──季節は3月下旬。
今日はよく晴れ、カラリとした乾いた空気に満ちた日曜日。
メイドのようなフリフリエプロンドレスを着た
それからフローリングの床を丁寧にモップがけすると、体が映るほどにピカピカになり、それを見た由美香が
「
「そうかな、いつも由美香に言われて、手伝ってるからだぜ」
「いいえ、違うよ」
由美香が床を指でなぞり、俺の前に指を見せつける。
「ほら見てよ、チリが一つも付いてない。私がしたら、ここまで綺麗にはできないよ。竜太は凄いよ」
「そんなに誉めるようなことか?」
「うん、お姉ちゃんが保証する……あっ」
由美香が一瞬黙りこむ。
「ごめん、またお姉ちゃんって言っちゃったよ。いつもの癖で……私達、もう夫婦なのにね」
「なあに、俺は構わないぜ。もう慣れてるから。それに言いやすい方がいいだろ」
「……ごめんね」
「そんなに暗い顔をするなよ。
「……うん、ありがとう……」
「……んっ? 何か言ったか?」
「いいえ、何でもなーい♪」
さっきとはうってかわり、今度は万年の笑みで窓ガラスを拭き始める新妻。
次々と感情が変化する姿を見ながら、乙女心はよく分からないなと俺は感じていた。
****
「──ちわーす♪
お昼前の11時に玄関のチャイムが鳴り、備えつけのインターホンから、威勢の良い男性の声が話しかけてくる。
この悪ふざけな話し方は、頼朝の声に間違いない。
「はいはい、今開けるぜ」
俺は何事にも動じない冷静な判断で、玄関の鍵を外す。
「──竜太君、こんにちは♪」
「おう、美希。お疲れさん」
扉を開けて、お互いに挨拶を交わし、清楚な白いワンピースにピンクのカーディガンを羽織った美希を出迎える。
「……で、お前はそこで何やっているのさ?」
俺は、扉に爬虫類のように引っついている、ロングTシャツに茶色のボトム姿で醤油瓶を持った頼朝にも声をかけた。
「……お前、服が汚れるのもお構い無しか?」
「ふっ、気にするな。今の俺はヤモリの気分だ!」
「そうか、なら由美香が揚げた、豚カツやドーナツは要らないな。俺がペロリと食べ切ってやるぜ」
その言葉にシュルシュルと身を屈めて、地面にスライディングしながら、土下座をするヤモリ。
「ちょ、ちょっとタンマ。分かった、今のは無しだから!」
「なら、もうこんな悪ふざけはよせよ。俺らはもういい大人だろ……」
「ははっ、悪かったです。お
「誰がお代官だよっ! さあ、いいからさっさと部屋の中に入れよ!」
「ははっ、まさに
「だから、それはもういいってさ」
「──何、あの二人、ひそひそ……」
俺は良くても、日頃からご近所付き合いがある、専業主婦の由美香を困らせたくはない。
俺は近所の人々の痛々しい話し声を耳にしながら、
「ところで美希、ミコトはどこだ?」
「彼女なら、もうご飯食べてますわよ」
「はやっ、いつの間に?」
俺の心配をよそに、ミコトはちゃっかりと食卓に着席していて、早々にご飯をおかわりしていたのだった……。
****
「じゃあ、ご飯も食べましたし、どこか遊びに出掛けようか」
皿洗いを終えて、全てを食器乾燥機に入れて、ふきんで手を拭いた由美香が一つの提案を出す。
「賛成、近所の公園で桜でも見ましょう。全員ならえ!」
美希が浮かれ顔でみんなを見渡して、号令をかける。
いつから俺達は、彼女に従う兵隊になったのやら。
しかも、少しお酒が入っているせいか、みんなノリノリだな。
ちなみにミコトと、すぐ酔っ払う俺はレモンの炭酸ジュースだった……。
****
──俺達は徒歩で公園へと向かう。
歩いて数分先にある、
桜の花びらは満開に咲き乱れ、近くを流れる川に
「今年は少し遅れたけど、いつ見ても綺麗ですわね」
「美希ちゃんは桜が好きだもんね」
「ちょっとそれは心外ですわ。私は桜餅が好きなのですわよ」
美希がじゅるりとヨダレを垂らしそうになり、慌ててハンカチで拭う。
「でたー、妖怪食いしん坊魔女」
「頼朝、それは聞き捨てならないですわ!」
彼女に悪態をつき、とっとこと逃げ回る頼朝を追いかけ回している美希。
でも二人とも、その顔は喜びに満ちあふれていた。
「何かいいよね。こんな
「だな、俺達も子供ができたら、あんな風に仲良くはしゃぎたいぜ」
「あの……そのことなんだけど──きゃっ!?」
そこへ走ってきた、10歳くらいの学生服を着た男の子からタックルされて、軽く体をよろめかす由美香。
「大丈夫か、由美香──あのガキンチョめが……」
「私は平気だよ──あっ!?」
「どうかしたか?」
「……さっ、財布がないよ!」
「何だって、あのガキがスッたか!」
俺は、由美香を木陰に休ませ、さっきのぶつかってきた暴れ牛のような男の子を追った。
幸い、男の子の後を追うのは簡単だった。
ただ、体の作りが違うだけ。
10歳くらいの成長期の子供が、本気を出した大人に勝てるはずがない。
「わわっ!?」
俺は公園の公衆トイレの裏に行こうとした、男の子の首根っこをようやくの思いで掴む。
「はあ、はあっ……。手こずらせやがって。もう逃げられないぜ……さあ、財布を返せ!」
「ううっ……」
すると、男の子は涙目になり、その場で『うわーん』と泣き出したのだった……。
****
「うわーん。お姉ちゃん……このオジサンがいじめるよー!」
「違う、誤解だ! それに俺はオジサンじゃないぜ!」
「……騒がしいわね、一体、何の騒ぎよ?」
俺の前にボロボロのベージュのコートを着た、高校生くらいの女の子が公衆トイレの影から出てくる。
「なっ、
「
「もう、男の子が何泣いてるのよ──あっ、また人様の財布を盗んで!」
「だって姉ちゃんにごちそう食べさせたくて……」
「だからと言って、盗みは良くないわよ。楽をせず、真面目に働いてお金を貰うのが、
「うん」
「なら、その財布をお兄さんに今すぐ返しなさい──すみません、弟が失礼なことをいたしまして……あれ?」
俺は固まっていた。
まさか、このような奇跡が起こるとは。
「お兄さん? どうしました、もしもーし?」
「はっ、すまない。少し考えごとをしていたぜ……財布ありがとうな。あと、これは俺の気持ちだ。これで何か買いなよ」
恐らく生活が苦しいうえにやった行為なのだろう。
感傷的になった俺は五千円札を一枚、女の子に手渡す。
「あ、ありがとうございます。誠にすみません。
──ほら、繁もこっちにきて謝るのよ」
「うん」
「──オジサン、お財布盗んでごめんなさい」
男の子が女の子につられて、頭をペコリと下げていたが、俺は最後まで上の空だった……。
****
「──ただの同姓同名だったみたいね」
気が付くと俺の隣には、事の
過去に弥生と繁との繋がりがあった少女は、二人と同じ呼び名の子供が視界から消えるまで、
「……ミコトか。あんな不思議な偶然もあるんだな」
「まあ、それが世の中ってやつよ。でも終わったことはもういいのよ。これからは未来を築いていけばいいんだから。
それより、みんなが雨が降りそうだから
ふと、空が曇ってくる気配を感じる。
どうやら一雨きそうな天気だ。
「ああ、そうだな……」
俺は桜の花びらの地面へと足を踏み込みながら、由美香達がいる場所まで戻ることにした。