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第13話

夏休み最後の土曜日。


補習の卒業試験について難なくパスした真は、新たな挑戦課題のため学校に来ていた。


ちなみに、補習仲間だったいく乃はと言うと、彼女の授業進度の遅れについてはそう簡単に取り戻せるものではないので、引き続き補習だった。


「まこっちゃ〜ん、さびしいよぉ」


補習最終日、そう言って抱きつかれた時は流石に困り果てた。


「さ、今日も発声練習からね。まずは声をしっかり出すこと、行くわよ?」


なんだかんだと接する時間の長かったいく乃を思い、一抹の寂しさを真も感じていたが、アスカの声で現実に意識が戻ってくる。


「うん」


アスカに〈ヴァルキリーズ〉の文化祭ステージの飛び入り参加を誘われて数日。

こうして、朝からみっちりと練習の日々だ。


アスカもダンスレッスンがあるため、その時は音源を聴きながら教わったことを意識して、ひとり音楽室で練習。

録音した自分の歌声を聴いて、音程を外した部分などを修正、録音、少しずつ音源との差を減らしていく。


歌声に限らず、真も録音した自分の声を聞くことに抵抗を感じるほうだが、ならば、まだ他人の歌を聴いている気分に近くて練習にも打ち込むことができた。


「いいわ。それじゃあ、昨日渡した曲の歌い出しから」

「はい」


鞄から楽譜を取り出す。

手近なスタンドにそれを置いて、ぐっと胸を張って背筋を伸ばした。


アスカもギタースコアを取り出して、そばのスタンドにそれをセットする。

椅子に腰を下ろすと、組んだ膝にその上に使い込んだ様子の窺えるクラシックギターを乗せて、チューニングを始めた。


ネックの弦を押さえて、ピックをはじきながらペグを調整する。

不意に、アスカと目が合った。


「どうしたの?」


そう言われて、思わずじっと見つめてしまっていたことに気づく。


「ああ、いや……絵になるなって……」

「なあに、それ」

「あはは……」

「発音はきのう教えた通りだけど、読めないところない?」

「だいじょうぶ。辞書もひいてきたから」

「あら、感心。じゃあ行くわよ」


アスカがギターのボディを数回、ノックする。


アコースティックなイントロの後、彼女の青い瞳が真へ合図する。


辞書で調べて来たと言うのは本当だ。

けれど、歌詞の意味は、まだよく掴みきれてはいない。

単語やイディオムの意味を理解できても、英語の教科書で見るようなある種機械的な配列とは、英詞はやはり異なるものだ。


アスカがこの歌詞にどんな思いを込めたのか、それを考えながら、凡庸な発音で歌詞を紡いでいく。


音源はアスカ自身が歌唱しているものをもらって、それを参考として何度も聴いた。

真も聴いたことのある楽曲、〈ヴァルキリーズ〉がデビュー曲として発表したもののアコースティックアレンジといったふうだ。


ちらりとアスカを窺った。

体を揺らしてリズムを取りながら、かたわらのギタースコアに目を落として、演奏していた。

声にはしていないが、彼女自身も歌詞を口遊んでいるようで、艶やかな愛らしい唇が開いたり閉じたり、すぼまったり、ずっと見ていられる光景だ。


「上出来よ、すごく良くなってる」


アスカが社交辞令やお世辞を好まない女の子というのは分かっていた、だからこれも彼女からの実直な称賛だとわかる。


「さて、そろそろ来る頃かしら」

「?」


アスカが教室の時計を見てそう言うのと音楽室の扉が開くのはほとんど同時だった。


「おはよ、おふたりさん」


そこに立っていたのはショートボブの黒髪にフレームの太い黒縁メガネをかけた女の子、真とアスカのクラスメイトである四月一日わたぬき陽傘《ひがさ》だった。


「四月一日さん?」

「ひさしぶり、黒崎君。やっぱりまだ違和感あるね」

「ありがと、陽傘。来てくれて」

「断らないよ、あんたの頼みならね」


そう言って、陽傘は真っ直ぐピアノへ向かうと椅子に腰を下ろして鍵盤を開いた。


「ピアノの伴奏をお願いしたの」


ぽかんとしていた真へアスカが説明した。


「四月一日さん、ピアノ弾けるの?」

「まあね。そこの酔狂なクラスメイトの期待にこたえられるかは、わかんないけど」

「心配はしてないわ。さっそくだけど、合わせてみましょうか。真くん、ちょっと聞いててね」

「うん」


アスカと陽傘が視線を合わせる。

先ほどのようにアスカの合図で演奏が始まった。


ギターのサウンドにピアノの伴奏が乗り、同じ曲ながらその印象はがらりと変わる。

ボーカルパートもアスカが担当して、これが改めてデモ音源ということらしかった。


「こんな感じ。どう、陽傘?」

「大丈夫、だいたい思ってた通り」


楽譜に鉛筆を走らせながら陽傘がそう言った。


「真くんは?」

「えっと……がんばってみる」


聞き入ってしまって、あまり参考としては意識しなかった真はそう答えた。


陽傘を交えた練習は昼過ぎくらいまで続き、真の喉を考慮して昼食のタイミングで今日のところは終了となった。


ギターをケースにしまうアスカを待って、3人で音楽室を出る。


「明日は?」


陽傘が尋ねた。


「いちおう、同じ時間から練習の予定よ」

「分かった。家でも練習しとく」

「四月一日さん、家にピアノあるの?」

「あら、真くん知らない?陽傘のお母さん、ピアノ教室の先生なのよ」

「ごめん、ぜんぜん知らなかった」


通りで演奏にそつがない訳だと、真は納得した。


陽傘とはこの春から同じクラスになったばかりだ。

一学期は半分近く通えていないし、そもそもとして女子との交友関係はまったく広くない。

彼女とちゃんとした会話をしたのは、おそらく、今日が初めてだった。


「黒崎君、音楽の授業全然声出してなかったからさ。アスカから話聞いたときは、正直、かなり不安だったけど、」

「まあ、僕、音痴だから……」


あはは、と苦笑いを返す。


陽傘は続けた。


「ううん、かなり良いと思う」

「ほんとう?」

「世辞なんて言わないよ。もう少し、歌に感情が乗せられるようになると、もっと変わってくると思う」

「感情、かぁ……」


アスカの熱心な指導のおかげで、自分の歌が良い方向へ変化しつつあるのは真も自覚できていた。

それでも、やっと音程を追いかけられるようになったばかりだ。


「自由に歌えばいいのよ」

「自由に?」

「この曲の数分間。ステージの主役はあなたなのよ、思うように、好きなように歌っていいの」

「緊張する……」

「あんな化け物相手に、ロボット乗って戦ってるんじゃないの、あんたたちさ」

「うーん、それとこれとは……かなぁ」


並んで正門を出て、坂を下る。

街に降り、簡単な別れの挨拶を交わして、それぞれ自宅のほうへと分かれた。


その日の夜。

夕飯も終え、風呂も済ませた真はベランダから街を眺めていた。


耳に差したイヤホンでは、あの日の戦禍を生き延びた愛用のミュージックプレーヤーで文化祭で歌う曲のデモを流している。


アスカからは好きに歌えば良いと言われたものの、何かとっかかりがあるほうが、やはり気持ちも入りやすい。


改めて、手元のプリントへ目を落とす。

流麗な筆記体が書き込まれたそれはアスカから貰ったボーカルスコアだ。


細かい部分までは分かってはいないが、この歌が今はもういない誰かを想って綴られたものであるのは、間違いなさそうだった。


「……」


誰を想って綴ったものなのか、音楽室で歌って見せてくれた時のアスカは誰かを失った悲しみを本当に背負っているように見えた。


あの夢を思い出す。

キスをしたことよりも、アスカが姉と呼んだことがずっと胸に引っかかっていた。


彼女に姉がいるというのは聞いたことがない、だからきっとただの夢なのだろう。

けれど、なぜかそう言って一蹴することはできなかった。




夏休みが明け、真は、2学期を無事に本来の教室で始めることがかなった。


いく乃と過ごした時間があまりにも長かったため、彼女のいない寂しさはあるが、何も学校からいなくなった訳ではないのだ、会いに行けばいい。

彼女が登校しているかは、また別の問題ではあるが。


「やっぱり見られるなぁ」

「だろうね。それはそれで、慣れる他ないんじゃない」


前の席に座る陽傘がそう言った。

2学期になって最初のイベントである席替えによって、彼女と前後に並んだ席となった。


夏休みの練習で陽傘とも仲が深まり、今ではよく話すクラスメイトだ。


「みんなだって、その内慣れるだろうし」


陽傘はアスカからもらったバンドスコアを見つめていた。


「私はもう慣れた。話せば、なんとなく記憶にある黒崎君だし」

「はぁ、みんな早く慣れてくれないかなぁ」


ジロジロ見られるということはないが、不意に視線を感じる状況はあまり落ち着けるものではない。


真は席を外すことにした。


「どこ行くの」

「屋上前の自販機。四月一日さんも何かいる?買ってくるよ」


そう言うと、陽傘は黒縁メガネの奥の瞳をぐるりと動かして思案した。


「なら、コーヒー」

「ブラック?」

「うん」


財布を出そうとした陽傘を制止して、真は教室を出た。


階段を登り、屋上のドアの前に設置された自販機コーナーの前に着くと、真のよく知っている人物がいた。


「優之介?」

「ん?」


短髪で引き締まった体格、少し肌が焼けているのはこの夏も運動部の助っ人に駆り出されたからだ。


「ああ、真か。どうしたよ」

「教室落ち着かなくてさ。なに買ったの?」

「えっと……」

「待って、当てるね?あれでしょ、あの炭酸のやつ」

「たぶん正解」


手に持ったペットボトルを真に見せる優之介。

真の予想通り、彼が愛飲している炭酸ジュースで間違いなかった。


「夏休み部活だったんでしょ?」

「助っ人だけどな。お前は補習か」


優之介はペットボトルの蓋を開けた。


「うん」


財布から小銭を取り出して、自販機に投入する。

この体になってから少し味覚も変わったようで、前みたいに、優之介が飲んでいるような甘い炭酸ジュースは飲まなくなった。


代わりに、無糖のストレートティーなどを好んで飲んでいる。


自販機からペットボトルを取り出す。


陽傘の分も買おうと、財布から追加で小銭を出そうとして、不意に優之介に呼ばれた。


「なあ、真」

「どうしたの?」

「いや、その……お前の復帰祝い、してなかったからさ」

「復帰祝い?」


聞き返すと、優之介は少し照れくさそうにして視線を外した。


「本当は、お前が退院したときにやろうって、顕吾と俊平とも話してたんだよ。でも、俺が……」

「うん」

「悪かった、まさか女の子になってるなんて思わなくてさ……どうしたらいいのかなんて、分かんねえのは真のほうだったよな」


そう言うと、優之介は改めて、すまなかったと頭を下げた。


「もう。いいのに」

「ケジメだ。友達、だろ」


優之介のこういうところが、自分が彼と長い付き合いを続けられる理由だった。

快活そうな外見通りの、潔い少年なのだ。


「そっか、それなら僕も、優之介に言っておかなきゃいけないこと、あるよ」

「なんだ?」


改めて優之介へ向き直る、真は彼の目を真っ直ぐに見つめて、あの日言えずにいた言葉をやっと伝えた。


「優之介のせいじゃない。僕がこうなっちゃったことは、優之介のせいでも、誰の責任でもない」

「真……」

「ほらほら。そんな辛気臭いカオ、似合わないよ?」


人差し指を伸ばして、前よりも少し背の高く感じる優之介の頬を突っついてやる。

照れくさそうに真の手を払いのけた優之介は、やっといつもの彼の顔に戻った。


「さあて、復帰祝いはいつにすっかな。お流れにしちまった分、盛大にやらねぇとな」

「なに、期待していいの?」

「おう。お前の話も、その時聞かせてくれよ。色々、あるんだろ?」

「ありすぎてこまるくらいね」


陽傘に約束したブラックコーヒーを買って、真は優之介と教室へ戻った。




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