けて感じたのは、知らない男の子のにおいだった。

住んでいた自分では感じなかった生活のにおいなのだろう、不快には思わなかったが、寛げる気分にはさせてくれそうになれそうにない。


鞄を部屋に置いて、真はそのままベッドに突っ伏した。

寝具に染みついたこのにおいにも、慣れるのには時間がかかりそうだ。

皮肉と言えばいいのか、新たな体に慣れれば慣れるほど、かつての自分が慣れ親しんだものが遠ざかっていくように感じる。


明日から学校だ。

こうして、再び通うことができるようになったことをもっと喜ぶべきなのだと分かってはいるが、今の真の心境は、それほど合理を解するものではなかった。




退院して、その翌日。

真は女子の制服に身を包み、青海ヶ丘中学へ登校していた。


春華が言っていた通り新しい制服は昨日のうちに届き、袖を通しておいた。

赤いブレザーとプリーツスカート、白と黒の好きな方を選べるブラウスに、赤いネクタイと赤いリボン。

見慣れた制服ではあるものの、まさか自分が着る日が来るなど思ってもみなかったが、なかなかどうして、この体は完璧に着こなしていた。


ブレザーは季節柄もう不要のため、真は黒の夏用ブラウスにネクタイを選んで家を出た。

白のブラウスは下着が透けて見えたのでやめておいたが、他に問題があるとすれば、胸元のボタンが少しきついことと、ズボンに慣れた真にはスカートが落ち着かないということだ。


いきなり教室に知らない女子がいるのもクラスメイトを動揺させると思い、まずは職員室に真っ直ぐ向かったのだがそれはそれで先生方をひどく混乱させた。


担任の浅倉由佳里は、春華から真の退院と復学については伺っていたらしくそれ自体はとても喜んでくれた。

しかしながら、まさか女の子になって戻ってくるとは夢にも思わなかったようで、事情を理解してもらうまで大変に苦労した。

春華が先に説明を済ませておいてくれていればと思ったが、そうであったとしても大きな違いはなかっただろうと真は思い至った。


そのまま職員室で朝のホームルームの時間を待ち、真は浅倉に連れられ教室に入った。


しばらくぶりに目にした教室、クラスメイトたちの顔。

窓際の一番前の席は空いていた。

そこはアスカの席だ。


「えぇーと……先生も驚いています。保健室の神門先生からは退院とクラスに復帰するというお話しか聞いていなかったので……」


教卓に立つ浅倉は、こめかみを押さえながら今朝真が伝えた事情を生徒たちに説明した。


入院していた同級生が、女の子になってクラスに突然戻ってくれば誰しも現実を疑うことだろう。

浅倉の隣に立って見渡すクラスメイトの顔は、銘々にしてそのような表情だった。


「黒崎君については……黒崎て呼んでいいのよね?」

「あ、はい」

「黒崎君については、朝と帰りのホームルームだけ出席して、授業については入院中の遅れもあるため自習室で特別授業となります」


その後、事務的な伝達と周知事項があり、浅倉は教室を後にした。

朝のホームルームを終え、1時間目が始まるまでのわずかな空き時間、真の席には優之介たちが詰めかけた。


「真!おま……本当に真なのか!?」

「あはは。びっくりだよね」

「びっくりってか……なぁ!?」


いろいろな感情を処理しきれず、優之介は変な声を上げながら隣の顕吾を見た。


「ほんま吃驚(びっくり)やで……メールも返さへん思たら、こんな別嬪さんになって戻ってくるんやからな」

「ごめんごめん、ケータイ手元にかえってきたの昨日だったから」

「再会を喜びたいところだけど、全く、コジマ・エレクトロニクスの技術力には驚かされるね」


野暮ったいメガネの向こうで、俊平がまじまじと真を見つめた。


真は自習室に向かう必要があるためそろそろ教室を出なければならないが、その前に一つ、大切な用事を済ませておきたかった。


真は鞄から一枚のCDケースを取り出した。


「はいこれ、優之介」


あの日、優之介から頼まれていた〈ヴァルキリーズ〉のニューシングルだ。


「これ……」

「約束だったからね。遅くなってごめん」


いきなり現れた女の子が本当に真なのかどうか半信半疑だった様子の優之介だが、差し出されたCDを見て確信せざるを得なくなった。


「お前……」


受け取った優之介の顔に悲哀が滲む。

やがてそれは怒りの色に変わり、肩を振るわせて俯いた。


「ごめんなんてことがあるかよ……っ!俺が、俺がこんなの頼んだせいでお前は……ッ!」


〈天使〉の捕食に巻き込まれたあの日から今日まで、真はいろいろな感情に苛まれたが、優之介もまた、後悔や自責に苦しんでいたのだ。


「後からわかったんだよ、なんでお前が南のほうの区画にいたのか」

「……うん」

「わざわざ俺のために街外れまで行って、〈天使〉の捕食に巻き込まれたって……俺、ずっと、俺のせいだと思って……!」

「優之介……」

「お前がそんな姿になっちまって……どうすりゃいいんだよ……ッ!?」


今まで通りでいてくれたらいい、などという言葉は喉につっかえて出てこなかった。


「……ほんと、どうしたらいいんだろうね」


そんな自嘲気味なセリフを口の中で呟くのがやっとだった。


「あかんあかん!あかんて!」


顕吾が声を張り上げて間に割って入った。


「優之介の気持ちもようわかるが、一旦落ち着け」

「……ああ。ああ、そうだな……悪い、真」

「ううん……」

「どうしたらええのかは、今度みんなで考えたらええねん」

「ありがと、顕吾」

「かまへんかまへん。それより授業遅れるで」


こいつは任せとけ、と言わんばかりに顕吾は優之介の肩を抱いて真の席を離れていった。


その背にせめて、優之介のせいではないとだけでも言えればよかったと、真は後悔した。


誰が悪いわけでもない。

友達どうしならごくありふれた頼み事を優之介はしただけだ。

アスカや〈ヴァルキリーズ〉の皆は必死で戦っていた、春華だって真を生かすことを優先したに過ぎない。


〈天使〉などという存在が、日常を脅かすこの現実が馬鹿げているんだ。


「優之介君の気持ち、真君もわかってるよね」


後に残った俊平が言った。

それは真を責める意図の言葉ではなかった。


「わかるよ、友達だから」


その返事に俊平は頷き、ふたりの背を追って席を離れていった。


真は勉強道具を詰めた鞄を担いで、自習室へと向かった。




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