記憶の追想から現実へと意識が戻ってくる。
黒崎真は自分が真っ白な天井の一点を見つめていたことに気づいた。
窓辺に目をやると、保健医の春華が開いた窓から外を眺めていた。
差し込む日差しが病室に落とす彼女の影が、先ほどから少し傾いていることには気づかなかった。
「思い出したかね?」
真に背を向けたまま、春華がそう声をかけて来た。
後頭部に目でも付いているのだろうか、あるいは、真が僅かに首を動かした気配を察したのかもしれない。
「はい……」
自分の声に違和感は拭えない。
何度聞いても、それは自分の声ではなかった。
「死傷者56名。倒壊した建物の数は28棟……被害は、決して小さいとは言えないだろう」
最後に見た光景。
「死んだ」と言う春華の言葉。
そして先程から感じている、自分自身の
春華がそれを説明してくれるのを真は待った。
「君は〈天使〉との戦闘に巻き込まれ、生死の境を彷徨った」
春華は長いポニーテールを揺らしてこちらに向き直ると、真のいるベッドの傍らへ立った。
「少年。先ほど私は君に、君は死んだと伝えた。だがこうして君は生きている」
「……」
「手術の際に生じた問題とはそれだ。君の肉体は損傷があまりにも激しく、
「……つくり、かえる?」
春華は、指先で丸い小さなメガネを押し上げた。
「鏡を見たまえ。もうそろそろ体を起こすくらいは楽にできるはずだ」
片手で体を起こすようジェスチャーしながら、春華は真のベッドを回り込む。
言われた通り体を起こしてみると、確かに体は先程よりもずっと軽く感じられた。
ベッドの上に腕をついて上体を起き上がらせると、肩から黒く長い髪が溢れた。
ベッドを回り込んだ春華が、サイドテーブルから畳んであった三面鏡を手に取る。
彼女はそれを開き、真の顔が鏡に映るよう正面に差し出した。
「……」
それは驚きと言うよりも納得に近い感情だったかもしれない。
鏡に映っていたのは、前髪を切り揃えた長い黒髪の可愛らしい女の子だった。
黒目の大きな澄んだ瞳と長いまつ毛、すっと筆で引いたような形のいい眉、目鼻立ちは整っていて、透明感のある肌には鮮やかな口唇が咲いている。
無論、そこに映し出された姿は真が覚えている自分の顔ではなかったし、面影すら感じられない。
「驚かないようだな」
自分自身、むしろそのことに驚いていた。
事実を目の当たりにすればもっと取り乱すと思っていたのに、胸中はもう、水を打ったように静かだった。
このあまりにも突飛すぎる出来事を頭が___もはや自分の頭とも言えないが___どう捉えるべきかと持て余しているのかもしれない。
「第二の人生、とまで大げさには言わないが、見ての通り君はもう生まれ変わったも同然だ、少年」
春華は三面鏡を畳んで、サイドテーブルの上へ戻した。
「先生……」
「どうしたね」
「僕は……僕は、どうしたらいいんですか、これから……」
声も、体も変わり果て、自分が『黒崎真』という男子中学生だったことを証明するのは、もはや自分の記憶だけだ。
自分は、元の学校生活に戻れるのだろうか。
「ももには……もどれるんでしょうか……」
優之介や俊平、顕吾の顔が思い浮かぶ。
最後に四人で話をした昼休みの屋上や、たった数日前の些細な約束が、ずっと遠くの過去になってしまったように感じられた。
「すまないが、元に戻すことはできない」
「……」
「たが、これからどうすべきかは、少年、それは君次第だ。あいにく私は、死の淵から生還した君へ命の尊さや人生の豊かさを説いて聞かせ、励ますことができるような教師ではない」
春華はメガネを押し上げ、続けた。
「だが、君がこれから先をどうすべきか見出せないと言うのなら、私は、君に、一つの選択肢を与えることができる」
「選択肢……?」
そう言った時、病室に新たな人物が入ってきた。
赤いブレザーと赤いプリーツスカート、青海ヶ丘中学女子生徒の制服をすらりとした長身で着こなすその女の子は、
腰まで届くような艶のいい黒髪が彼女が歩くのに合わせて揺れる。
「おはよう、黒崎君」
切れ長の瞳を真へ向けて、深雪は優しく微笑んだ。
「久留瀬先輩……?」
彼女もまた〈ヴァルキリーズ〉のメンバーであり、最年長としてチームを束ねるリーダー。
あの時、ショットガンを携えて戦っていた〈ネメシス〉のパイロットだ。
真としては、深雪とは学校の先輩と後輩という間柄になる。
深雪は春華の隣に立つと、小脇に抱えたバインダーを手渡した。
「神門先生、やはり期待通りの数値でした」
「そうだろうな。まあ、あくまで期待値に過ぎない。あとは本人次第だろう」
深雪から手渡されたバインダーを見つめながら、春華は指先でメガネを押し上げた。
「さて、少年。先程も言ったが、君には選択肢がある」
念を押すように改めてそう言うと、バインダーを今度は真へと差し出す。
受け取ったそれにはコピー用紙が何枚か閉じられていて、何かの波線が白黒で印刷されていた。
それ以外の情報は全て英語だった。
至って平均的な中学二年の英語力ではそれを読み解くことなどできなかったが、ひとつだけ、『NEMESIS』と言う単語だけは拾うことができた。
「これは……?」
「術後、君が眠っている間に、君の波形と〈ネメシス〉の波形を比較させてもらった。結果は見ての通りだが……」
春華は顎で真の手にあるクリップボードを指した。
見ての通りと言われても、当然ながら真にはまるでわからなかった。
「……結果を先に言うと、君の波形と〈ネメシス〉の波形が一致した」
「それは、つまり……どういう……?」
「あなたに、〈ネメシス〉のパイロットとしての素質があるということよ、黒崎君」
深雪が代わりに答えた。
〈ネメシス〉のパイロット?
自分にその素質がある?
その言葉が意味するところを考える間もなく、まくし立てるように春華が説明を続けた。
「公(おおやけ)に知られている通り、〈ネメシス〉には10代前半の少女しか搭乗ができない。感受性の高い時期の少女でなければ〈ネメシス〉に搭載されている人機一体システムを通して機体と同調できないというのが、その理由だ」
春華はさらに続ける。
「機体と搭乗者が同調することで初めて、〈ネメシス〉はその本来の性能を発揮できる。無論、誰でもそれを可能とするわけではない。〈ネメシス〉の波形と搭乗者の生体波形が一致する必要があるのだが、君の波形と、弊社が保有するある〈ネメシス〉1機の波形が高い水準で一致した。これはあくまで参考値でしかなく、搭乗者の精神状態によって同調率は大きく上下し___」
「神門先生」
真が唖然となっている様子を見て、深雪が割って入った。
目覚めたら女の子になっていたという事実だけでも手に余るというのに、この上長ったらしい春華の説明など聞かされたところで到底理解の追いつくものではない。
この手の話は喋り出すと止まらないタイプなのか、春華は一言「すまない……」と言ってメガネを押し上げると、少しバツが悪そうに一歩後ろへ下がった。
代わりに深雪が一歩、真の前へ出る。
「少し難しい話をしたけれど、黒崎君、要するに、あなたには〈天使〉と戦うための力があるの」
「僕に……?」
「〈ヴァルキリーズ〉として、私たちと共に戦ってくれないかしら」
真っ直ぐな瞳を真へ向け、深雪はそう言った。
春華の言った選択肢、それは、自分が〈ヴァルキリーズ〉の一員となることだったのだ。
逡巡する、真が目の当たりにした〈天使〉との戦いの様子が再び脳裏を駆け巡った。
ロボットを駆り、巨大な侵略者へと立ち向かう彼女たちの姿。
まだ中学生であるはずの彼女たちが、命を賭して戦う姿が、体は変わってしまったとしても真の記憶に強烈な印象を伴って鮮明に焼き付いている。
「もちろん無理強いはしないわ。あなたがそれを望まないと言うなら、私たちは黒崎君が元の日常に戻れるよう最大限支援する。でももし、力を貸してくれるのなら___」
深雪の言葉は途中だったが、廊下から聞こえてくる騒がしい声がそれを遮った。
「ねえアスカ……アスカってば!落ち着いて!」
「落ち着いてなんかいられないわよ!」
「いきなりそんな怒鳴りこんだって……」
「うるさいってば!いく乃もめくるも、ついて来いなんて言ってないでしょ!?」
言い争うような声と共に、数人分の大きな足音が近づいてくる。
程なくして、深雪と同じ赤いブレザーを着た女の子が3人、病室に駆け込んで来た。
「……っ!」
先頭にいたアスカが、真を視界に捉えるなりその端正な顔を歪めた。
怒りや苦渋、あるいは悲しみともとれる表情だったが、いずれであってもその理由について真には身に覚えがなかった。
「熾ヶ原さん……?」
「黒崎くん」
つい先程まで廊下で怒鳴っていたはずのアスカは、押し殺したような低い声で真の名前を呼んだ。
アスカは一歩踏み出し、真っ直ぐにベッドにいる真へと向かう。
「熾ヶ原君、君がここへ来ることは許可していないはずだが」
「あ、そう」
春華はそう言ったものの、無理にアスカを追い出すようなことはしないらしい。
アスカの様子からして、彼女がただ見舞いのつもりで来たわけではないのは見て分かる。
真のそばに立ったアスカは、きつく引き結んだ唇をゆっくりと開いた。
「黒崎くん、あなた、どうするの」
「え……と……」
「〈ヴァルキリーズ〉に入るつもり?」
それについては、今この場で答えの出せるものではなかったが、アスカは構うことなく続けた。
「言っておくけれど、あなたには無理よ」
「え……?」
「一度でも……たった一度でも闘うことを諦めたあなたには、
アスカはそれまで押し留めていた感情を爆発させたように、突然声を荒げた。
「あなたはあの時立ち上がらなかった!逃げることをやめてた!〈天使〉に奪われることを受け入れようとしてた、違うのッ!?」
「……っ」
迫り来る絶望を前に、立ち上がることすらできなかった真へ、アスカは〈ネメシス〉のコックピットから「諦めるな」と叫んでいた。
同級生の女の子たちが命懸けで闘っているというのに、自分は怯えることに疲れ、生きることを諦めようとしていた。
「あなたを助けようとしていく乃は怪我した!あなたがいたからめくるはギリギリまで撃つのを躊躇った!みんな必死だった!」
アスカの青く美しい瞳が、真を射抜く。
胸を締め付けられるような気持ちだった。
「それを、あなたは……ッ!」
「アスカっ!」
今にも掴みかかりそうになっていたアスカを制したのは、明るい色のウェーブヘアをツーサイドアップにまとめた女の子、いく乃だった。
病室のドアから真とアスカのやり取りを見守っていたが、激昂したアスカの様子を見て慌てて割って入った。
真から引き剥がすように、アスカの肩を掴む。
「いいから、落ち着いて!」
「離してよ!」
いく乃の手を振り払うアスカ、しかし、いく乃はすぐにアスカの手を掴んだ。
「黒崎君は悪くないでしょ?こうなったのは、ぜんぶ、いく乃たちのせい。ちがうの?」
「……ッ」
「そもそもアスカが命令を無視してあの〈ネメシス〉で出撃したから連携がとれなかった。いく乃たちもそれをカバーしきれなかった。黒崎君はたまたまあそこにいて、まきこまれただけ。ほんとはわかってるでしょ?」
アスカは下唇を噛んだ。
真っ白なその細い顎に、血が一筋、伝い落ちる。
「……わかってるわよ」
呻くように声を絞り出して、アスカはいく乃の言葉を受け入れた。
彼女の中では何も納得できていない様子だったが、怒りに任せて真に詰め寄るようなことはもうなかった。
アスカが握りしめた拳を解いたのを見て、いく乃はゆっくりと彼女から手を離す。
「……ごめんね、黒崎くん。入隊するかどうかは、あなたの好きにすればいいわ」
それだけ言うと、アスカは踵を返して病室を後にした。
プラチナブロンドの髪が揺れる彼女の背中が、ドアの向こうに見えなくなるのを見送って、いく乃は真へ向き直った。
「ほんとに、ごめんね。黒崎君」
「ううん……」
「深雪ちゃん、アスカのところ行ってくるね」
「うん、独りにしないであげて」
「わかってる。またね、黒崎君。もし〈ヴァルキリーズ〉に入るなら、いく乃は大歓迎。いっしょに怪獣やっつけよ!」
振り返りざまにウィンクを残して、アスカを追っていく乃も病室を出て行った。
深雪のほうを見ると、彼女の後ろにはいつの間にか小柄な女の子がしがみついていた。
濃いアッシュグレーの長い髪の女の子は〈ヴァルキリーズ〉最年少の中学一年、
長い前髪から覗く大きな瞳に涙をたたえて、今にも泣き出しそうな表情で真を見つめていた。
「怖かったわね」
深雪がめくるの頭を優しく撫でてやると、めくるは目を閉じて頭をふるふると左右に振った。
それでもまだ泣き出してしまいそうな表情ではあったが、彼女はそっと深雪のそばを離れた。
深雪は困ったような微笑みを真へ向けた。
「ほんとに、ごめんなさい。黒崎君」
深雪の見せたその顔は、手に余るメンバーを抱えた部活の部長といったふうに見えた。
〈ヴァルキリーズ〉は不安定な思春期を迎えたばかりの女の子たちの集まりだ。
最年長とは言え、彼女もまだ中学3年。
リーダーとしてのいろいろな心労を、真は察した。
「いく乃に言われてしまったけれど、もし〈ヴァルキリーズ〉に加わってくれるのなら歓迎するわ。アスカのことは……どうしようかしらね」
深雪は春華を見つめた。
「熾ヶ原君のことは確かに憂慮すべきことではあるが、簡単に解決できることでもない」
春華はメガネを押し上げた。
「それに、黒崎君が〈ヴァルキリーズ〉への入隊を希望するかどうかも、この場で結論を出せる話ではないだろう。いずれであれ、まずはその体に慣れるためのリハビリが必要だ。その間、ゆっくり考えてみてはどうだね」
仮に自分が〈ヴァルキリーズ〉に加わったとして、あんな化け物を相手に勇敢に闘ってみせるなど想像できなかった。
しかしだからと言って、春華や深雪の誘いをすぐに断る言葉も出てはこない。
歓迎すると言ってくれたいく乃や深雪に遠慮しているからではなく、〈ネメシス〉に乗らなければならないという使命を、誰かの声が、胸の中で、小さくも力強い意志を以て、叫んでいる気がするからだ。
真は確かに生きることを諦めようとしていた。
いつまで続くかわからない〈天使〉との戦いに、ただの無力な少年は白旗を挙げるつもりだった。
けれど、こうして生きている。
アイデンティティのほとんどを失ってしまっても、ここにまだ黒崎真はいるのだ。
繋ぎ止めてもらったこの自分に、何ができるのか。
考えてみようと思った。
「そう……してみます」
「うむ。リハビリは明日から行う。今日はもう休むといい」
「はい」
「私たちも出ましょうか。行くわよ、めくる」
春華が白衣を翻して病室を出ていくのに続いて、深雪もドアのほうへ向かった。
めくるも深雪を追いかけて部屋を出て行こうとしたところで、真に振り返ると、一言だけぼそりと呟いた。
「……おだいじに、黒崎、先輩……」
「え、あ……うん。ありがとう」
ひとり病室に残された真は、そのままベッドに背中を投げ出した。
短い間に情報がなだれ込み過ぎた。
目覚めたばかりで、気分はかなり疲れてしまっている。
〈ヴァルキリーズ〉に加わるのか、日常に戻ることを選ぶのか。
それは真自身にも分からない。
瞳を閉じる。
先程のアスカの様子が瞼の裏に浮かんだ。
彼女のことだけでなく、考えなければならないことはたくさんあるが、しばらくもせず睡魔が思考を奪っていった。
明日からリハビリなら、今はもう休もう。
真は押し寄せる眠気に意識を委ねた。