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第6話

突き抜けるような群青の空に雲がたなびく。

日増しに強くなる陽差しに、真は本格的な夏の訪れを感じていた。


先日春華から渡された学校のプリントには、一学期の期末テスト週間が始まった旨が書かれていた。

学校の皆がおそらくテスト勉強に打ち込んでいる中、目下の真の取り組み課題はだった。


山々に囲まれたこの広大な土地はコジマ・エレクトロニクス本社の敷地で、真が入院する青海ヶ丘総合病院のほか、企業として、あるいは〈天使〉に対抗する国際的にも随一の組織としての様々な施設が併設されている。


その施設群の一角、学校よりもさらに広いグラウンドで、真は女の子の体を体操服に押し込んで柔軟体操をしていた。


「ん……っ、ふぅ……」


グラウンドにお尻をつけて前屈しているだけだというのに、口から漏れる吐息がどうにも甘ったるく聞こえる。


リハビリは思っていたほど苦ではなく、この体もずいぶん馴染んできたように感じていた。

違和感ばかりを覚えていたこの声にも慣れつつあったものの、ふとしたときに出る吐息や声は、思春期真っ只中の男子中学生にはいまだにだった。


「おはよ、まこっちゃん」

「おはよう。天衝寺さん」


一通り柔軟体操を終えたところで、グラウンドにいく乃が現れた。

彼女も青海ヶ丘中学の体操服にバッシュという格好で、同級生ということもあって、真のリハビリはいく乃がサポートをしてくれていた。


「もう、いく乃でいいってば」

「ああ、ごめん。いく乃」


ここしばらく一緒に過ごす時間が長かったため、いく乃とはすっかり打ち解けた。

と言うより、彼女には他人を警戒させない柔らかな雰囲気があった。


彼女は真をニックネームで呼んでいるが、真としては同級生とは言え異性___異性なのかどうかももはや曖昧ではあるが___そして憧れのアーティストの1人、気安く呼ぶことにはまだまだ抵抗を感じるものだ。


「体のほう、どんな感じ?」

「だいじょうぶ。問題ないよ」

「よっし、じゃあ今日のリハビリもがんばろっか!」

「うん、よろしくお願いします」


春華に用意してもらったリハビリのメニューをいく乃と確認する。

軽いジョギングからスタートして、少しずつ体の運動量を増やしていくという組み立てだった。


「まずはジョギングからみたいだね。行くよ?」

「うん」


いく乃とともにグラウンドの白線をトラックに見立てて走り出す。


少し遅めのペースで脚を動かしながら、真はグラウンドの白線を目で追ってぼんやりと思案する。


〈ヴァルキリーズ〉に加わるかどうかについて、真はまだ答えを出せていなかった。


アスカとはあれ以来顔を合わせてはいないし、学校には登校すらできていない。

優之介や俊平、顕吾たちとの関係もこれからどうなるのかだってわからない。


考えなければならないことは山積みだ、けれどそれによって気落ちしなくてすんでいるのは、こうしてサポートに名乗り出てくれたいく乃のおかげだった。


いく乃がいるというだけで、その空間はぱっと明るくはなやぐ。

笑顔でいることの多い彼女にはそういう魅力があった。


「女の子になってから、こまったこととかない?」


真のペースに合わせて走るいく乃がそう尋ねた。


「うーん……」


それこそ枚挙に暇がないほど思い当たるものだ。


春華はことも無げに体を作り替えたなどと言っていたが、骨格まで女の子になっているとなると最初はどうやって歩けばいいのかすらわからなかった。


だがそれも些細なことだった。

慣れてさえしまえば、今ではこうして軽い運動も苦ではない。


では、真を最も悩ませたことは何か。


「お風呂……かなぁ……」


そう、風呂だった。


「お風呂?どうして?」

「は、恥ずかしくて……」


真は頬を赤らめた。


「え?あ……あはは!そっか、そうだよね!」


男子中学生の心境を察して、いく乃はチャームポイントの八重歯を見せて笑った。


風呂の時ばかりは、裸になることもそれを直視することも避けられない。

どれだけ自分の体だと言い聞かせても、それは自我とは相反するしなやかな女の子の裸体。

目を閉じたまま風呂に入るということもこころみたが、手に感じる肌のなめらかさや柔らかさは誤魔化しようもなく。


さらに罪深いことに、この体は胸が大きい。


こうしてジョギングをしている隣で元気に弾むいく乃の胸とそう変わらないほどである、学校の女子の間に入ればかなり大きいほうだろう。


「笑いごとじゃないよ……下着だってようやく抵抗なくなってきたばかりなんだから」

「下着ないとこまったでしょ?特にブラ」

「うん、もう、その……すごく揺れて……」


走りながら、胸を抱えた。


家にも帰れていないため、下着類は春華から支給されたものを使っていた。

当然、女の子用のものだ。

比較的落ち着いたデザインのものばかりだったものの、着用するのはおろか手に持つことでさえ多大な勇気を真に要求した。


「わかる〜。着けてても揺れるけどね」

「うん……女の子って、すごいんだね……」

「ブフッ!あははっ!まこっちゃん童貞すぎ!あはは!」

「事実だし……というか、童貞なのかどうかももうわかんないよ……」


そうしてランニングを終え、社屋の日陰で休憩をとる。


季節のせいもあり、こうして運動をすればすぐに汗だくだ。

代謝効率などもこのリハビリの中で診ているらしいが、以前よりも汗をかきやすいように真は感じていた。

今は春華から渡されたスポーツ用のブラを使っているものの、おかげで胸の谷間が蒸れて仕方がない。


「あっついねー。はいこれ、まこっちゃんのぶん。春華せんせーがちゃんと水分もとるようにって」

「うん、ありがとう」


いく乃から差し出されたミネラルウォーターをもらって、一口煽る。

熱った体に冷たい水が染み入っていくようだ。


「……ねえ、いく乃」

「どうしたの?」


手に持ったペットボトルに視線を落とす、少し迷ってから、やはり、真はずっと尋ねたかったことを口にした。


「いく乃は……どうして、〈ネメシス〉に乗ることにしたの?」


頭の片隅にずっと居座り続ける問題。


「……まこっちゃんは、迷ってるんだね」

「うん……」


いく乃は少し考える様子を見せた。

答えたくない、というよりも、答え方を探している、というふうに見えた。


「私には……そうしなきゃいけない、理由があった。それだけ」


その言葉を口にしたいく乃の瞳には、真の知る明るい彼女の雰囲気とは全く異なる仄暗い何かが、うつっているように見えた。

だが、それも一瞬で、いく乃は背筋を伸ばしてぱんっ!とひとつ手を叩くと、無理に話を終わらせた。


「さ、休憩おわり!次のメニューいくよ?」

「う、うん……」


少し釈然としないながらも、真はそれ以上を無理に訊くことはできなかった。




それからもいく乃のサポートのもとリハビリは続いた。

定期テストは出席すらできないまま明けてしまった、寝る前に病室のベッドで睨んだ答案用紙は、やはりまともに回答できたものではなかった。


新しい体はすっかり元の通りに、いや、元以上の運動能力を獲得していた。

春華の立会いの下行った短距離走では、一緒に走ったいく乃に大差をつける結果となった。


「驚いたな」


グラウンドの脇、頑固たる意思で日陰の場所を陣取る春華がそう呟いた。


「はぁ……はぁ……僕も、です」


もうすでにいくつかリハビリのメニューをこなした後の全力疾走だったため、真は全身から汗が噴き出ていた。


同じように、隣で汗だくになりながら両膝に手をついて項垂れているのはいく乃だ。

汗で濡れた体操服の背中に透けて見えるブラには、いまだにどきりとする。


「はぁっ、はぁっ……んっ、はぁ……まこっちゃん、速すぎ……じゃない?」


大粒の汗が転がり落ちる顔で真を見上げるいく乃、さすがにいつもの笑顔は消え失せていた。


「順調に、黒崎君の意識とその体が同調しているという結果だろう。悪いことではない」


そう春華が言ったところで、真の中にはまだ受け入れ難いものがあった。


真は運動が苦手だった。

授業としての体育は嫌いではなかったが、休み時間にグラウンドや体育館に行くのを好む少年ではなかったし、持久走では下から数えるほうが早い。


「肉体が違えばポテンシャルも違う。それを引き出すのはもちろん個人に依るがな」


何やら引っかかる言い方をする春華に「先生が作ったんですよね?」と言いかけたが、その言葉は飲み込んだ。


この体について気になることは多い。

何故わざわざ女の子にしたのかという疑問もあるが、そもそも体を作り替えるなど可能なのかとも思う。

だが、〈ネメシス〉という巨大な二足歩行兵器を作り上げてしまうような企業ならどんな技術を持っていたとしてもそれは不思議ではないのかもしれない。


考えたところで自分には分からないし、現実に、自分はこうなっている。

思考を巡らせるべきは、この体でこれからをどうするかだ。


短距離走の後、いく乃と別れた真は春華の簡単な検査を受けた。

なんのことはない、このリハビリ期間中にもすでに何度か受けた経過観察だ。

春華いわく、結果次第ではこれで最後らしい。


それはつまり退院ということであり、決断の時が迫っているということだった。


手術台ともCT検査台とも取れるようなベッドの上に、薄手の病衣を着て横になる。

頭や腕やら脚や胸やらと、いろんなところに吸盤のついたコードを繋がれ、検査が終わるのをぼんやりと待った。


「いずれの数値も、先日から安定して推移している」


検査室を出た隣の診察室で、春華は検査結果の用紙を捲りながらメガネを押し上げた。


「念の為あと数日経過を見て、体調に目立った変化がなければ退院だ」

「……わかりました」

「嬉しくないかね?」


正直、よくわからない。


「黒崎君、私は君の選択を尊重するつもりだ。〈ネメシス〉に乗ることを拒んだところで、誰も臆病などとは思わない、それが当然だからだ」

「……〈ヴァルキリーズ〉のみんなは、どうして……」

「理由や事情はそれぞれにあるだろう。それが君の共感できるものであったとしたら、君の判断は変わるのかね?」

「……」

「そういうことだ。難しい選択を迫る立場で言うのもおこがましいが、誰かに委ねてはいけないよ。さあ、もう行くといい」

「はい……失礼します」


ちゃんと教師らしい顔もできる春華を憎らしく思いながら、着替えの体操服を取りに部屋に戻って汗を流しにシャワー室へと向かった。


「……はぁ」


胸の豊かな膨らみを、細い水流がいくつも伝い落ちていく。

少し冷たいシャワーを頭から浴びながら、眼下のそんな景色を眺めていたが、今は甘酸っぱい気持ちにはならなかった。


シャワーを出て、体操服に袖を通す。


汗で汚れたほうをランドリーコーナーの洗濯機に突っ込んでから、一度病室のベッドで横になる。


低迷した思考に意識を預けたまま、真は瞳を閉じた。




『ねぇ、聞いてる?』


声がして、瞼を開く。


正面スクリーンには、全長8メートルからの視点が薄暗い格納庫の景色を映しており、機体の情報が表示されていた。


「聞いてる聞いてる」


プライベート回線で通信しているアスカに相槌を返しながら、コントロールスティックのトラックボールを右へ流し、素早く機体のステータスチェックと起動手順を進める。


『いく乃がさ、デビュー曲納得いかないって言うのよ……』

「へぇ、いく乃がね〜ぇ」


メインシステムを戦闘モードへと移行し、操作設定をマニュアルに変更。

AIによる戦闘補助を許可すると肝心な時に機体が思うように動いてくれない、あの化け物たちとの戦闘において、それは命取りだ。

この子のピーキーな性能をAIアシストなしで完全に制御するのはかなり難しいが、大丈夫、今回もやれる。


『私も正直、ちょっと微妙なところはあるなって思ってたんだけど、面と向かって気に入らないって言われて、ムキになって言い返しちゃってさ……』

「そっかそっか」


機体のセットアップを終え、スティックを握り直す。

堕天を観測した部署からの報告を頭の中で確認する。

これから戦う〈天使〉は、いつも以上に油断できない相手になるはずだ。


『ちょっと、本当に聞いてる?』

「ううん、なんだっけ?」


うそだ。

彼女の話を聞いていないなんてあり得ない。


それでもそう返事をしてしまうのは、好きな子にほど意地悪をしてしまいたくなるアレに似ていた。

それが幼稚だとわかっていても、こればかりはやめられそうにない。


『もう……』


むくれた声でぶつぶつと文句を言うアスカの声がスピーカーから聞こえる。


「ごめんごめん、戻ったらちゃんと聞くから」

『もういい』


そう言ってアスカは一方的に通信を切った。

あの様子なら後でちゃんと埋め合わせをしてあげないとだめそうだ。


今日はなんて言ってなだめようか。

戦闘を頑張ったご褒美も兼ねて、どこかに連れて行くのもいいかもしれない。

そう言えば、街の外れにある古いギターショップに行きたがっていた、いつもの天邪鬼で決して肯定はしなかったけど、珍しくわざわざリーフレットなんて部屋に持って帰ってきていたくらいだから、興味があるに違いない。

うん、そうだ、そこに行こう。

行き先も告げずに無理やり連れ出して、道中あの子がうんざりするくらいの甘い言葉を囁いて、そしてずっと来たかったお店の前に着く。

きっと驚くだろう、そして喜ぶはずだ。

でも、アスカは照れて意地になるに違いない。


その様子が目に浮かんで、思わず頬が緩んでしまう。


アスカといく乃は、本当は仲が良いのだ。

衝突することも多いふたりだが、それは互いを憎み合っているからではない。


いく乃は、空気を読む子だ。

はっきりモノを言うタイプであると同時に、相手を尊重する心を持っている。

そのいく乃が指摘したと言うなら、きっと大事なことなのだろう。

アスカがやや感情的になりすぎているだけなのだ。


直情的で素直であるのがまさに彼女の可愛らしいところだが、時にそれが戦局を分かつということを、あの子はまだ実感していない。


だが、なんだっていい。

自分が守ればいいんだ。

こんなバカげた戦い以外に必死になれることがあるなら、それはきっと幸せなことだ。


そのアスカの幸せを、自分が守る。

この機体ならきっとできる、応えてくれる。

相手がどれだけ強大であろうと関係ない。


あらゆる手を尽くしてでも、〈天使〉を討つ。


「ふぅ……」


深呼吸をして、集中。


ぐっとスティックを押し込み、〈ネメシス〉の人機一体システムを起動する。

スクリーンに表示される『DIVE TO NEMESIS』の文字、同調媒体物質がパイロットルームを満たす。


ターミナルインターフェースに表示された機体との同調率が一気に上昇し、98%あたりで安定した。


『全機、聞こえる?』


オープンチャンネルから深雪の呼びかけが聞こえた。

戦闘開始前に必ず行われる通信テストだ。


『聞こえてるわ』

『うん、聞こえてる』

「聞こえてるよ」

『いいわ。通信問題なし。みんないつも通りにやること、良いわね?』

『はーい』

『わかってるわよ』


垂直カタパルトが機体をデッキに固定する。

カタパルト内の圧力が上昇し、射出までのカウントダウンが始まった。


『それじゃあ……〈ヴァルキリーズ〉!レディ___?』


深雪の掛け声に全機が一斉に答えるのと同時、上からの凄まじい加重が体を襲い、金属が摩擦する音が鳴り響く。

やがて加重が消え、薄暗い空間から陽光の下へと機体が射出された。


眼下に広がる青海ヶ丘の街、その中に瓦礫の山を作りながら暴れ回る歪でグロテスクな白い巨体が見えた。


機体の四肢を広げて姿勢を維持し、街の大通りに着地、エキゾーストが噴き上がる。

頭部センサで捉えた敵の姿をAIがスクリーンに拡大したのと、〈天使〉がこちらに気づいたのは、ほとんど同時だった。


『各機、散開!』

「了解!」


背部ハードポイントのエクステンションが稼働して、背負っていた武器が右肩の上に移動する。

両腕を操作してその武器を構え、〈天使〉へと〈ネメシス〉を走らせた。




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