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鎮魂の絵師
鎮魂の絵師
霞花怜
歴史・時代日本歴史
2025年04月25日
公開日
1.8万字
連載中
「生きていい」 そう言ってくれたのは、兄さんだけだから。 絵師・栄松斎長喜は、蔦屋重三郎が営む耕書堂に居住する絵師だ。ある春の日に、斎藤十郎兵衛と名乗る男が連れてきた「喜乃」という名の少女とで出会う。五歳の娘とは思えぬ美貌を持ちながら、周囲の人間に異常な敵愾心を抱く喜乃に興味を引かれる。耕書堂に居住で丁稚を始めた喜乃に懐かれ、共に過ごすようになる。長喜の真似をして絵を描き始めた喜乃に、自分の師匠である鳥山石燕を紹介する長喜。石燕の暮らす吾柳庵には、二人の妖怪が居住し、石燕の世話をしていた。妖怪とも仲良くなり、石燕の指導の下、絵の才覚を現していく喜乃。「絵師にはしてやれねぇ」という蔦重の真意がわからぬまま、喜乃を見守り続ける。ある日、喜乃にずっとついて回る黒い影に気が付いて、嫌な予感を覚える長喜。どう考えても訳ありな身の上である喜乃を気に掛ける長喜に「深入りするな」と忠言する京伝。様々な人々に囲まれながらも、どこか独りぼっちな喜乃を長喜は放っておけなかった。娘を育てるような気持で喜乃に接する長喜だが、師匠の石燕もまた、孫に接するように喜乃に接する。そんなある日、石燕から「俺の似絵を描いてくれ」と頼まれる。長喜が書いた似絵は、魂を冥府に誘う道標になる。それを知る石燕からの依頼であった。

1.

 天明三年、卯月晦日(一七八三年六月一日)。満開の桜が空を覆い尽くした季節は、とうに過ぎた。散り損じた少しの花が、迫る仲夏の風に急かされ、枝から離れる。薄紅の花弁が一片ひとひら、はらりと舞い散った。空は夜を迎え入れようと、夕の茜を仕舞いこむ。


 灯のない薄暮。 

 逢魔時は、見えないはずの者たちの姿が浮かび上がる刻だ。

 蔦屋重三郎が営む《耕書堂》の絵師・栄松斎えいしょうさい長喜ちょうきは、薄暗がりをゆっくりと歩いた。


「確か、この辺りじゃぁ、なかったかねぇ。探すとなると、見付からねぇもんだなぁ」


 きょろきょろと、辺りを見回す。長喜は柳の木を探していた。読売によると本所・置行堀辺りの柳の下に、妖怪が出るという。


 紙の束を懐に仕舞いこんだ長喜の胸は、ふっくりと膨らんでいる。同じように、胸の奥で大きく膨らむ発奮を抱えて、暗がりの中に眼を凝らす。

道の先から、二人の男が大慌てで走ってきた。


「出た、出た! 柳の下の幽霊だ! 俺らは魚なんざ、釣ちゃぁいねぇのに」

「そいつぁ、置行堀の狸の悪戯だろうが! あらぁ、別もんだ!」


 長喜は意気込んで、走り抜ける二人の男を呼び止めた。


にいさんら! その幽霊とやらは、子を抱いた女かね? 柳の下に立っていたけぇ?」


 一人の男が歩を緩め、長喜を振り返った。


「あぁ、そうだよ! 読売が書いていた通りだ! あんたも、この先に行くなら気を付けな!」


 口早に言い残し、男らは薄暮の暗がりに消えて行った。

 長喜は顎を擦り、にやりと口端を上げた。


「御忠告、どうも。俺ぁ、これから、その幽霊に会いに行くんだ。読売ってぇのも、嘘ばっかりじゃぁねぇらしい」


 男らの背中を見送って、長喜は早足で歩き出した。

男衆が走ってきた道を、真っ直ぐ進む。踊る胸に歩が速まる。気付けば走っていた。じわりじわりと、人でない者の気這いが流れてくる。眼前に、柳の木が浮かび上がった。


 薄暗がりの中で白い柳が、ゆらりと揺れる。暗闇に浮かぶ柳の白が、やけに鮮明に映った。現と切り離された異世界の風の中に、ぼんやりと白い影が佇む光景を見付けた。慎重に、そっと、白い影に近づく。白い影は徐々に形を成して、女の姿になった。


(子は抱いちゃぁ、いねぇな。産女じゃぁ、ねぇようだ。やっぱり読売は、あてにならねぇなぁ)


 読売には、妖怪・産女が本所に出る、と面白尽に書いてあった。それを知っていた男衆は、幽霊を目前にして驚き、産女と思い込んで逃げ出したのだろう。

 長喜の目の前に立っているのは、妖怪ではない。


(何かしらの無念を抱いて死んだ、女の死霊だな)


 白い影から感じる気這いは、恨みでも妬みでもない。只々、悲しい気持ちが伝わってくる。

 女の死霊が、長喜をじっと見詰めている。真っ白い頬に透明な涙が一筋、流れた。細い目は長喜に向いているが、違う何かを映しているように思える。

 ぞくりと、背中に寒気が走った。恐ろしいだの、驚くだのという感情ではない。あまりの美しさに、つい見惚れた。


(なんてぇ綺麗な泣き顔だ……。生身の人間にゃぁ、この美しさは、見付けられねぇ)


 我に返った長喜は、懐に手を突っ込むと、紙を取り出した。腰の矢立を引き抜き、筆に墨を含ませる。


「そのまんま、大人に待っていなよ。今から俺が、器量良しを描き写してやるからな」


 辺りにある手頃な大きさの石に、どっかりと腰を下ろすと、束になった紙に筆を滑らせた。泣く女を何度も凝視しては、描く。気に入らなければ破り捨て、また描く。

 四半刻ほど繰り返し、長喜はようやく筆を置いた。

 一つ息を吐き、自分の絵を眺める。死霊と見比べ、満足そうに頷いた。


「よっし、描き上がったぜ。そら、よっくと見ておくれな。これが、お前さんだ」


 長喜は女の死霊に向かい、自分が描いた絵を翳した。

 絵に見入った死霊が、ぽつりと零した。


『これが、私……。今の、私の、姿、なの……?』


 生気のない途切れ途切れの声に、長喜は頷く。


「そうさ、これが今のお前さんだ。だがよ、お前さんは俺の絵より、ずっと美人だぜ。生きていた頃もきっと、美人だったんだろうなぁ」


 しみじみと頷く長喜の手に、女の白い手が伸びた。小さく震える手に、絵を手渡す。

 じっくりと絵を見ていた女の目が、笑んで細まった。


『……こんなに……こんなに、綺麗に描いてくれて、ありがとう……』


 絵を胸に抱いた女が、嬉しさを噛みしめるように、目を瞑る。頬に、また一筋、涙が流れたが、先ほどとより熱を感じた。


「生きていた時に何があったかなんざ、聞かねぇが。こんな所にいるより、黄泉に逝くがいいぜ。そっちのが、お前さんは、きっと幸せさね」


 女が、にっこりして頷く。白い体が、透け始めた。夜の闇に死霊の体が溶ける。最後に残った涙の雫が、抱いた絵に、ぽたりと落ちた。

 すっかり何もいなくなった場所に、長喜の絵が、はらりと落ちた。


「黄泉じゃぁ、幸せになりなぁよ。達者でな」


 女の死霊を夜空に見送り、足元の絵に手を伸ばす。暗がりから別の白い腕が、にょきりと伸びた。どきり、として手を引っ込める。

見上げると兄弟子の歌麿が、長喜の絵を、まんじりと眺めていた。


「噂の産女の正体は、女の幽霊だったのけぇ。大層な美人だねぇ。あたしも、拝んでみたかったよ」


 歌麿の手の中で、幽霊の絵が青い灯火を纏う。人魂のように燃えて、ふわりと空を舞うと、死霊の後を追うように、夜の闇に溶けていった。


「まぁた、消えちまった。本に勿体ないよ。どうにか残す法は、ないのかねぇ」


 人魂と化した絵を見送りながら、歌麿が残念そうに呟く。


「俺にも、よくわからねぇしなぁ。消えちまうもんは、どうしようもねぇよ」


 死霊が黄泉に旅立つと、長喜の描いた絵は消える。仔細は、わからない。長喜自身は、あまり気に留めていなかったが、歌麿はいつも同じように未練を残す。

 足下に散らばる描き損じの絵を、歌麿が拾い上げた。


「これが残るのが、救いかねぇ。一番、巧い絵が消えるのは、残念だけれどねぇ」


 眉を下げる歌麿を、長喜はじっとりと眺めた。


「それより、歌麿あにぃ。何だって、こんな所にいるんだよ。兄ぃは、幽霊とか妖が不得手だろうが。てぇか、見えねぇくせに」


 歌麿が狐目を細めて、にこりとした。


「見えないからこそ、だよ。たまたま、お前さんが走る姿を見付けたからねぇ。けて来たのさ。物臭の長喜が走るなんざ、妖絡みに決まっていらぁ。必ず、絵を描くはずだからねぇ」


 同じ鳥山石燕門下でありながら、歌麿は幽霊や妖怪の類が見えない。更に生来の怖がりだ。幽霊や妖怪がいると風聞が立つ場所には近付かない。しかし、絵が絡めば話は別だ。長喜が描く幽霊の絵を見るために、呼んでもいないのにやって来る。


(いつもの兄ぃだがなぁ……)


 困った気持ちで、ぽりぽりと頭を掻いた時。柳の揺れる向こうから、何かの気這いが流れてきた。先ほどの死霊とは、風の匂いが全く違う。背筋が寒くなるのを感じながら、長喜は後ろを振り返った。

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